エルバ島は、ティレニア海に浮かぶトスカーナ諸島最大の島で、鉄鉱資源と海上交通の結節点という二つの条件が、古代から近代に至るまでの歴史を方向づけてきた場所です。世界史上もっともよく知られるのは、1814年ナポレオンが退位後に「主権者」として統治した短い亡命地であり、翌1815年の「百日天下」へとつながる脱出劇の舞台としての側面です。しかしそれはこの島の長い歴史の一断面にすぎず、エトルリア時代の製鉄、ローマ帝政期の交易拠点、中世のピサ・ジェノヴァ・アッピアーニ家による海上覇権の綱引き、近世のスペインやロレーヌ家の関与、そして20世紀の戦争と観光開発まで、時代ごとに異なる顔を見せてきました。以下では、地理と通商、前近代の支配と防衛、ナポレオンの統治と脱出、19~20世紀の経済・社会と文化遺産という観点から整理して解説します。
地理と通商の基盤――鉄鉱と海峡、要塞化される港町
エルバ島は本土トスカーナ海岸から約10kmの距離にあり、面積はおよそ224平方キロメートル前後と中規模ですが、海岸線が入り組み、港湾適地が多いこと、中央にモンテ・カパンネ(標高約1,000m級)の山塊を擁して起伏に富むことが特徴です。北岸のポルトフェッライオ(旧名コジモの港)、東岸のポルト・アズッロ(旧名ポルトロングーネ)などの湾は天然の良港で、ティレニア海の沿岸航路とサルデーニャ・コルシカ・リグーリアへ向かう航路の結節点をなします。島内には古来、豊かな赤鉄鉱・磁鉄鉱が賦存し、採掘と製錬が経済の背骨でした。
古代にはエトルリア人がこの鉄を利用して製鉄を行い、ローマ時代には帝国の補給と軍需を支える資源基地として重要視されました。中世には、ピサとジェノヴァの海上都市国家が地中海覇権をめぐって抗争を繰り返す中で、エルバはしばしばその前線基地となります。港町は砦と城壁で固められ、修道院・市壁・監視塔が海賊と敵対都市からの襲来に備えました。近世に入ると、メディチ家とその後継のロレーヌ家がトスカーナ大公国の一部として要塞整備を進め、とくにポルトフェッライオはコジモ1世の命で星形要塞が築かれ、外敵に備える堅固な軍港へと変貌しました。
こうした地理条件は、エルバが単なる辺境の島ではなく、イタリア半島の西側海上交通を押さえる「鍵」として扱われたことを意味します。鉄鉱はヨーロッパの金属需要の波に連動して採掘が盛衰し、交易は本土の港ピオンビーノやリヴォルノと連動して発展しました。島の内陸は段々畑と栗の林、沿岸は塩田や小規模な造船が営まれ、海と山の資源が織り合わさった複合的生業が長く続きます。
支配と防衛の歴史――アッピアーニ家・スペイン・トスカーナ、揺れる宗主権
中世末から近世初頭にかけて、エルバ島はピオンビーノ領主アッピアーニ家の勢力圏に入りつつも、ピサ・ジェノヴァ・フランス・スペインなど大国の間で影響力が揺れました。16世紀には地中海でのオスマン勢力拡大とバルバリア海賊の活動活発化に対応するため、スペイン・ハプスブルクの関与が強まり、東岸のポルトロングーネはスペイン式の要塞都市へと再整備されます。一方、北岸のポルトフェッライオはトスカーナ側が掌握し、二つの港が異なる宗主の軍港として並立する時期が続きました。
17~18世紀には、トスカーナ大公国の支配が安定し、ロレーヌ家の下で行政と防衛が整理されます。とはいえナポレオン戦争期に入ると、フランス革命軍と連合軍の争奪の焦点となり、英国海軍が地中海で制海権を握る過程でエルバはたびたび占拠・返還を繰り返しました。こうした歴史の蓄積は、要塞・城壁・監視塔網として現在も島の景観に刻まれ、軍事建築の博物誌としての価値を持ちます。
ナポレオンの統治と「百日天下」への脱出――フォンテーヌブロー条約からポールトリコへ
1814年4月、ナポレオンは連合国に対して退位し、フォンテーヌブロー条約によりエルバ島の「主権」を与えられました。これは単なる幽閉ではなく、島の統治者としての身分・称号・収入(年金)を認める特例で、彼は自ら旗章(白地に赤の斜帯と三つの蜜蜂)を制定し、護衛と小艦隊を保持しました。6月、彼はポルトフェッライオに入港し、短期間ながら積極的な内政改革に着手します。
