【ロシアの歴史】キエフ大公国の成立まで:東スラヴ世界の誕生と変遷

キエフ大公国の成立まで:東スラヴ世界の誕生と変遷 ロシア
キエフ大公国の成立まで:東スラヴ世界の誕生と変遷

キエフ大公国の成立は、後のロシア、ウクライナ、ベラルーシといった東スラヴ諸国家の起源とされ、東ヨーロッパ世界における重要な転換点として位置づけられています。しかしその成立は決して一朝一夕の出来事ではなく、スラヴ人の起源と拡散、交易路の発達、異民族との接触、さらには宗教的な選択といった複雑な歴史の積み重ねの上に成り立ったものでした。特に6世紀以降、東スラヴ人は広大な森林と川のネットワークを通じて急速に拡散し、やがて北欧のヴァリャーグやビザンツ帝国と結びつく中で、政治的な統合を模索していきます。本稿では、キエフ大公国の成立に至るまでの長い歴史の流れを、リューリクの招致からウラジーミルのキリスト教改宗に至るまで、できる限り詳細に、また丁寧にたどってまいります。

スポンサーリンク

東スラヴ人の起源と拡散

スラヴ人の起源は紀元前1千年紀後半の中欧にさかのぼると考えられています。おそらく現在のポーランド南部やウクライナ西部にあたる地域で農耕を営んでいた先史時代の人々が、ゲルマン民族やケルト民族の文化に影響を受けながら、次第にスラヴ的な特徴を形づくっていったものと推定されます。言語的な観点からは、インド・ヨーロッパ語族の中に属し、独自の音韻と文法体系を持つスラヴ語群が紀元前後には一定のまとまりを見せていたとされます。

6世紀の東ローマ(ビザンツ)史料には、すでにドナウ川流域やカルパチア山脈周辺に活動する「スクラヴェノイ」(スラヴ人)の存在が記録されており、彼らは定住地を離れて南や東へと急速に移動する民族として認識されていました。

6世紀から7世紀にかけて、スラヴ人はバルカン半島、中央ヨーロッパ、そして東欧全域に広がっていきました。特に現在のウクライナやロシア西部に当たる地域へは、東方スラヴ人が森林地帯を中心に拡散していきます。この過程は平和的な定住というよりも、遊牧民の圧力や環境的要因による移住、そして他の部族との武力衝突といった複合的な要素によって推進されたものでした。

このころの東スラヴ人は、主に農耕と牧畜、漁撈を基盤とした生活を営んでおり、定住集落の周囲には防御柵が築かれていました。社会構造としては氏族社会が存続しており、血縁による共同体が生活の単位となっていました。

交易と文化接触

東スラヴ人の居住地は、バルト海から黒海に至る水系に恵まれていたため、7世紀以降、これを活かした南北交易路が形成されていきます。この交易路はのちに「ヴァリャーグからギリシアへの道」と呼ばれることになりますが、初期の段階では主に毛皮、蜂蜜、蝋、奴隷といった物資を南へと運ぶものが中心でした。

この交易を担ったのは、スラヴ人自身のみならず、スカンディナヴィア系のヴァイキング(ルーシ人とも)であり、彼らはしばしば船を駆ってドニエプル川やヴォルホフ川を下り、ビザンツ帝国との接触を図っていました。

スカンディナヴィアのノルマン人は、8世紀末から9世紀にかけて西欧を襲撃しただけでなく、東欧においても積極的に進出しました。彼らは交易者としての顔を持つ一方で、軍事的な技量に長けた集団でもあり、しばしばスラヴの部族間抗争に介入することで影響力を拡大していきました。

ノヴゴロド周辺では、早くも9世紀初頭にはヴァリャーグの一団が拠点を築いていたとされ、スラヴの部族からは「秩序をもたらす者」として受け入れられる場合もあったようです。こうした背景の中、リューリクの登場という重大な転換点が訪れます。

