1748年アーヘン条約の背景
「アーヘン条約(Aachener Friede)」とは、1748年に締結された国際条約であり、オーストリア継承戦争を終結させた講和条約として知られます。18世紀前半、ハプスブルク家の皇帝カール6世が後継ぎとなる男子を残さず死去したことで、マリア=テレジアの相続をめぐり、ヨーロッパ列強が対立しました。オーストリア継承戦争(1740–1748年)は、プロイセン・フランス・スペインなどがマリア=テレジアの継承権を認めず、オーストリア領土の一部を狙って戦端が開かれたものです。
この戦争は全ヨーロッパを巻き込み、さらに植民地戦争として北アメリカやインドにも拡大しました。イギリスとフランスは海外での植民地覇権を争い、プロイセンはオーストリア領シュレジエンを占領して実力を示しました。長期戦による疲弊の結果、列強は講和を模索し、1748年にアーヘン(現在のドイツ西部の都市)で和平会議が開かれることになったのです。
条約の内容と国際秩序への影響
1748年10月に締結されたアーヘン条約の主要内容は以下の通りです。
- マリア=テレジアのオーストリア領継承権の承認
- プロイセンによるシュレジエン領有の正式承認
- スペイン継承戦争以来のブルボン家とハプスブルク家の対立緩和
- フランスとイギリスの間での植民地戦争の講和(占領地を相互に返還)
この条約によってヨーロッパ大陸に一時的な平和が戻りましたが、その実態は「力による現状追認」でした。特にシュレジエンを獲得したプロイセンの地位は大きく高まり、以後オーストリアとの間で「ドイツにおける二大強国」として並び立つことになります。これは後の七年戦争やナポレオン戦争へとつながるドイツ問題の伏線ともなりました。
また、イギリスとフランスの間では植民地問題が未解決のまま残され、北アメリカやインドでの対立は激化していきました。したがって、アーヘン条約は戦争を一時的に終結させたものの、根本的な対立を解消することはできず、むしろ次なる戦争の前哨と評価されています。
近現代におけるアーヘン条約
「アーヘン条約」という名称は、近現代にも再び登場します。2019年1月、ドイツのアーヘンにおいて、フランスのマクロン大統領とドイツのメルケル首相が「新アーヘン条約」に署名しました。これは1963年のエリゼ条約の精神を引き継ぎ、独仏協力をさらに深化させることを目的としたものです。
この2019年のアーヘン条約では、安全保障・経済・教育・文化など幅広い分野で独仏の連携を強化し、EU全体の統合を推進する姿勢が確認されました。とりわけ防衛協力や国際舞台での共同姿勢が強調され、EUの結束の柱としての独仏関係を象徴する条約とされています。
アーヘン条約の歴史的意義
1748年のアーヘン条約は、オーストリア継承戦争を終わらせた一方で、ヨーロッパ列強の対立を一時的に棚上げしただけであり、その後の国際秩序を不安定化させる要因ともなりました。とりわけプロイセンの台頭を決定づけた点で、ドイツ史とヨーロッパ史の転換点となった条約といえます。
一方で2019年の「新アーヘン条約」は、戦争終結のためではなく、ヨーロッパ統合を前進させるために結ばれた協力条約であり、同じ名称を持ちながら性格が大きく異なります。これはアーヘンという都市がカール大帝以来「ヨーロッパ統合の象徴」とされてきた歴史を背景に、現代の独仏協力を正統化する意義を持っていました。
総じて「アーヘン条約」という名称は、18世紀においてはヨーロッパ列強の力関係を調整する場として、21世紀においてはヨーロッパ統合を推進する場として、それぞれ歴史的意義を担ったといえます。両者を比較することで、ヨーロッパにおける「戦争から協力へ」という歴史的流れを読み取ることができるのです。

