ウィリアム3世 – 世界史用語集

ウィリアム3世(William III, 1650–1702)は、オランダ総督オラニエ公として対仏同盟の要を担い、1688年の「名誉革命」でイングランドへ上陸して議会の招請により王位に就いた君主です。王妃メアリ2世(ジェームズ2世の長女)と共同統治を開始し、のち単独君主として1702年に没するまで、イングランド/スコットランド/アイルランドの三王国を一体として統治しました。彼の治世は、王権を法の下に位置づける『権利の章典(Bill of Rights, 1689)』、議会主権と統治責任を強める一連の法整備(審議権・課税権・軍隊常備の制約など)、そして対ルイ14世戦争の長期化に対応する「財政革命」(国債と中央銀行・近代的課税)の成立によって特徴づけられます。アイルランドではウィリアマイト戦争(ボイン川の戦い、1690)を経てリメリック条約(1691)に至り、スコットランドではジャコバイト反乱とグレンコーの虐殺(1692)を挟みつつ、名誉革命体制(Claim of Right)が定着しました。ウィリアム3世は個人的には寡黙で冷静、病弱ながら卓越した同盟構築の手腕を示し、イギリスの立憲君主制の実質を形にした「戦時の調整者」でした。以下では、オランダでの台頭と英王位就任、共同統治の枠組み、戦争と財政革命、三王国の統治と国内政治、外交と遺産を整理します。

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オランダでの台頭と英王位への道:総督としての経験と同盟政治

ウィリアムは1650年、オラニエ公ウィレム2世の遺児として生まれ、幼少期は摂政のもとで育ちました。17世紀半ばのネーデルラント連邦共和国は商業と海軍力で繁栄する一方、共和派のヨハン・デ・ウィットらが主導する「総督不在時代」を迎えていました。1672年、フランスのルイ14世が侵攻した「災厄の年(Rampjaar)」に、危機の中でウィリアムはホラント州総督に就任し、国土の浸水防衛線(ウォーター・ライン)を展張して敵を阻み、イングランド・フランス・ミュンスター・ケルンの連合に対抗する基盤を築きます。以後、彼は神聖ローマ帝国やスペイン、諸ドイツ諸邦と連携し、対仏包囲網の形成に尽力しました。海戦ではデ・ロイテルの活躍が知られ、陸戦では包囲戦・機動戦の双方で粘り強い戦略を示しました。

イングランドとの関係を決定づけたのが、ジェームズ2世の専制化とカトリック擁護政策です。ウィリアムは1677年にジェームズの娘メアリと結婚して王家と縁を結び、対仏連携の要としてイングランドの政局に注視しました。1688年、ジェームズに男子(ウェールズ公ジェームズ)が生まれて継承がカトリックに固定化する懸念が高まると、イングランドの有力貴族・聖職者(いわゆる「不朽の七人」)がウィリアムを招請します。彼は大規模な遠征軍を編成して11月にトーキー近郊に上陸し、ジェームズは混乱の末にフランスへ亡命しました。議会は王位放棄とみなし、メアリとウィリアムを共同君主として迎え、革命は比較的流血少なく成立しました。

共同統治の設計:『権利の章典』と立憲君主制の実質化

1689年、議会は『権利宣言』を採択し、同年『権利の章典』として成文化しました。ここでは、①王の法律停止権・免除権の否認、②議会承認なき課税・常備軍の違法化、③請願権・言論の自由(議会内)保障、④選挙の自由、⑤残酷な刑罰の禁止などが掲げられます。これにより、王権は法と議会の枠内に明確に拘束され、征服王以降の慣習的均衡が成文化されました。

統治構造では、王権と議会が常時協働する前提が確立します。会期の定期化(1694年三年法=トリーニアル・アクト)、会計責任の強化(歳出の目的拘束・監査)、大臣の議会説明責任が慣行化し、やがて内閣責任政府への胎動が始まります。政党政治では、ホイッグとトーリーがせめぎ合い、対仏戦争・宗教寛容・財政運営をめぐる争点で内閣の組成が変動しました。1690年代半ばからは「ホイッグ・ジュント」が戦争財政と金融制度の整備を主導し、王は政党間の調停者として人事・政策の均衡をとります。

