エジプト王国(近代、一般に1922〜1953年)は、イギリスの長期駐留と保護体制の下で半主権的に出発し、立憲議会政治と王権、民族運動と対英交渉、スーダン問題と地域戦争のはざまで揺れ動いた国家です。ワフド党を中心とする大衆的民族運動が1919年に高揚し、1922年にイギリスが一方的独立を承認して王国が発足しましたが、外交・軍事・スエズ運河・スーダンに関する「留保事項」が主権を制約しました。1936年の英埃条約で国際的承認と軍近代化の道が開かれる一方、英軍の運河地帯駐留は継続され、第二次世界大戦中の中立・連合国支援、1948年の第一次中東戦争、1942年のアブディーン宮事件など、内外の圧力が政治秩序を動揺させました。綿花輸出と灌漑を軸にした経済の伸長、都市文化と教育の拡大も進む一方、農村の貧困と地主制、失業、物価高騰が矛盾を深め、最終的に1952年の自由将校団のクーデタを経て1953年に共和国へ移行します。王国期は、近代エジプト国家の制度・社会・国際関係が集中的に編成され、同時にその限界が露呈した時代でした。
成立の背景と枠組み:一方的独立、憲法、王権と政党
第一次世界大戦期、エジプトはイギリスの保護領化(1914)を経て、対外・軍事の実権を英当局に握られていました。1919年、サアド・ザグルール率いるワフド党がパリ講和会議への代表派遣を求めて動くと、逮捕・追放に反発した全国的蜂起が勃発し、鉄道・電信・学校・市場のストや大規模デモが続きました。この圧力を受けて、イギリスは1922年に「エジプト独立宣言」を発し、国号を王国とし、フアード1世が国王となりました。ただし、外交・軍事・運河・スーダンの四分野は英側の留保とされ、完全主権には達しませんでした。
1923年には立憲君主制を定める憲法が公布され、二院制議会、責任内閣、言論・集会の諸自由が整備されました。政党政治の柱は、大衆基盤をもつワフド党、宮廷と結びつくサアドィスト、親英・官僚系の自由立憲党などで、地方名望家・都市中間層・労働者・学生がそれぞれの支持基盤を形づくりました。国王の権限は議会解散・首相任命などで強く、フアード1世はしばしば憲法を停止し、1930年には王権強化の新憲法を公布しましたが、世論の反発で1935年に1923年憲法が復活します。王権・政党・英大使館の三角関係が、以後の王国政治の基本構図でした。
法制度では、カピチュレーション(治外法権)と混合法廷が存続して主権を制限していましたが、1937年モントルー宣言で段階的撤廃の道筋がつき、裁判権の一元化が進みます。教育では、カイロ大学(当初のエジプト大学)や専門学校の拡大、アル=アズハルの改革、女子教育の進展が見られ、都市文化・出版・映画・音楽が黄金期を迎えました。こうした文化的活況は、ナショナル・アイデンティティの形成と社会動員の土壌になります。
英埃条約と戦間期の政治:同盟、駐留、スーダン問題
1936年、ファールーク1世の即位とイタリアのエチオピア侵攻に象徴される国際緊張の中で、エジプトとイギリスは英埃同盟条約を締結しました。条約はエジプトの主権を国際的に承認し、国際連盟加盟へ道を開く一方、スエズ運河地帯への英軍駐留と有事の再進駐権を認め、二十年の軍事同盟関係を定めました。英軍は運河都市(ポートサイド、イスマイリア、スエズ)と航空基地を保持し、英国軍事顧問団がエジプト軍の近代化を支援しました。外交上重要だったスーダンの帰属は棚上げされ、英埃共同統治(コンドミニアム)が継続します。
条約に対する国内の受け止めは分裂しました。ワフド党は「現実的前進」と評価した一方、急進的民族派や一部の将校、学生、都市の労働者は「不徹底な独立」と批判し、完全撤退とスーダン回復を要求しました。条約は治外法権撤廃と国際的地位向上の実益をもたらしたものの、駐留の継続はナショナリズムの火種であり続けました。
経済面では、灌漑と綿花輸出に依存した構造が続きました。アスワン旧ダムやデルタの運河網の整備で生産力は拡大しましたが、地主制のもとで小作農の生活は脆弱で、綿価の国際変動に脅かされました。都市にはギリシア人・イタリア人・アルメニア人・ユダヤ人など多様な商工業コミュニティが活動し、銀行・輸出入商社・繊維・食品加工・映画産業が発展しましたが、富の偏在は社会不満を蓄積させます。労働運動やムスリム同胞団(1928創設)などの社会運動は、この不満を背景に影響力を増しました。
第二次世界大戦と「1942年体制」:中立、基地化、アブディーン宮事件
第二次世界大戦が始まると、エジプト政府は中立を宣言しつつ、英埃条約に基づき英連邦軍に基地・補給・交通の便宜を提供しました。北アフリカ戦線で独伊軍が砂漠を進撃すると、カイロとアレクサンドリアは前線都市となり、英軍司令部・補給路・病院・捕虜収容所が集中しました。戦時経済は雇用を生みつつ、物価高騰と配給、都市の混乱を招き、黒市と汚職が問題化します。
