新移民(アメリカ) – 世界史用語集

「新移民(しんいみん)」とは、19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカ合衆国に大量に流入した移民のうち、とくに南・東ヨーロッパやアジアなど、従来の移民とは出身地・宗教・文化が異なる人びとをさす歴史用語です。アメリカ史では、おおむね1880年代以降、20世紀初頭(第一次世界大戦前後)までに到来した移民を指して用いられ、「旧移民(きゅういみん、old immigrants)」と対比されます。旧移民が主としてイギリス・ドイツ・スカンジナビアなど北・西ヨーロッパのプロテスタント系だったのに対し、新移民はイタリア・オーストリア=ハンガリー帝国・ロシア帝国・ポーランド・バルカン半島などからのカトリックや東方正教徒、さらにはユダヤ人やアジア系の人びとを多く含んでいました。

新移民は、急速に工業化・都市化していたアメリカの工場労働者・鉱山労働者・建設労働者などとして受け入れられ、アメリカ経済の発展を支える重要な役割を果たしました。その一方で、言語や宗教、生活習慣の違いは既存社会との摩擦を生み、排外的なナショナリズム(ネイティビズム)や移民制限法の成立を促す要因ともなりました。世界史の教科書では、エリス島を通じた大量移民、ニューヨークやシカゴの移民街、そして1920年代の移民制限立法とあわせて、この「新移民」という用語が登場します。

以下では、まず旧移民との違いと新移民流入の背景を整理し、つづいて新移民の生活とアメリカ社会への影響、さらに反移民感情と移民制限立法の展開、最後に世界史的意義とその後のアメリカ社会とのつながりについて順に見ていきます。

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旧移民との違いと流入の背景

19世紀前半のアメリカにやって来た移民は、主に北・西ヨーロッパ出身でした。イギリス・スコットランド・アイルランド・ドイツ・スウェーデンなどから、プロテスタントの農民や職人が多く渡ってきており、彼らはしばしば「旧移民」と呼ばれます。母語は英語またはゲルマン系言語で、宗教もプロテスタントが中心だったため、文化的にはアメリカの支配的多数派(WASP=白人アングロサクソン系プロテスタント)に比較的近い存在とみなされていました。

これに対して、「新移民」と呼ばれる人びとは、19世紀末から20世紀初頭にかけて急増しました。彼らの多くは、南ヨーロッパ(イタリア・ギリシア・スペイン)、東ヨーロッパ(ロシア帝国領のポーランド・ウクライナ・バルト諸地方、オーストリア=ハンガリー帝国内のチェコ・スロバキア・ハンガリー・クロアチアなど)、バルカン地方(セルビア・ルーマニア・ブルガリアなど)出身でした。宗教的にはローマ=カトリックや東方正教会、さらにはユダヤ教などが多く、言語的にも多様でした。

こうした新移民の流入を押し出した「押し出し要因」としては、ヨーロッパでの農業不振や人口増加、工業化による農村の貧困化、地主制のもとでの小作農の生活苦などが挙げられます。とくに東ヨーロッパでは、ロシア帝国によるユダヤ人迫害(ポグロム)や民族的抑圧から逃れようとして移住を決意した人びとも多くいました。また、徴兵制から逃れたい若者がアメリカを目指す例も少なくありませんでした。

一方で、アメリカ側にも「引き寄せ要因」がありました。南北戦争後のアメリカは工業化が急激に進み、鉄鋼・機械・繊維・鉱業など、多くの産業で大量の安価な労働力が求められていました。鉄道網の拡大や都市インフラの整備も、建設労働者や鉱山労働者を必要としていました。さらに、蒸気船の普及により大西洋横断の時間と費用が大幅に下がったことも、大量移民を後押ししました。