ヴァリャーグのリューリクとノヴゴロドの台頭

9世紀中頃のノヴゴロド周辺には、スラヴ系のイリメニ・スラヴ人を中心とする農耕民が居住しており、彼らは自衛的な村落連合を築いていましたが、部族間の争いは絶えず、統一的な支配体制は存在していませんでした。

このような中で外来の勢力として浮上したのがヴァリャーグであり、彼らは傭兵として各地に雇われると同時に、交易路の掌握を通じて経済的にも影響力を持つようになっていきました。

『原初年代記』によれば、862年、スラヴ人たちは自らの内乱に疲弊し、「我らを治める公を探そう」としてヴァリャーグのリューリクをノヴゴロドに迎えたと伝えられています。これは神話的な要素を含む伝承ですが、実際に9世紀中頃に北方から強力な軍事的支配者がノヴゴロド周辺に進出し、諸部族を統合していったことは確かであると考えられます。

リューリクはノヴゴロドに拠点を築き、その周辺部に対する統治を強化していきました。彼の死後は親族や部下がその支配権を継承し、東方スラヴ世界の中心が次第にノヴゴロドから南方のキエフへと移動していくことになります。

オレグの南下とキエフの制圧

キエフは、ドニエプル川中流域に位置する天然の要害であり、北から黒海へと抜ける交易ルートの中継地として早くから繁栄していました。この地には先住のスラヴ系部族ポリャーネ人が居住しており、彼らは農耕民として豊かな土地を開墾し、交易にも携わっていました。

このキエフを制圧することで、北方のノヴゴロドと南方のビザンツを結ぶ「ギリシアへの道」の支配が可能となるため、軍事的・経済的な拠点としては非常に重要でした。

リューリクの死後、その部下オレグは後継者イーゴリを補佐しながら勢力を拡大し、882年にはキエフに進軍してこれを制圧します。キエフにいた支配者(アスコルドとディールとされる)を討ち、同地を新たな政権の中心と定めたことにより、いわゆるキエフ大公国が事実上成立したと見なされます。

オレグは「すべてのルーシの公」と称し、ノヴゴロドとキエフの統一を実現することで、北方から南方への交通と交易の安全を確保しました。また、ビザンツ帝国との外交関係にも乗り出し、商人たちの保護と交易権益の獲得に努めるなど、国制の整備に向けた第一歩を踏み出しました。

キエフ公国の形成と初期統治

オレグがキエフを掌握して以降、ノヴゴロドとキエフの二大都市を中心とした支配体制が構築され、やがてこの政治的共同体は「ルーシ(Русь)」と呼ばれるようになっていきました。この名称は、もともとはスカンディナヴィア系のヴァリャーグの一部に対して使われた呼称と考えられており、ビザンツ帝国の史料などにも見られます。

しかし、オレグの時代にはこの「ルーシ」が徐々にスラヴ人自身の国家名・民族名として定着し始めており、それはのちのロシア、ウクライナ、ベラルーシの共通祖形とされる重要な意識の変化でもありました。

オレグは軍事的手腕に優れていただけでなく、交易と外交においても巧みな手腕を発揮しました。彼はたびたび南下してビザンツ帝国との交渉に臨み、ついには911年に有利な通商条約を締結するに至ります。これは、ロシア語で書かれた最古の国際条約の一つとされ、商人の安全、関税の撤廃、外交使節の保護などが定められていました。

また、北方においても、バルト諸部族やフィン・ウゴル系の諸民族に対する影響力を保持しつつ、ドニエプル川水系全体を統合的に掌握する基盤を築いていきました。

イーゴリ1世とオリガの治世

オレグの死後、リューリクの実子イーゴリが正式に公位を継承します。彼は父リューリクに次ぐ王家の血統として認識されていたため、その支配には一定の正統性がありましたが、同時にオレグに比べて軍事的・政治的能力には乏しかったとも言われています。

イーゴリはビザンツとの関係維持を図る一方で、東方のステップ地帯に住む遊牧民ペチェネグ族や、北方のドレヴリャーネ人などとの戦いに苦しみました。最終的には945年、貢納をめぐる対立の中でドレヴリャーネ人に捕らえられ、惨殺されるという悲劇的な最期を遂げます。

