スイス・オランダの独立とは、ヨーロッパの近世が形づくられていく過程で、スイスが神聖ローマ帝国(実際には皇帝権力)から、オランダがスペイン(ハプスブルク家の支配)から、それぞれ独立国家として国際的に認められていく流れをまとめた言い方です。二つの独立は別々の歴史を持ちますが、どちらもハプスブルク家が強い影響力を持った時代に、地方の自治や宗教、商業の利益を守ろうとする動きが、戦争と条約を経て「独立の承認」へ結びついた点で共通しています。そして最終的に1648年のウェストファリア条約(ヴェストファーレン条約)で、スイスの独立とオランダ共和国の独立が国際的に確認されることで、ヨーロッパの政治地図が大きく固まりました。
スイスは、アルプス山脈周辺の小さな共同体が結んだ盟約(同盟)を基礎に発展し、ハプスブルク家の支配や周辺勢力の介入をはね返しながら自治を拡大していきました。オランダは、北海沿岸の都市と商業が発達した地域で、宗教改革の広がりとスペインの統治強化が衝突した結果、八十年戦争(ネーデルラント独立戦争)に突入し、共和国として独立を勝ち取ります。両者は「王がいない共和国」として語られることもあり、近世の国家像や国際秩序の形成に大きな影響を与えました。
ここでは、オランダ独立の経緯、スイス独立の経緯、そして1648年に両者の独立がどのように整理されたのかを、時間の流れに沿って押さえていきます。
背景:ハプスブルク家の拡大と宗教改革が生んだ緊張
15〜16世紀のヨーロッパでは、ハプスブルク家が婚姻政策と相続を通じて広大な領域を支配するようになり、「ヨーロッパの大国」として存在感を強めました。特にカール5世(神聖ローマ皇帝でありスペイン王でもあった)は、スペイン、ネーデルラント、イタリアの一部、そして神聖ローマ帝国内の多くの領邦に影響を及ぼし、巨大な複合国家を動かす立場にありました。ただし、この広さは統治の難しさも意味します。地域ごとに法や特権、自治の伝統が異なり、中央集権的な統治を進めれば進めるほど反発が生まれやすかったのです。
そこに16世紀の宗教改革が重なります。ルター派やカルヴァン派の広がりは、単なる信仰の違いにとどまらず、政治的な結びつきや経済的利害とも絡みました。君主や都市が新教を受け入れることは、教会財産の再配分や中央権力への抵抗にもつながりやすく、旧教側はそれを「秩序の崩壊」とみなして抑えようとします。オランダの独立は、カルヴァン派の影響が強い地域とスペイン王権の対立として表れ、スイスの独立は、より長い自治の積み重ねが、神聖ローマ帝国の枠組みから実質的に離れていく形で進みました。
また、近世の戦争は「宗教戦争」と呼ばれることが多い一方で、実際には交易路、港湾、税収、軍事上の要衝といった現実の利害が強く関係していました。オランダは北海交易の中心であり、スイスはアルプスの峠道を押さえる地理的要地でした。どちらも周辺大国にとって魅力的で、同時に、住民にとっては「外からの支配を受けたくない」理由がはっきりしていた地域でもあります。
オランダの独立:八十年戦争と共和国の成立
オランダ独立の舞台は、当時「ネーデルラント」と呼ばれた低地地方です。ここは都市が密集し、手工業と商業、金融が発達した地域で、スペイン王(ハプスブルク家)の支配下にありながらも、州(プロヴィンス)ごとの特権や自治が強く意識されていました。ところが16世紀後半、スペインは財政難の中で課税を強め、宗教的にも異端取締りを厳しくし、中央から総督や官僚を送り込んで統治を引き締めようとします。これが地域社会の反発を強めました。
反発が武力対立へ発展する大きな転機の一つが1560年代後半で、偶像破壊運動や弾圧の激化を背景に、各地で緊張が高まります。スペイン側はアルバ公を派遣して厳しい統治と処刑を行い、これが「恐怖政治」として記憶され、抵抗の火を消しにくくしました。抵抗運動の象徴的指導者として登場するのがオラニエ公ウィレム(沈黙公)で、彼は宗教の寛容や地域の特権の維持を掲げつつ、スペイン支配に対抗する政治的中心になっていきます。
戦争は長期化し、地域も二分されます。1579年、北部州を中心にユトレヒト同盟が結ばれ、共同でスペインに抵抗する枠組みが整います。これに対して南部はアラス同盟を結び、旧教とスペイン王への忠誠を軸に再結集する動きを見せ、ネーデルラントは北と南で政治的に分かれていきます。1581年には北側が「離反宣言」(プラッカート・ファン・フェルラーテ)によってスペイン王を主君として認めないことを宣言し、ここで独立の意思が明確になります。
その後、北部の諸州は「連合共和国」(一般にオランダ共和国、正式にはネーデルラント連邦共和国)として実質的な国家運営を行い、海上貿易と植民地活動を拡大していきます。国内ではカルヴァン派が強い影響を持ちますが、商業都市としての性格から、一定の宗教的寛容が保たれたことも特徴です。とはいえ独立はすぐに国際的に完全承認されたわけではなく、スペインとの戦争状態は続き、1609年に十二年停戦が成立して一時的に休戦します。最終的に独立が国際的に確定するのが1648年で、スペインとオランダ共和国の間で結ばれたミュンスター条約(ウェストファリア条約を構成する条約の一つ)によって、スペインが共和国の独立を認める形になります。
