エジプト革命 – 世界史用語集

「エジプト革命」という語は、一つだけの出来事を指すのではなく、時代ごとに別の政治的転換を示す総称として使われます。とくに歴史学や受験用語では、①英保護体制下の民族運動が爆発した1919年の全国蜂起、②自由将校団が王制を倒して共和国化へ道を開いた1952年の体制転換、③「アラブの春」に連なる2011年の1月25日革命の三つが代表例です。三者は主役も方法も要求も異なりますが、〈主権〉〈社会的公正〉〈統治の正統性〉という共通の軸でつながっています。以下では、用語の射程をまず整理し、そのうえで各革命の背景・経過・成果と限界を、史料に基づく具体像に沿ってわかりやすく説明します。

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用語の射程と時代背景:何を「革命」と呼ぶのか

エジプト近現代史では、列強の干渉と国内の再編が重なり合い、断続的に「体制の作り直し」が起きました。19世紀初頭のムハンマド・アリーの改革は国家建設として重要ですが、通常「革命」とは呼ばれません。いっぽう、1919年は英保護体制に対する全国的な民衆運動、1952年は軍主導の王政打倒、2011年はデジタル時代の市民蜂起と、それぞれ「体制の根拠」を問う形で展開しました。三つの局面はいずれも、(1)対外関係(植民地支配・同盟・援助の枠組み)、(2)国内政治(王権/軍/政党/官僚)、(3)社会経済(綿花経済・都市化・失業と物価)の三層が臨界に達したときに噴出しています。用語としての「革命」は、政権交替だけでなく、法制度・主権の階層・公共圏の言語が再配線される過程を含意しているのです。

地理的条件も無視できません。ナイルの河谷とデルタに集中する人口、都市カイロの巨大な情報・交通結節、スエズ運河という国際動脈の存在は、抗議の波が一気に全国化する条件でした。宗教・民族構成面では、ムスリム多数派の中にコプト教徒や都市の少数派コミュニティが共存し、ときに連帯、ときに緊張の要因となりました。これらの社会的基盤が、各「革命」の参加主体の幅と訴えの重心に影響しています。

1919年:ワフドの蜂起と「民族国家」の言語の誕生

第一次世界大戦中、エジプトは英国の保護領とされ、ナイルの灌漑・綿花供出・兵站・徴用で深刻な負担を負いました。戦後処理の場であるパリ講和会議に自国代表を送る権利を求め、サアド・ザグルールらが請願すると、英当局は彼らを逮捕・追放し、これが導火線となって1919年3月に全国でスト・デモ・鉄道遮断・学校ボイコットが連鎖しました。都市の学生・官吏・商人、デルタと上エジプトの農民、コプト教徒の有力者、女性のデモ隊までが参加し、反乱は宗派・身分をまたぐ広がりを見せました。

運動の要求は、(1)完全独立、(2)代表制の確立、(3)抑圧の停止で、英軍の発砲や戒厳体制はかえって憤激を拡大させました。街頭のスローガンと新聞・パンフの言語は、〈民族〉〈主権〉〈法〉をめぐる新しい語彙を可視化します。最終的にイギリスは1922年に一方的独立を宣言し、外交・軍事・運河・スーダンに関する「留保」を残しつつも、国号は王国に、元首はフアード1世に定まりました。翌1923年の憲法と議会制度の発足、ワフド党の議会進出は、1919年が「武器を持たない革命」として制度の土台を作ったことを示します。

ただし、主権の限界は明白でした。治外法権(カピチュレーション)や英軍駐留、スーダンの共同統治など、肝心の分野は英側に握られ、王権も議会とせめぎ合いました。1919年の革命は、広範な参加と象徴的勝利を得た一方、〈民族国家の言語〉が具体的な主権装置(外交・軍事・司法)へ完全には変換しきれないまま、次の課題を残したと言えます。

