「韓国軍部クーデター」は、狭義には1961年5月16日に朴正煕(パク・チョンヒ)らが主導した「5・16軍事クーデター」と、1979年12月12日に全斗煥(チョン・ドゥファン)ら新軍部が起こした「12・12軍事クーデター」を指す言葉として用いられます。いずれも大韓民国の権力構造を短期間に転覆させ、軍が政治の前面に躍り出る転換点となりました。5・16は戦後の混乱と政治的停滞の中で、革命公約を掲げる軍の非常措置として正当化され、国家再建最高会議の権力掌握と高度経済成長の出発点につながりました。12・12は朴正煕暗殺後の権力空白に乗じた軍内部クーデターで、続く「ソウルの春」を戒厳で封じ、光州事件(1980年5月)を経て全斗煥体制が発足する流れを作りました。以下では、背景と用語の整理、5・16の経緯と構造、12・12から第五共和国成立までの展開、そして軍政の統治手法と社会的影響を、できるだけ平易に解説します。
背景と用語の整理―冷戦、国家建設、軍の位置
韓国の軍部クーデターを理解するには、冷戦体制と朝鮮戦争の後遺症、国家建設期の制度不全という三つの背景を押さえる必要があります。1948年に建国した大韓民国は、南北分断と朝鮮戦争(1950–53)の惨禍を経て、治安の軍事化と反共イデオロギーの強化が避けられない環境に置かれました。戦後復興の過程では、軍が治安維持やインフラ整備に深く関与し、人事・予算・装備の面で政治との結びつきが強くなります。加えて、政治政党は派閥的で不安定、行政は汚職と能力不足が批判され、選挙の公正や議会の機能も揺らぎました。
こうした状況で、軍内部には「秩序回復」「反腐敗」「経済再建」を名目に政治介入を志向するグループが形成されました。5・16を担った朴正煕の周辺は、戦後に急成長した若手将校層で、旧日本軍・満洲軍での経験者も多く、組織運用や作戦遂行に長けていました。12・12を主導した全斗煥・盧泰愚らは、保安司令部・第9師団・第1空挺旅団など実力部隊を握り、情報・戒厳統制を結節点に政権中枢へ進出しました。用語として「クーデター(軍事クーデター)」は、既存憲法秩序の外部からの武力的権力奪取を意味し、本件はいずれもその典型に当たります。
また、韓国ではクーデター後に非常措置機関(国家再建最高会議、非常国家保安会議など)が設置され、やがて形の上では選挙や憲法改正を経て「民政」へ移行する段取りが繰り返されました。したがって、軍政は単発の事件ではなく、統治機構の再設計と憲法体制の再編を伴う長期プロセスとして現れました。
5・16軍事クーデター―国家再建と経済動員の始動
1961年5月16日未明、朴正煕少将を中心とする将校グループは、首都圏と主要軍事拠点を急襲し、放送局・官庁・交通結節点を制圧しました。前年の4・19革命(学生運動による李承晩体制の崩壊)後に成立した張勉内閣は議会制のもとで政治的リーダーシップを欠き、経済停滞と治安不安が続いていました。軍事革命委員会はクーデターの目的として、反共の徹底、腐敗追放、経済再建、国民生活の安定、民主主義の秩序ある発展などを列挙し、政党・国会の活動を一時停止、国家再建最高会議(最高会議)を設けて実権を掌握しました。
最高会議は、軍人出身者を中心に行政・司法・立法機能を統合し、人事・監察を通じて既存エリートを一掃する措置を進めました。他方で、米国の承認を得るため、軍政の暫定性を強調し、経済開発に資する官僚の活用や国際機関との協調を打ち出しました。1963年には朴正煕が制服を脱いで大統領選に出馬・当選し、形式的な「民政移管」が行われます。以後、朴政権は中央情報部(KCIA)・警察・検察を柱とする統制装置を整え、反共法・国家保安法の運用を強化して反体制を抑え込みました。
5・16の最大の特色は、経済開発の国家動員体制を築いた点にあります。第一次・第二次経済開発5カ年計画が策定され、輸出志向工業化(繊維・軽工業から重化学へ)、インフラ建設、セマウル(新しい村)運動などの社会動員が進みました。外資導入と日韓基本条約(1965)に伴う対日請求権資金・民間投資は、鉄鋼・造船・化学・機械など基幹産業の育成に使われ、財閥(企業集団)を核とする成長モデルが成立します。経済面では高度成長と雇用拡大が実現しましたが、政治面では言論統制・労働運動の抑圧・学園の管理が強まり、民主化要求との対立が深まりました。