スイスの独立:盟約者団から「帝国の外」へ
スイスの独立は、オランダのように16世紀後半から始まる一つの独立戦争で一気に決まったというより、もっと長い時間をかけて「実質的に帝国から離れていく」過程として理解すると分かりやすいです。出発点としてよく挙げられるのは、13世紀末から14世紀初頭にかけて、アルプス周辺の共同体が自治を守るために結んだ盟約です。これが後に「スイス盟約者団(旧盟約者団)」と呼ばれるまとまりへ発展していきます。
当時、周辺の有力勢力の一つがハプスブルク家で、アルプス北側から勢力を広げようとしていました。山岳地帯の共同体は、外から代官を置かれて支配されることを嫌い、自治と慣習を守ろうとします。こうした緊張の中で、スイス側は戦いを通じて自立性を高め、周辺都市や地域も同盟に加わっていきます。15世紀にはブルゴーニュ戦争などを通じて軍事的評価も高まり、スイスは雇佣兵(スイス傭兵)の供給地としても知られるようになります。
スイスと神聖ローマ帝国の関係を決定的に変える要素の一つが、1499年のシュヴァーベン戦争(スイス戦争)です。この戦いでスイス盟約者団は皇帝側の勢力と戦い、バーゼルの和約によって、帝国裁判権の及び方などで大きな例外的地位を得たとされます。つまり形式上は帝国内に位置づけられながらも、実際には帝国の法的統制から距離を取り、独自の政治運営を強めていきます。ここに「事実上の独立」が進んだと理解できます。
16世紀になると宗教改革がスイスにも波及し、チューリヒのツヴィングリやジュネーヴのカルヴァン(後にジュネーヴが改革派の中心となる)など、地域ごとに新教が広がります。一方で旧教を維持する州もあり、スイス内部では宗派対立が生まれ、内戦的な衝突も経験します。それでもスイスは大国の戦争に深く巻き込まれることを避けようとし、外交的には「中立」に近い立場を形成していく土台が整っていきました。
そして17世紀前半の三十年戦争(1618〜1648年)は、帝国内の宗教・権力対立が欧州全体を巻き込む大戦争となり、スイスの位置づけも改めて問題になります。スイスは戦争の主戦場からは外れやすかったものの、周辺諸国の軍事・外交の動きと無関係ではいられませんでした。最終的に1648年のウェストファリア条約で、スイスは神聖ローマ帝国からの独立が国際的に承認され、帝国の枠組みの外にある存在として整理されます。ここで「長く実質的に自立していた状態」が、条約によって明確な国際的地位として確認された、と捉えると理解しやすいです。
1648年とその整理:ウェストファリア条約が示した二つの独立
スイスとオランダの独立が同じ年に確認されるのは偶然ではなく、1648年のウェストファリア条約が「三十年戦争」と「八十年戦争」という二つの長期的対立を、まとめて終結させる枠組みになったからです。ウェストファリア条約は一つの文書ではなく、複数の条約の総称で、神聖ローマ帝国内の宗教問題と領邦の権利、フランスやスウェーデンの獲得、そして周辺諸国との講和が組み合わさって成立しました。その中で、オランダとスペインの講和(ミュンスター条約)によってオランダ共和国の独立が認められ、同時にスイスについても帝国から独立した存在として扱われることが明確になります。
オランダの場合、独立の承認は「スペインが主権を放棄した」という形で表れます。長年の戦争を経て、共和国が事実上国家として機能していたことが、条約で追認された形です。これによりオランダは国際社会で正式に独立国として扱われ、以後、海上貿易や植民地経営を背景に強い影響力を持つ時代へ入ります。イギリスやフランスとの競争が激しくなるのも、こうした独立と発展の延長線上にあります。
スイスの場合は、帝国内の領邦のように皇帝の枠組みで位置づけられるのではなく、帝国の裁判権や制度の外にある独立体として扱われることが重要です。スイスはもともと「盟約者団」というゆるやかな同盟で、後世の統一国家のような中央集権国家ではありませんでした。それでも、外からの介入を退け、独自の政治運営を長く続けてきたことが、1648年の国際的合意の中で確認されます。つまりスイスの独立は、単なる国境線の確定というより、帝国という巨大な枠組みから離れた政治体としての承認だといえます。
このように、スイス・オランダの独立は、近世ヨーロッパが「帝国的な普遍秩序」から「複数の主権的な政治体が並び立つ秩序」へ移っていく流れの中で整理されました。重要なのは、両者が同じ方向へ進んだわけではなく、それぞれの社会と地理、宗教状況、経済構造に応じた道筋で独立に至り、条約によってその状態が国際政治の中で位置づけられた、という点です。独立の承認はゴールであると同時に、その後の外交と競争の新しいスタートでもあり、1648年は二つの地域が「国際秩序の中での名前」をはっきり持つ節目になりました。