1942年2月、英大使ランプソンはドイツ接近の恐れがある内閣を退陣させるため、アブディーン宮殿を戦車で包囲し、ファールーク国王にワフド党のナハース・パシャを首班に指名するよう迫りました(アブディーン宮事件)。国王は要求を受け入れ、ワフド政権が成立します。これは対独協力の封じ込めと戦線維持には役立ちましたが、主権の象徴たる王宮を包囲して内閣を強制するという出来事は、王権の威信と民族自尊心に深い傷を残し、戦後の反英感情と王政不信を増幅させました。「1942年体制」と呼ばれるこの局面で、政党政治は英軍の意向と王宮の駆け引きに大きく左右されることが露呈します。
戦後、英軍の駐留存続をめぐる交渉が再燃し、学生・労働者の抗議が頻発しました。都市治安の不安、失業、インフレ、汚職告発が重なり、政権は脆弱化します。王国の政治は、宮廷と議会と街頭とがせめぎ合う不安定な均衡の上にありました。
1948年戦争と危機の深まり:パレスチナ、軍の威信、政変の前夜
1948年、イギリス委任統治の終わりとイスラエル建国を受け、エジプトは周辺アラブ諸国とともに第一次中東戦争に参戦しました。エジプト軍はガザ方面から進攻しましたが、兵站・訓練・装備の不備、指揮系統の混乱、国内政治の分裂が重なり、戦況は芳しくありませんでした。停戦後、戦争の失敗は軍の屈辱と政治の腐敗への怒りとして共有され、士官団内部の改革派や民族派の動きを活性化させます。ガザ地区はエジプトの管理下に置かれ、パレスチナ難民の問題が国内政治と外交に長く影を落としました。
1949年以降、英埃条約の改定交渉が続くものの進展は乏しく、1951年にはワフド政権が条約の一方的破棄を宣言します。運河地帯のゲリラ闘争と英軍との衝突が激化し、1952年1月には「黒い土曜日」と呼ばれるカイロの大火・暴動が発生して政権の統治能力が疑問視されました。こうした危機の連鎖の中で、自由将校団は軍内の支持を固め、7月にクーデタを敢行して王政を事実上終わらせます。1953年、王国は正式に廃止され、共和国が宣言されました。
社会と経済の実像:灌漑国家、綿・都市文化、そして格差
王国期の経済は、ナイルの灌漑と綿花輸出に強く依存していました。デルタと中流域の通年灌漑は綿・サトウキビ・米・小麦の輪作を可能にし、綿は外貨獲得の主柱でした。綿価格が高騰する年には都市に資金が流入し、建設業・サービス業・消費文化が拡張しましたが、世界市況の変動は国家財政と農村生活を直撃しました。大地主制の下で小作料は高止まりし、分益農の負担は重く、農村の教育・保健・土地改革は遅れました。都市では、官僚・専門職・学生・労働者・移民コミュニティが混住し、新聞・出版社・映画館・カフェが公共圏を作り出しました。カイロのラジオや映画(黄金期のエジプト映画)はアラブ世界全体の大衆文化を牽引し、歌手ウンム・クルスームらが国民的統合の象徴となりました。
宗教・民族構成では、ムスリム多数派のほか、コプト教徒、ユダヤ人、ギリシア人、アルメニア人、イタリア人などが都市経済と文化に寄与しました。戦時・戦後の政治緊張やイスラエル建国以後の動乱は、これら少数派の地位と安全に不確実性をもたらし、移住が進みます。社会運動としては、ムスリム同胞団が慈善・教育・道徳改革を掲げて勢力を拡大し、労働運動とともに都市下層と中間層の不満の受け皿となりました。女性の教育・公共参加も都市部で広がり、法改正と社会習慣の間でせめぎ合いが続きました。
王国期の総括:制度化と制約、前進と行き詰まり
エジプト王国期は、立憲政治・官僚制・司法の一元化・教育とメディアの普及・軍の近代化といった「国家の骨格」が形づくられた時期でした。英埃条約とモントルー宣言は、主権の可視化を進め、エジプトを国際社会の正規の一員として位置づけました。都市文化は成熟し、アラブ圏の文化首都としてのカイロ像が定着します。他方で、王権・政党・英当局の三角関係は政治の自律性を削ぎ、農村の構造問題は放置され、社会的不平等と汚職が政権の正統性を浸食しました。外政では、英軍駐留とスーダン問題、1948年戦争が、王国の能力と限界を厳しく試しました。
1952年以後の共和国体制は、王国期の遺産(官僚・教育・灌漑・都市文化)を引き継ぎつつ、土地改革・国有化・非同盟外交という新たな方向へ舵を切ります。したがって王国期を単純な「前史」として見るのではなく、近代エジプトの制度設計が最初に大規模に試みられ、その成功と失敗が露わになった実験期として理解することが大切です。憲法と王権、議会と街頭、主権と駐留、灌漑と格差——これらの対立軸の交点に、エジプト王国の実像が浮かび上がります。

