スタイン – 世界史用語集

スタインは、世界史(とくに中央アジア史・シルクロード史)の文脈では、ハンガリー生まれでイギリスの考古学者・探検家となったオーレル・スタイン(Sir Marc Aurel Stein, 1862〜1943年)を指すのが一般的です。スタインは20世紀初頭に、タクラマカン砂漠周辺や敦煌(とんこう)などを舞台に複数回の大規模な探検・発掘を行い、古代のオアシス都市遺跡や膨大な文書・仏教美術をヨーロッパにもたらしました。とくに敦煌の莫高窟(ばっこうくつ)で見つかった「蔵経洞(ぞうきょうどう)」の文書群をめぐる出来事は、シルクロード研究の大きな転機になると同時に、文化財の持ち出し(略奪・収奪)をどう考えるかという現代的な問題を強く突きつけるものでもあります。

スタインの活動は「古代のロマンを追う探検」のように語られがちですが、実際には当時の国際政治とも深く結びついていました。19世紀末から20世紀初頭の中央アジアは、ロシア帝国とイギリス帝国が勢力を競い合う「グレート・ゲーム」の舞台で、学術探検は純粋な研究だけでなく、地理情報の収集や地域理解の強化という政治的意味も帯びやすい状況でした。スタインは学者として遺跡を調査し、文書を読み解く一方で、帝国の知のネットワークの中で動いた人物でもあります。だからこそ、彼の功績は「研究の進歩」と「帝国主義的な知の獲得」の両面から評価されます。

一方で、スタインが残したものは非常に大きいです。砂漠の下に埋もれていたオアシス都市の姿、木簡や紙文書に残る行政・生活の記録、仏教壁画や塑像の様式、シルクロード交易が運んだ物質文化など、当時の中央アジアがいかに多言語・多宗教・多民族の交差点だったかを、具体的な資料として示しました。スタインの報告書や地図作成も含め、彼の成果は今日の研究の土台の一部になっています。スタインという用語は、シルクロード研究の成立史、近代の考古学探検の時代、そして文化財をめぐる倫理の問題を一つに結びつけて理解するためのキーワードです。

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人物像と時代背景:探検の黄金期と帝国の知

オーレル・スタインは1862年に生まれ、ヨーロッパの古典学・東洋学の潮流の中で教育を受け、やがてイギリス帝国の統治下にあったインドで学術活動の基盤を得ます。彼の経歴の特徴は、大学の書斎だけで完結する学者ではなく、フィールド(現地)へ出て資料を集め、地理や遺跡を自分の目で確かめる研究者だった点です。19世紀後半から20世紀初頭にかけては、エジプト学やメソポタミア考古学なども含め、各地で「古代文明を掘り出す」動きが活発化し、学術探検が国家や博物館の威信と結びつく時代でした。中央アジアもその例外ではなく、広大な砂漠とオアシスの世界は、未知の古代を秘めた場所として欧米の研究者を引きつけました。

ただし、中央アジアの探検はロマンだけでは動きません。イギリスとロシアの勢力争いの中で、地理調査や交通路の把握、地域社会の情報は戦略的価値を持ちました。学者が集めた地図や記録は、研究成果であると同時に、帝国が世界を理解し管理するための「知の資源」にもなります。スタインは直接の軍人ではありませんが、帝国的な枠組みの中で活動を支えられ、その枠組みの中で成果を発表しました。ここが、彼を単なる学者としてだけでなく、近代帝国主義の時代における知の担い手として捉えるポイントになります。

また当時は、写真技術や測量技術、地図作成の方法が発達し、探検が「科学的記録」を伴う形へ変化していました。スタインは遺跡の位置や地形を詳細に記録し、文書を収集するだけでなく、遺跡の状況を撮影・図化し、報告としてまとめています。後世の研究者が現地の変化を比較できるのは、こうした記録が残されたからでもあります。探検が冒険の物語ではなく、データを残す学術活動へ移行していく過程を体現したのがスタインだともいえます。

探検と発掘の成果:タクラマカンのオアシス遺跡とシルクロードの実像

スタインの活動でよく語られる舞台は、タリム盆地(現在の新疆ウイグル自治区一帯)を中心とするオアシス地域です。ここは砂漠と山脈に挟まれ、古代から交易路(シルクロード)の節点となる都市が点在しました。気候が乾燥しているため、木簡や紙文書、布、木製品など、本来は腐りやすい資料が残りやすいという利点があります。スタインはこうした環境に着目し、遺跡を探し当てて調査を進めました。

具体的には、楼蘭(ろうらん)周辺やニヤ、ミーランなどの遺跡で、住居跡や倉庫跡、木簡文書などを発見・収集し、オアシス都市がどのように行政を行い、交易と税、軍事や治安を支えたかを示す資料を持ち帰りました。これらの資料は、シルクロードが単なる「絹の道」ではなく、行政文書が行き交い、多言語の世界が重なり、宗教と政治が絡む生活空間だったことを具体的に示します。仏教の伝来や寺院活動の痕跡が見える一方で、日々の取引や家族生活の断片も残り、古代中央アジアの社会が立体的に浮かび上がります。