1952年:自由将校団のクーデタと王政の終焉

第二次世界大戦と戦後の混乱をへて、1948年の第一次中東戦争の敗北は、エジプト社会にとって大きな挫折でした。軍の装備不足や汚職疑惑、英軍の駐留継続、スエズ運河をめぐる屈辱、都市の失業と物価高騰。1951年の英埃条約破棄宣言、運河地帯でのゲリラと英軍の衝突、1952年1月の「黒い土曜日」(大火と暴動)で、王政の統治能力への信頼は決定的に失われていきます。

こうしたなかで、ナギーブ、ナセルら若手士官を中心とする自由将校団は、軍内部の緩やかなネットワークを組織化し、1952年7月23日、ほとんど流血のない形でカイロの要所を掌握、ファールーク1世に退位を迫って国外退去させました。直後に革命指導評議会(RCC)が成立し、王制の停止、政党活動の整理、汚職追及、土地改革、英軍撤退交渉などが次々と打ち出されます。土地改革は大地主の保有上限を設定し、小作農への分配と地代規制で農村構造にメスを入れました。

1953年、エジプトは正式に共和国となり、1954年にナセル派がナギーブを退けて主導権を確立、1956年憲法とスエズ運河国有化へと進みます。英軍の撤退は1954年協定で確定し、1956年までに完了しました。これらの過程は、1919年の未完の主権回復を軍が一気に制度化したものと捉えられます。他方で、政党の解体と統治の軍事化、言論・結社の制限は、新しい参加の回路と引き換えに、別の閉塞を生みました。1952年の「革命」は、社会改革と反帝国主義を掲げる国家形成の加速装置であると同時に、権力の集中化という長期的な体質を刻み込んだのです。

2011年:1月25日革命とポスト革命の曲折

21世紀初頭、エジプトは人口増と都市化の圧力、若年失業、物価高騰、汚職、長期政権への不満が蓄積していました。2000年代後半の判事運動、ケファーヤ(「もうたくさんだ」)運動、労働争議は、市民の抗議文化を培います。2010年末のチュニジア蜂起に触発され、2011年1月25日、治安警察記念日にSNSと口コミで呼びかけられたデモがカイロのタハリール広場に結集し、各都市へ波及しました。スローガンは「パン・自由・社会的公正」。治安部隊との衝突、ネット遮断を越えて動員は拡大し、2月11日、ムバーラク大統領は辞任、軍最高評議会(SCAF)が暫定統治を引き継ぎました。

選挙過程では、イスラーム勢力(ムスリム同胞団系・サラフィー系)と自由主義・左派・世俗派の多党が競合し、2012年に大統領選でモルシーが当選します。だが、権限配分や憲法、経済運営、治安、司法との関係をめぐって対立が激化し、2013年6月末の大規模抗議と軍の介入を経て、7月にモルシーは解任されました。その後の暫定期をへて、新たな大統領と憲法のもとで統治は再編されます。

2011年の革命は、市民の街頭占拠・水平的な連帯・デジタル媒体の活用が際立ちました。要求の核は、汚職の是正、拷問・恣意的拘束の終止、言論の自由、生活の改善でした。短期的には政権交替と選挙の実施という成果がありましたが、制度化の過程は曲折に満ち、治安・経済・対立の管理を理由とする統治の再集中が進みました。結果として、2011年が開いた公共圏の言語と経験は社会に刻まれつつ、権力配置としては大きく振り戻しが生じた、と総括されます。

国際的には、エジプトの安定はスエズ運河・地中海ガス・地域治安に直結し、域内外交・対米関係・湾岸からの支援などが革命後の進路に影響しました。シナイ半島の治安とガザ境界の管理、観光と投資、補助金改革とインフラ整備は、2010年代を通じる主要課題であり続けます。

以上の三つの「エジプト革命」を並べると、1919年は〈民族国家の言語〉の創出、1952年は〈主権装置の組み直し〉、2011年は〈公共圏の再起動〉という性格が強いことがわかります。いずれの局面でも、ナイルという環境とスエズという地政、都市社会の大衆動員、対外関係の制約が複合し、変化は一度では完結しませんでした。政体・法・経済の層がずれを抱えたまま再調整を繰り返すことこそ、エジプト近現代史のリアルな輪郭です。