1972年、朴政権は「維新憲法」を制定し、大統領の長期独裁を制度化します。国会の権限縮小、間接選挙化、緊急措置権の拡大などにより、統治は一層強権化しました。これに対し、野党・学生・知識人・宗教界・労働者が各地で抗議を重ね、社会の緊張が高まります。維新体制下の開発独裁は、経済の加速と政治的窒息が併存する局面を生み出しました。
12・12軍事クーデター―権力空白から新軍部支配へ
1979年10月、朴正煕は側近の金載圭(KCIA部長)により暗殺され、長期政権は突然の幕切れを迎えました。これにより、国軍保安司令官・全斗煥は情報・捜査権限をテコに主導権を握り、12月12日夜、軍首脳の一部を拘束・排除して実力で軍指導権を確保します。これが「12・12軍事クーデター」です。表向きは「朴大統領暗殺事件の真相究明」と「軍紀の確立」を掲げましたが、実態としては保安司(のちの国軍機務司令部)と同調部隊による軍内部クーデターであり、大統領権限や合法的指揮系統を迂回して進められました。
翌1980年、全斗煥らは非常戒厳を全国に拡大し、政治活動の禁止・大学閉鎖・言論統制を強化します。5月には光州で市民と学生が武力弾圧に抗議して蜂起し、空挺部隊などが投入されて多数の死傷者を出す惨事となりました(光州事件)。この出来事は、軍政への強い倫理的反発を国内外で呼び、韓国現代史の深い痛点として記憶されます。他方、新軍部は同年夏に新たな憲法枠組み(第五共和国)を設計し、全斗煥が大統領に就任して体制を固めました。
第五共和国は、表面上は議会・選挙・憲法裁判所など制度を整えながら、実質的には軍・情報機関・警察の連携による統制政治を継続しました。経済面では、重化学工業化の深化、輸出多角化、オリンピック招致(1988ソウル)に向けた国家プロジェクトが推進されますが、労働運動の高揚、地域格差、政治抑圧に対する反発が累積しました。1987年には民主化要求が全国的な六月抗争として爆発し、直選制憲法への改正と大統領直接選挙の実現が確定します。ここに至って、軍政は制度的に幕を閉じる道筋に入りました。
統治手法と社会的影響―開発独裁、治安国家、記憶の政治
軍部クーデター後の統治には、いくつか共通する手法が見られます。第一に、非常措置と法制度の再設計です。クーデター勢力は、非常戒厳・特別法・緊急措置を組み合わせ、反対派を「治安」名目で抑圧しました。第二に、情報・諜報機関の強化です。中央情報部(後の国家安全企画部)や保安司令部は、監視・検挙・尋問を担い、市民社会の自律を抑え込みました。第三に、経済動員と実用主義です。輸出・インフラ・産業政策に国家資金と規制を集中し、外資・援助・同盟関係を梃子に成長を実現しました。第四に、象徴政治です。反共・秩序・勤勉・節約といった価値が広報され、国旗・行進・記念日が動員の儀礼として機能しました。
社会的影響は二面性を持ちます。一方では、急速な都市化と中間層の拡大、教育機会の増大、インフラの整備など、生活水準の上昇が広範に生じました。他方で、言論・集会・結社の自由の制限、労働権の抑制、拷問・不当弾圧の問題、地域や階層間の不平等が深刻化しました。光州事件の記憶は、軍政の正統性を根底から問い直す倫理的論点として、民主化以後の司法判断・追悼儀礼・歴史教育に大きな影響を与えています。1990年代以降、5・16や12・12の違法性をめぐる裁判・和解・歴史認定が進み、関係者の責任追及と名誉回復が段階的に行われました。
比較の視点から見ると、5・16は外政の承認獲得と経済開発の路線確立に成功し、軍政を民政へ漸進的に移行させたタイプであったのに対し、12・12は軍内部の実力掌握が核で、短期間に非常体制と大統領職を接続させる直接的な権力奪取でした。いずれも軍の専門性(作戦・情報・指揮)が政治の中枢に入り込むことで統治の効率を高めた反面、民主主義の基礎である自由権と権力分立を損ない、社会に深い傷跡を残した点は共通します。韓国の民主化は、こうした軍政の遺産を制度的・文化的に克服するプロセスとして理解されます。
以上のように、「韓国軍部クーデター」は、冷戦期の安全保障環境と国家建設の課題の中で、軍が政治権力を直接掌握した二つの山場を中心に把握されます。5・16と12・12は、発生条件・手段・国際環境・統治手法に差異がありつつも、非常措置の活用、経済運用の国家主導、情報機関の肥大化という共通の特徴を示しました。これらの経験は、のちの民主化運動、司法の独立、文民統制(シビリアン・コントロール)の確立へとつながり、現在の韓国政治の前提条件を形づくっています。