スタインの探検の価値は、遺跡の“発見”だけではありません。砂漠に埋もれた遺跡は風や開発で失われやすく、当時の記録は、後に遺跡が損傷した場合でも研究を続ける手がかりになります。また、遺跡の分布を広域で把握することで、交易路がどのように変化し、都市が興亡し、環境条件(河川の流路変化など)が人々の移動をどう左右したかを考える土台も整いました。シルクロード史が「王朝の外交史」だけでなく、「環境と都市の盛衰」「生活と行政」の歴史として研究されるようになる流れに、スタインの成果は大きく関わっています。

ただし、発掘の方法や保存の考え方は当時と現代で違います。20世紀初頭は、文化財保護の国際的な枠組みがまだ弱く、発掘資料を本国の博物館へ移すことが当然視されやすい時代でした。スタインが現地で行った作業は、今日の基準で見ると問題点も指摘されますが、同時に当時の技術と制度の中で「できるだけ記録しよう」とする姿勢も見られます。評価は一方向に決めつけるより、時代背景と成果の両方を押さえる必要があります。

敦煌と蔵経洞:文書の発見がもたらした衝撃と論争

スタインの名が特に知られるきっかけになったのが、敦煌の莫高窟での出来事です。莫高窟は仏教石窟寺院として有名ですが、そこで発見された蔵経洞(いわゆる「文書の洞窟」)には、仏教経典だけでなく、行政文書、手紙、契約、文学作品、絵画など、膨大な資料が封じ込められていました。これらは唐代から宋代にかけての資料が多く含まれるとされ、中央アジアから中国西北部にかけての文化交流と社会の具体像を示す宝庫でした。

スタインは1907年に敦煌を訪れ、蔵経洞の管理に関わっていた人物(一般に道士の王円籙として知られます)と交渉し、大量の文書や絵画資料を入手して国外へ持ち出しました。これによって、西欧の研究機関で敦煌文書の研究が一気に進み、言語学・宗教史・美術史・社会史など多方面で大きな成果が生まれます。シルクロード研究の視野が広がった点で、敦煌文書は決定的な役割を果たしました。

しかし同時に、この出来事は「文化財の持ち出し」をめぐる激しい論争も生みます。現地の知識人や後の中国側の立場から見ると、蔵経洞の資料は本来その土地の文化遺産であり、不透明な条件で海外へ流出したという認識が強くなります。スタインの側には「当時の現地では保存体制が弱く、散逸や破損を防ぐために研究機関へ移した」という理屈があったとしても、権力関係の不均衡の中で交渉が行われた可能性は否定できません。ここに、近代の考古学探検が持つ構造的な問題が表れます。

重要なのは、敦煌文書が「研究の進歩」と「文化財の喪失感」を同時に生んだ点です。海外に分散したことで、各国で研究が進んだ一方、資料が一カ所にまとまって残らなかったことは、保存と継承の観点では大きな課題になりました。現代では、デジタル化や国際共同研究によって、分散資料を横断的に閲覧できる環境づくりが進んでいますが、その背景には、スタインの時代に起きた持ち出しの歴史が横たわっています。スタインを語るとき、敦煌は功績と批判が最も強く交差する場面として避けて通れません。

評価と意味:シルクロード研究の基礎と、文化財をめぐる現代的問い

スタインの評価は、立場によって大きく変わります。研究史の観点からは、彼が集めた文書・遺物・記録がシルクロード研究の基礎を作り、多言語資料の解読や遺跡の地理学的理解を飛躍させた功績は大きいです。乾燥地帯の遺跡を広域に調査し、遺物を体系的に整理して報告するスタイルは、後の中央アジア考古学の方法論にも影響しました。彼の記録が残っていることで、現在は失われた遺跡の姿が分かる場合もあります。

一方、文化財保護と倫理の観点からは、帝国主義の時代に行われた大規模な収集が、地域社会の同意や主権の観点で問題を含んでいたことが指摘されます。特に敦煌の文書のように、宗教・歴史・言語の貴重な資料が海外へ移ったことは、現地の文化継承にとって痛手だったという見方があります。ここでは「当時は仕方がなかった」と片づけるより、なぜそのような行為が可能だったのか、学術と政治、博物館と帝国の関係がどう組み合わさっていたのかを考えることが重要です。

スタインという用語は、こうした複数の論点を一つにまとめて示します。シルクロードの古代都市が砂漠の下から姿を現し、紙と木簡に残された人々の声が現代へ届くようになった背景には、スタインのような探検家の活動がありました。その一方で、その活動は世界の不均衡の中で行われ、文化財が国境を越えて移動する歴史を生みました。スタインを理解することは、シルクロード史を「古代の交流史」として見るだけでなく、近代以後の学術・帝国・文化財の問題まで含めて、歴史のつながりとして捉えることにつながります。

まとめれば、スタインは20世紀初頭の中央アジア探検・考古学調査の中心人物で、タクラマカン周辺の遺跡調査や敦煌文書の入手を通じてシルクロード研究を大きく前進させました。同時に、文化財の国外流出という問題を象徴する人物でもあり、功績と批判が並んで語られる存在です。世界史用語としての「スタイン」は、シルクロードの学術的発見の歴史と、近代の国際関係が学問に与えた影響を理解するための重要なキーワードです。