宗教政策では、1689年『寛容法(Toleration Act)』が国教会外のプロテスタント(長老派・独立派・バプテスト等)の礼拝自由を条件付きで認めました。カトリックと無神論者、国教会聖職者の非宣誓者に対する制約は残るものの、宗派内戦の時代から寛容の制度化への大きな一歩でした。他方、大学・公職からの除外を定めた審査法(Test Acts)は存続し、完全な宗教的平等には至りませんでした。

戦争と「財政革命」:九年戦争、国債・中央銀行・再鋳貨と税の近代化

ウィリアムのイングランド統治は、対ルイ14世の長期戦(九年戦争, 1688–97)と不可分です。彼はオランダ総督としての経験を持つ「大同盟」の首班として、陸海軍の増強を進めました。戦争はフランドル戦線・アイルランド・大西洋・地中海・植民地に広がり、国家財政に巨額の負担を強いました。ここでイングランドは、近代的な公的信用制度を急速に整備します。

第一に、課税基盤の拡大です。1692年には土地税(Land Tax)が創設され、高額地代・所得を狙い撃つ恒常税として戦費の柱になりました。消費課税・関税も体系化され、密輸取締を強化するため1696年に通商委員会(Board of Trade and Plantations)が再編されます。航海条例の再整備(1696)も海軍力と商業保護の結節点でした。

第二に、国債市場の創設です。1693年の長期国債発行、1694年の「ミリオン・ロッタリー」など新手の借入に加え、同1694年には私的銀行家の出資を基に「イングランド銀行(Bank of England)」が設立され、政府に対する長期貸付の見返りとして銀行券発行と公的銀行の地位を得ました。これにより、国王個人の信用から国家の継続的信用へと重心が移り、金利は低下、財政運営の予見可能性が増しました。これを総称して「財政革命(Financial Revolution)」と呼びます。

第三に、通貨の安定化です。流通銀貨の磨減・削り取り(クリッピング)により貨幣価値が乱れていたため、1696年に大規模な「再鋳貨(Great Recoinage)」が実施され、新打刻の機械鋳造貨に置換されました。短期的には貨幣逼迫を招いたものの、長期的には商業信用の回復に寄与し、国債・銀行と並ぶ近代的金融の柱となりました。

軍事的帰結としては、海ではラ・ホーグ沖(1692)で英蘭連合艦隊が仏艦隊に勝利して制海権を確保、陸ではフランドルでの消耗戦が続き、1697年リスウィック条約で講和が成立します。条約はウィリアムを正統なイングランド王と承認し、ジェームズ2世支持のフランス庇護に終止符を打たせる政治的効果を持ちました。

三王国の統治:アイルランド戦争とリメリック条約、スコットランドの反乱とグレンコー、国内政治の均衡

アイルランドでは、ジェームズ2世がフランス支援のもとダブリンに拠って王位回復を図り、1690年にウィリアムが自ら遠征して「ボイン川の戦い」で勝利しました。翌1691年、ウィリアマイト側はアザルとの連携でリメリックを包囲し、条約はカトリック貴族・軍人の大陸移住(ワイルド・ギース)と引き換えに一部の権利保障を約したものの、その後の立法過程でカトリックに厳しい刑罰法(Penal Laws)が広がり、宗教・土地の不平等は固定化します。ウィリアムの直接の意図と、植民支配層の利害・議会立法の帰結は区別しつつも、彼の勝利が18世紀アイルランド体制の出発点を画したことは確かです。

スコットランドでは、1689年の「クレイム・オブ・ライト(Claim of Right)」がジェームズの王位放棄と議会主権を宣言し、ウィリアムとメアリの即位を承認しました。直後にハイランドでジャコバイト反乱が起こり、1689年キリークランキーで王党軍は敗北、指導者ダンディー子爵は戦死します。鎮圧過程の1692年、マクドナルド氏族の遅延誓誓を理由に行われた「グレンコーの虐殺」は、王名のもとで執行されたことから長く記憶の汚点となりました。王の直接命令の度合いは議論がありますが、責任の所在をめぐる政治的後始末は不十分で、スコットランド世論に深い不信を刻みます。