このような押し出し要因と引き寄せ要因が重なり、1880年代以降、年間数十万人規模の移民がアメリカに流入するようになります。彼らの多くはニューヨーク港のエリス島で健康検査や簡単な審査を受け、そこからニューヨークやボストン、フィラデルフィア、シカゴなどの都市へと向かいました。西海岸では、中国人・日本人・韓国人などアジア系労働者が鉄道建設や農園労働に従事し、こちらもまた「新移民」の一部として捉えられます。

新移民の生活とアメリカ社会への影響

新移民の多くは、到着後すぐに都市の安アパート(テネメント)やスラム街に住み、低賃金の単純労働に就きました。服飾・家具・食品などの小規模工場や、縫製業の「スウェットショップ」、炭鉱や鉄鋼工場の危険な仕事などは、しばしば新移民に依存していました。労働時間は長く、賃金は低く、安全基準も十分でないため、事故や病気が多発しました。

それでも、多くの新移民にとってアメリカは「チャンスの国」でもありました。故郷で土地を持てずに苦しんでいた農民が、賃金労働者として現金収入を得たり、やがて小さな商店を開いたりする例もありました。また、子どもたちは公立学校で英語を習い、親世代よりも高い教育を受けて社会的上昇を果たすこともできました。このため、移民コミュニティ内部には、「アメリカンドリーム」を信じて努力する雰囲気も広がっていきます。

新移民は、都市の特定地域に集住し、故郷の言葉と文化を保つ「民族街(エスニック・エンクレーブ)」を形成しました。ニューヨークのリトル・イタリー、ロウアー・イーストサイドのユダヤ人街、ポーランド系やチェコ系の地区などがその代表例です。そこでは、母語で話される教会・シナゴーグ・学校・新聞社・互助会が存在し、新移民にとっての「安心できる居場所」となりました。

同時に、新移民の文化はアメリカ社会全体にも影響を与えました。食文化の面では、イタリア系移民がもたらしたパスタやピザ、ドイツ・東欧系が広めたソーセージやベーグルなどが、次第に一般化していきます。音楽や芸術、スポーツの世界でも、新移民の子孫たちは重要な役割を果たしました。このように、アメリカ文化は多様な移民文化が混じり合って形成されており、「人種のるつぼ(メルティング・ポット)」という比喩は、まさに新移民の時代の経験を背景に生まれた表現です。

一方で、新移民の増加は、労働市場での競争や都市の過密化、治安悪化などの問題をめぐって、既存のアメリカ人との摩擦を生みました。とくに、賃金の低い仕事を大量の移民が引き受けることは、既存労働者の賃金低下への不安と結びつき、「移民が仕事を奪っている」という不満を生みました。労働運動の内部でも、移民労働者をどのように組織し、団結させるかという課題が存在しました。

宗教面でも、カトリックや東方正教、ユダヤ教の存在は、プロテスタント多数派にとって不安材料となりました。カトリック教会への忠誠がアメリカ合衆国への忠誠と矛盾するのではないか、ユダヤ人は「異質な民族」ではないか、といった偏見が広まりました。これらの感情は、やがて「真のアメリカ人とは誰か」という排外的な議論につながっていきます。

反移民感情と移民制限立法

新移民の大量流入に対する反発は、19世紀末から20世紀初頭にかけて「ネイティビズム(先住白人中心主義)」として組織的な形をとるようになります。ネイティビストたちは、アングロサクソン系プロテスタントこそが「本来のアメリカ人」であり、南・東ヨーロッパやアジアからの移民は文化的に劣っている、あるいは民主主義に適さないと主張しました。彼らは、人種主義的な「科学」や優生学、社会ダーウィニズムを援用し、新移民を低く評価する理論を展開しました。

こうした雰囲気の中で、移民制限を求める団体が結成されます。たとえば、1880年代にはアメリカ保護協会(APA)がカトリック移民への反対を訴え、1890年代には移民制限同盟が南・東ヨーロッパからの移民に対する識字テストなどを提案しました。西海岸では、中国人労働者への憎悪が高まり、すでに1882年には中国人排斥法が制定され、中国人移民がほぼ完全に禁止されています。1907年の日米紳士協定では、日本政府側からの旅券発給制限という形で、日本人移民の新規流入も事実上抑えられました。

