アラビア半島 – 世界史用語集

アラビア半島は、紅海とアラビア海、オマーン湾とペルシア湾にはさまれた巨大な半島で、西アジアとアフリカ・インド洋世界を結ぶ結節点として歴史上大きな役割を果たしてきました。ヒジャーズ(紅海沿岸の山脈地帯)、ナジュド(中央高原)、ルブアルハリ(「空白の地帯」と称される大砂漠)、アシール・ティハーマ(南西部の山地と海岸低地)、ハジャル山脈(オマーン)やハドラマウト(イエメン東部)など、地形と気候の多様性が顕著です。降水は乏しい半乾燥~乾燥気候が広がりますが、南部ドファールでは季節風(カリーフ)による霧雨・緑化が起こり、沿岸と内陸の生業に差異を生みました。こうした自然条件のもと、遊牧(ベドウィン)とオアシス農耕、海上交易が組み合わさって社会を支えてきたのが、アラビア半島史の基本的な構図です。

歴史的には、乳香・没薬・香辛料をめぐる古代の香料交易から、イスラームの成立と拡大、オスマン帝国と欧州勢力の介入、そして20世紀の石油経済と都市化に至るまで、世界経済と宗教・政治の潮流が半島に交錯しました。メッカとメディナはイスラームの二大聖都として巡礼(ハッジ)の中心であり、宗教・学術・商業のネットワークを半島内外に広げてきました。以下では、地理と環境、古代から古代末期の動向、イスラーム成立とその後の展開、近世・近現代の変容と意義を順に整理します。

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地理・自然環境と生業の基盤

アラビア半島は岩塩台地や砂丘が広がる内陸と、山脈に守られた狭い沿岸低地、紅海・アラビア海・ペルシア湾に面する港湾環境から成り立ちます。中央部ナジュド高原は乾燥が厳しく大規模な定住農耕には不向きですが、ワディ(涸れ川)沿いのオアシスではナツメヤシ・穀物・野菜が栽培され、地下水路(アフラージ/カナート)や井戸の管理が共同体の中心課題でした。南西端のイエメン高地は降雨に比較的恵まれ、段々畑(テラス)による穀作や果樹、コーヒー栽培(モカ)で名高く、古来「アラビア・フェリックス(幸福のアラビア)」とも称されました。

沿岸部では紅海・アラビア海・オマーン湾・ペルシア湾の港市がインド洋交易に連なり、季節風(モンスーン)を利用した往来が盛んでした。ペルシア湾岸では真珠採取が近代まで重要な生業であり、造船・航海術・金融(サフラ)などの実務知が蓄積されました。北西部からシナイへ続く陸上ルートはレバント・エジプトへ、北東部はメソポタミアと接続し、キャラバン交易と宿駅網が人・物・思想の流通を支えました。

遊牧社会はラクダ・羊・ヤギを中心に移動と交換を生業とし、血縁・盟約に基づく部族組織が紛争解決・資源配分・名誉規範(ムルーア)を支えました。他方、オアシスや港市では商人・職人・ウラマー(学者)・行政官が都市文化を担い、詩歌・口承、法学・神学、スーク(市場)の規範が発達しました。この「遊牧—オアシス—港市」の三層構造は、時代を通じて相互補完しながら社会秩序を形成します。

古代~古代末期:香料交易、諸王国、文字文化

古代のアラビア半島は、乳香・没薬をはじめとする香料・樹脂の産地および交易路として、地中海世界とインド洋世界を結ぶ中継拠点でした。南アラビア(現イエメン周辺)ではサバア、カタバーン、ハドラマウト、マイン、のちにはヒムヤルなどの王国が興亡し、灌漑と堤防(マアリブの大堰)を背景に都市と神殿が発達しました。これらの王国は南アラビア文字(ムスナド)を用い、碑文資料が政治・宗教・交易の実態を伝えています。

北西部ではナバテア人の商業国家(首都ペトラ)が成立し、香料と隊商交易で繁栄しました。アラビア半島北縁のラフミード(ヒーラ)やガッサーン(シリア南部)といったアラブ系王国は、サーサーン朝ペルシア・東ローマ帝国(ビザンツ)の緩衝地帯・同盟者として古代末期の国際秩序に組み込まれます。半島内部のヒジャーズでは、メッカのクライシュ族がカアバ神殿の管理と隊商の護送・仲介で影響力を強め、メディナ(ヤスリブ)には部族・農耕民・ユダヤ教共同体が共存していました。

宗教文化においては、在来の多神教(部族神・天体崇拝など)のほか、南部ではユダヤ教・キリスト教の影響が強まり、ナジュラーンのキリスト教徒共同体や、ヒムヤル王国のユダヤ教改宗など、多様な信仰実践が併存しました。エチオピアのアクスム王国による干渉(アブラハの遠征伝承)も半島の宗教・政治の流動性を物語ります。こうした多元的な環境が、7世紀のイスラーム成立の土壌を形成しました。