彼の施策は、(1)行政と財政の整備――役所と帳簿の近代化、税の再編成、塩田や鉱山の収入管理、(2)公共事業――道路の改修、港湾施設の整理、給水路の補修、農地の石垣整備、(3)社会施策――医療と衛生の改善、病院・学校支援、失業対策としての公共工事、(4)軍事・儀礼――市民衛兵の訓練、礼砲・閲兵・祝祭の演出による威信維持、など多岐にわたりました。彼はポルトフェッライオに冬の邸宅「ムリーニ宮」と、海を望む夏の離宮「サン・マルティーノ」を整え、視覚的にも「小さな宮廷」を演出しました。島の人々にとっては、これらの工事が雇用を生み、島のインフラを実際に改善した面があり、ナポレオン像は必ずしも一面的な「流刑者」ではありませんでした。
しかし、ヨーロッパの大勢はウィーン会議へ向かい、フランス国内では王党派と旧軍人の不満が渦巻いていました。ナポレオンは情報網と訪問者から情勢を見極め、監視の緩さと島の港の地理を活かして機会を窺います。1815年2月26日、彼は少数の近衛兵とともに小艦隊でエルバを脱出し、3月1日に南仏ゴルフ=ジュアンへ上陸しました。ここからパリへ向けて北進し、三色旗の下に兵士と民衆の支持を集めて政権復帰、「百日天下」が始まります。6月のワーテルロー敗北とセントヘレナ島への流刑は、この短いエルバ時代の延長線上にあります。
19~20世紀のエルバ――鉱山・戦争・観光、記憶の地政学
ナポレオン退去後のエルバは、再びトスカーナの行政下に組み込まれ、のちにイタリア王国の一部として統合されます。19世紀後半から20世紀前半にかけて、鉄鉱採掘は機械化され、輸送は桟橋と鉄道の整備で効率化しました。ピオンビーノとのフェリー連絡と積み出しが活発になり、鉱山町リオ・マリーナ周辺は労働者の居住地として拡大します。他方で、保全の視点からみれば、露天掘りとスラグの堆積は海岸線の景観と海洋環境に負荷を与え、後年の環境修復の課題を残しました。
第二次世界大戦期、1943年のイタリア休戦後に島はドイツ軍の占領下に入り、連合軍の上陸を警戒した防備が施されました。1944年6月には自由フランス軍と連合軍が「ブラッサール作戦」で上陸し、激しい戦闘の末に解放されます。戦後は鉱業の衰退とともに、観光が新たな経済の柱として台頭しました。ナポレオン関連の遺構(ムリーニ宮、サン・マルティーノ邸、旗章や儀礼に関わる資料)、要塞や監視塔、旧鉱山と鉱山博物館、透明度の高い海と入り江のビーチが、歴史と自然を組み合わせた観光資源となり、ダイビングやトレッキングの目的地として知られるようになります。
文化面では、地中海世界らしい多層性が残ります。料理は海産物と山の産物(栗・きのこ・野草)が融合し、鉄分を含む赤土の畑ではワイン用葡萄が育ちます。宗教祭礼と海の祝祭、ナポレオン来島記念行事など、年間行事は歴史が観光に読み替えられた「記憶の演出」の場でもあります。小都市の劇場や市立博物館には、メディチ期や近代の資料が保存され、島が外部世界とどのように結び付いてきたかを可視化します。
エルバを学ぶ視角――資源・海上交通・政治流刑、三つの交差点
世界史用語としてのエルバ島を理解するための要点は三つあります。第一に「資源」の視角です。エルバの鉄鉱はエトルリアから産業革命前夜までの長い時間にわたって価値を持ち、採掘・製錬・輸送の技術史を読み解く鍵になります。第二に「海上交通」の視角です。ティレニア海の要衝として、港と要塞の配置、海賊・海軍・交易船の力学、ピサ・ジェノヴァ・スペイン・トスカーナ・英国・フランスが交錯した海の政治史が凝縮されています。第三に「政治流刑・亡命」の視角です。ナポレオンのエルバ統治は、敗者に一定の主権を与えるという19世紀国際政治の特殊な妥協を示し、亡命と帰還、情報戦と象徴操作のモデルケースとして検討に値します。
これら三つの視角を重ねると、エルバは単なる「ナポレオンの島」を超え、資源と地政、記憶と観光が絡み合う動的な場として立ち上がります。かつての要塞は展望台となり、鉱山跡は博物館となり、亡命者の邸宅は来訪者の歩く回廊へと変わりました。変わらないのは、島が海とともにあり、海が島の運命を方向づけるという基本です。港に立つと、鉄の赤と海の青、要塞の石灰色が重なり、エルバの歴史の層が目に見えるかたちで現れてきます。そうした「景観としての史料」を読み解くことが、この島を学ぶ最良の方法なのです。