東海岸でも、第一次世界大戦前後になると、ドイツ系やイタリア系など敵国・中立国出身者への疑念が高まり、「アメリカ化運動」と呼ばれる同化圧力が強まります。戦後は、ボリシェヴィキ革命の影響への恐怖(レッド・スケア)も加わり、社会主義や無政府主義と結びつけられた新移民に対する警戒がさらに強まりました。

こうした流れの頂点に位置するのが、1920年代の移民制限立法です。1921年の緊急移民制限法では、出身国ごとに入国枠(クオータ)が設定され、すでにアメリカに定住している同国人の比率にもとづいて新たな移民数が制限されました。続く1924年の移民法(ジョンソン=リード法)では、このクオータ制がさらに厳格化され、基準年を19世紀末にさかのぼらせることで、南・東ヨーロッパ出身者の枠を大幅に減らし、北・西ヨーロッパ系を優遇する仕組みが作られました。また、この法律ではアジアからの移民は原則として全面禁止(アジア人排斥)とされました。

こうして、1920年代の段階で「新移民の大波」はほぼ収束し、アメリカの移民政策は約40年間にわたって厳しい制限の時代に入ります。この時期のアメリカ社会は、内部では黒人の大移動(グレート・ミグレーション)や都市文化の発展など新たな変化を経験しますが、海外からの新たな移民流入は大幅に抑えられました。

世界史上の意義とその後

新移民の時代は、アメリカ合衆国が「移民の国」としての姿をもっともはっきりとした形で経験した時期の一つでした。アイルランド系・ドイツ系に続き、イタリア系・ポーランド系・ロシア系・ユダヤ系など多様な出身を持つ人びとがアメリカ社会に加わり、それぞれの文化や宗教を持ち込みながら、同時に英語やアメリカ的価値観を学んでいきました。その結果として生まれた「多民族国家としてのアメリカ」の姿は、20世紀以降の世界史を理解するうえで欠かせない要素です。

同時に、新移民に対する反発と移民制限の動きは、近代国家における「国民」と「他者」の境界線をどう引くかという問題を浮き彫りにしました。誰を「アメリカ人」と見なし、誰を「外部の他者」と見なすのか。血統・文化・宗教・言語・政治理念など、さまざまな基準が持ち出され、時代によって基準は揺れ動きました。1920年代の移民制限立法は、「白人アングロサクソン系プロテスタント」を中心とする国民像を法制度のうえから固定化しようとする試みだったとも言えます。

しかし、第二次世界大戦後、アメリカ社会は再び変化します。公民権運動や人種差別への反省、冷戦期のイメージ戦略などを背景に、1965年の新移民法(ハート=セラー法)では国別クオータ制が撤廃され、アジア・ラテンアメリカからの移民が再び大規模に流入するようになります。この「1965年以降の新しい移民」の時代も、しばしば「ニュー・イミグレーション」と呼ばれますが、19〜20世紀初頭の新移民とは区別して理解する必要があります。

世界史の学習において「新移民(アメリカ)」という用語に出会ったときには、単に「南・東ヨーロッパ系移民」という出身地域だけでなく、(1) 工業化と人口移動が生んだ大量移民の時代、(2) エリス島や都市の移民街に象徴される移民の日常生活と文化、(3) ネイティビズムや人種主義にもとづく反移民感情と法的制限、(4) 多民族国家としてのアメリカが模索した「国民の境界線」の問題、といった側面を合わせて思い浮かべるとよいです。そのうえで、近代世界全体における人口移動・ディアスポラ・ナショナリズムの問題とつなげて考えると、この用語の意味がより立体的に見えてきます。