イスラームの成立と半島の統合、その後の展開

7世紀初頭、預言者ムハンマドはメッカで啓示を受け、迫害を避けて622年にメディナへ移住(ヒジュラ)しました。ここで宗教共同体(ウンマ)が形成され、部族間の盟約と法規範が整備されます。ムハンマドの死(632)までに、アラビア半島の多数部族がイスラームに参加し、宗教的紐帯と政治的忠誠が結び付いて半島の統合が進みました。正統カリフ時代には、半島外へ迅速な征服が展開され、シリア・イラク・エジプト・イランなど広大な地域がムスリム政権のもとに入ります。アラビア半島はその宗教的中心として巡礼と学問の拠点であり続け、メッカ・メディナにおける法学派・聖跡の維持はイスラーム世界の求心力の源泉でした。

中世以降、ヒジャーズは紅海交易と巡礼経済に支えられて繁栄し、マムルーク朝やオスマン帝国の保護下で聖地の安全とインフラが維持されました。東部アハサーやカティーフはペルシア湾岸の交易・真珠・椰子園で知られ、オマーンは海上勢力としてインド洋に進出し、一時は東アフリカ沿岸(ザンジバル)を支配下に置きました。半島内部では遊牧とオアシス都市がゆるやかな均衡を保ち、詩と口承、法学と神秘主義、部族慣習とイスラーム法が交錯する文化が続きます。

18世紀、ナジュドで宗教改革運動(ムハンマド・イブン=アブドゥルワッハーブによる教説)とサウード家の同盟が成立し、内陸から聖地へ勢力が伸びました。この潮流は19世紀のオスマン帝国との抗争やエジプトの遠征を招きましたが、20世紀初頭にアブドゥルアズィーズ・イブン・サウード(イブン・サウード)が半島中央部を再統一し、1932年にサウジアラビア王国が成立します。ヒジャーズ(メッカ・メディナ)を含む広域が一王朝のもとに入り、巡礼・行政・教育の近代化が進みました。

近世~近現代:列強の関与、国家形成、資源と都市

早くから紅海・ペルシア湾は欧州勢力の関心を集め、近世にはポルトガルの航路支配、近代にはイギリスの「停戦条約諸首長国」(のちのUAE)や保護条約、オスマン帝国のヒジャーズ統治などが展開しました。湾岸諸港は真珠・通商・海運で栄え、英印ルートの戦略的要衝として扱われました。20世紀に入ると、石油資源の探査が進み、1938年の東部州での商業油田発見以後、サウジアラビア、クウェート、バーレーン、カタール、アブダビなどで採掘・精製・輸出が急拡大します。石油収入は都市インフラ、教育・医療、社会保障、移民労働者の受け入れを通じて社会構造を大きく変えました。

国家形成の位相では、オマーンは内陸のイバード派イマーム制と沿岸のスルタン政が併存する複合的政治を近代まで維持し、イエメンは北部イマーム政体と南部植民地・保護領(アデン)を経て統合と分裂を繰り返し、1990年に一旦統一しました(その後も政治的課題が続きます)。湾岸の首長国は英の撤退(1971)を境に連邦や独立国家へ移行し、港湾・金融・観光による都市経済を発展させました。宗教・文化面では、巡礼者の世界的移動と通信・航空の発達が、聖地とムスリム世界をこれまで以上に緊密に結びつけています。

環境・資源の観点では、水資源の希少性が長期課題であり、海水淡水化や地下水の過剰汲み上げ、オアシス農業の維持、砂漠化対策が政策の中心にあります。他方で、文化遺産の保全(ナバテア人のヘグラ/マダイン・サーリフ、ディルイーヤの歴史地区、マアリブの遺跡群など)や博物館・考古学の進展により、半島固有の歴史が国際的にも可視化されつつあります。交易・移動・宗教・資源という四つの軸が、現代のアラビア半島を理解する鍵です。

用語上の注意として、「ペルシア湾/アラビア湾」という呼称や、アラビア半島に含まれる国家範囲(サウジアラビア、イエメン、オマーン、UAE、カタール、バーレーン、クウェート)には文脈による揺れがあり、地政学・文化の議論では定義を明確にすることが望まれます。また、アラブ人=アラビア半島出自という理解は歴史的には一面の真理ですが、言語・文化・混淆の長い過程を経ており、単線的に同一視することは適切ではありません。

総括すれば、アラビア半島は過酷な自然環境のもとで、遊牧・オアシス・海上交易の三つ巴の生業が織り成す多層社会を築き、古代の香料路からイスラームの世界宗教の成立、近代の資源経済まで、世界史の大動脈と結びついてきました。宗教の聖地としての普遍性、インド洋と地中海をつなぐ地政学的位置、石油と都市が生む現代的課題という三要素が重なり合うこの半島は、過去と現在を架橋する「世界史の交差点」として理解されます。学習にあたっては、地理区分(ヒジャーズ/ナジュド/ルブアルハリ/ドファール等)、古代諸王国と香料交易、イスラーム成立のメカニズム、近現代の国家形成と石油経済、水資源と都市化という柱を押さえることで、アラビア半島の全体像を立体的に捉えることができます。