夫イーゴリの死後、まだ幼かった息子スヴャトスラフに代わり、妻オリガが摂政として実権を握ります。彼女は復讐に燃え、ドレヴリャーネ人に対して苛烈な報復を行ったことで知られていますが、同時に内政改革者としても歴史に名を残しています。

オリガは税制の整理、国庫の管理強化、貢納制度の整備を行い、初期ルーシ国家の官僚的制度の確立に大きく貢献しました。加えて彼女はビザンツを訪れ、キリスト教に改宗しますが、この時点ではルーシ全体としての改宗には至りませんでした。それでも、キリスト教という新たな宗教が支配層に浸透していく端緒を築いたことは重要です。

スヴャトスラフの東方遠征と統合政策

オリガの息子であるスヴャトスラフは、母の摂政時代が終わるとすぐさま積極的な軍事行動に乗り出します。彼は極めて好戦的な性格で知られ、ルーシ史上最も活動的な戦士君主の一人でした。彼は「私は兵士である」と言い、ビザンツ、ブルガリア、ハザール、ペチェネグといった勢力との戦争を繰り広げます。

特に注目すべきは、ヴォルガ下流域のハザール汗国への遠征です。ハザールはかつてルーシの宗主的立場にありましたが、これを打破することでルーシの独立と地域覇権を確立したことは、政治的にも軍事的にも画期的な出来事でした。

スヴャトスラフは、キエフの防衛的脆弱性を認識しており、政治の中心をより南方、すなわちブルガリアのペレヤスラヴェツへと移す構想を持っていました。これはバルカン半島のビザンツ勢力と直接対峙し、南方交易を支配しようとする意図であったともされます。

しかし、彼の死は突然訪れます。ビザンツ遠征からの帰還途上、ペチェネグの待ち伏せを受け、977年に殺害されてしまいました。このことで遷都計画は頓挫し、再びキエフが中心地としての地位を保持することになります。

ウラジーミル大公の即位とキリスト教化の前夜

スヴャトスラフの死後、その息子たちの間で激しい内戦が勃発します。ヤロポルク、オレグ、そしてノヴゴロドにいたウラジーミルが争い、最終的にはウラジーミルが勝利して大公の座に就くことになります(980年)。彼はのちに「聖ウラジーミル」として尊崇されることになる人物です。

ウラジーミルはまず異母兄弟を打ち倒し、全ルーシの支配を掌握すると、スラヴ諸部族への支配を強化し、中央集権的な国家体制の確立に努めました。また、異教的儀式を再整備して祭祀を強化するなど、宗教的権威の再構築にも取り組みました。

ウラジーミルは当初、さまざまな宗教を比較検討したと言われています。イスラム教、ユダヤ教、西方キリスト教、そして東方正教会(ビザンツ)のいずれも使節が訪れ、布教を試みました。その中で彼が最終的に選んだのはビザンツの正教会であり、それは地政学的にも文化的にも妥当な選択でした。

988年、ウラジーミルは公式にキリスト教に改宗し、キエフの民衆にも洗礼を強制的に行います。これにより、ルーシ全体においてキリスト教が国教として根づき始めることになり、ここに東スラヴ世界はヨーロッパのキリスト教文明圏の一角を占める存在となるのです。

キエフ大公国成立の意味とその後の展望

キエフ大公国の成立とは、単なる一都市の支配拡大ではなく、広大な東欧森林地帯に散在していたスラヴ部族が、共通の言語と文化を背景に統合されていく過程の象徴でもありました。リューリク朝のもとでヴァリャーグ、スラヴ、ビザンツ、遊牧民との接触と対峙が繰り返される中で、やがて「ルーシ」という国家意識が育まれていったのです。

このキエフ大公国は11世紀から12世紀にかけて文化的黄金時代を迎え、スラヴ世界の精神的・政治的中心となります。そしてこの国の記憶は、のちのモスクワ大公国、ロシア帝国、そして現代のロシア・ウクライナのアイデンティティの基盤として、長く受け継がれていくこととなるのです。