国内政治では、王はホイッグ寄りの外交・財政路線を採りつつも、トーリーとの均衡を模索しました。王妃メアリは1694年の夭折まで教会問題や宮廷運営で重い役割を担い、王の不在時には摂政として政務を取り仕切りました。メアリ死後、ウィリアムは単独統治に移り、1696年の暗殺未遂(アサシネーション・プロット)を乗り切って、議会との協調を維持します。選挙は頻繁で内閣は不安定でしたが、議会と王権が互いを制度的に必要とする状況はもはや後戻りしなくなっていました。

外交・王位継承と晩年:大同盟の再編、王位継承法、死とその後

1697年の講和後も、ルイ14世の拡張は止まず、スペイン継承問題が欧州の最大争点となります。ウィリアムは遺産分割条約で戦争回避を試みますが、1700年にフェリペ5世の即位を経て緊張は再燃、彼の死後に「スペイン継承戦争(1701–14)」が本格化します。対仏抑止のため、1701年には「大同盟」(英・蘭・神聖ローマ帝国など)が再編され、イングランドは大陸政治の恒常的なプレイヤーとして定着しました。

継承問題では、メアリの妹アン(のちのアン女王)に王位を継がせるため、1701年に『王位継承法(Act of Settlement)』が制定され、カトリックの王位継承が排除されるとともに、王の対外離脱権・裁判官任期などが整えられました。同法はハノーヴァー選帝侯女ゾフィーとその子孫に継承を定め、のちのジョージ1世即位(1714)への道を開きます。これは「議会が王を選ぶ」近代的主権の確認であり、立憲主義の骨格を固める措置でした。

1702年、ウィリアムは乗馬中の落馬傷が悪化して肺炎を併発し、ケンジントン宮殿で没しました。直前に議会が戦争を再開する体制を整えており、後継のアンの下でマールバラ公らがスペイン継承戦争を主導します。ウィリアムの遺体はウェストミンスター寺院に葬られました。

評価と遺産:立憲主義の実質化と「国家—金融—戦争」の三位一体

ウィリアム3世の歴史的遺産は三点に集約できます。第一に、名誉革命体制の制度化です。『権利の章典』『三年法』『王位継承法』の連鎖により、君主は議会と法の下に置かれ、課税・軍隊・宗教政策は代表機関の統制下に入りました。彼は王権の縮減を強いられた受動的な存在というより、戦時同盟を維持するために「統治の協働」を受け入れ、王権の新しい有効性—情報・人材・信用を束ねる調整力—を体現しました。

第二に、財政革命です。土地税・国債・中央銀行・再鋳貨の組み合わせは、18世紀のイギリスが長期戦と海外膨張を支える基盤となりました。海軍への安定投資、債券市場の発達、公的信用の国際的信頼は、後の「第一の金融革命」と評されます。王の個性—倹約・規律・長期の視野—は、財政規律の政治文化にも反映されました。

第三に、三王国の不均衡と暴力の影もまた遺産です。アイルランドの体制固定化、スコットランドにおける不信、国内での政党対立と宗教的線引きは、18世紀の軋轢へと持ち越されました。グレンコーや刑罰法の問題は、王の直接責任の度合いを超えて、国家建設がしばしば周縁に犠牲を強いた事実を示しています。

総じて、ウィリアム3世は「剣と帳簿」を両立させた稀有な君主でした。彼は大陸政治のロジック(同盟・均衡)をブリテンの制度(議会・財政)に接続し、イングランドを欧州大国として再設計しました。華やかな宮廷文化とは縁遠く、短躯で病弱、愛想のない人物像はしばしば語られますが、その実務的な集中力と同盟外交の手腕、危機における沈着は、近代国家の「見えざる中枢」を築く力そのものでした。彼の名誉革命は、王を打倒して共和国を作る革命ではなく、王と議会が相互拘束する統治へと変質させる革命であり、その効果は金融・軍事・帝国・法のすべてに波及し、長い18世紀の出発点を画したのです。