キューバ危機 – 世界史用語集

キューバ危機とは、1962年10月、ソ連がキューバに中距離核ミサイルなどを極秘配備していることを米国が偵察で確認し、米ソ両大国が核戦争の瀬戸際に立った国際危機を指します。アメリカは「海上検疫」と呼ぶ軍事封鎖で追加搬入を止め、ソ連は撤去の条件を探り、キューバは主権と安全の確保を主張しました。最終的に、ソ連がミサイル撤去を受け入れ、米国は侵攻不実施の保証とトルコ配備のジュピター核ミサイル撤去を秘密裏に約束して、危機は収束します。要するに〈秘密裏の核配備→発見→封鎖と交渉→相互譲歩による撤去〉の四段階で進んだ出来事で、冷戦の危うさと危機管理の限界、そして交渉技法の重要さを一挙に可視化した事件でした。

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背景と導火線――ピッグス湾の傷跡、モンゴース作戦、核均衡の不均等

発端には、1961年4月の「ピッグス湾侵攻」の失敗がありました。米政府の支援を受けた亡命キューバ人部隊が上陸し、カストロ政権の打倒を試みましたが、短期間で鎮圧されました。以後も米側は秘密工作「モンゴース作戦」を続け、妨害・破壊・宣伝など多面的圧力を加えました。小国キューバにとっては再侵攻の恐怖が現実であり、フルシチョフにとっても「カリブ海の社会主義の防衛」は政治的に重い訴求力を持ちました。

核軍事バランスの面では、当時、米国は大陸間弾道ミサイル(ICBM)・戦略爆撃機・潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)で圧倒的優位にあり、ソ連は質量ともに遅れていました。そこでソ連指導部は、米本土に近いキューバへ中距離弾道ミサイル(MRBM)・中距離弾道ミサイル(IRBM)を前進配備すれば、短期間で抑止力の「ショートカット」を得られると判断しました。さらに、米国がトルコやイタリアに配備したジュピター核ミサイルでソ連南部を狙える状況への対抗意識もありました。こうして1962年夏、ソ連は極秘作戦(アナディル作戦)でミサイル・地対空ミサイル(SAM)・戦闘機・地上軍をキューバへ大量移送し始めます。

キューバ側は、対米抑止と革命の保全のため、ソ連の配備を受け入れました。国内的には米国の侵攻に備える民兵動員と要塞化が進み、国外的には非同盟運動での発言力を高めつつ、ソ連との安全保障関係を強化しました。しかし、ソ連は配備を秘密裏に行い、公にすれば「防衛兵器の供与にすぎない」と弁明する構えでした。この秘密主義と政治的メッセージの齟齬が、後の危機の緊迫化を促す一因になります。

危機の進展と意思決定――偵察写真、EXCOMM、海上検疫、誤射と誤解

1962年10月14日、米空軍のU-2偵察機がキューバ上空を撮影し、撮影解析で中距離ミサイル基地の建設が確認されました。16日、ケネディ大統領は国家安全保障会議の枠内に臨時の「執行委員会(EXCOMM)」を設置し、空爆・上陸・封鎖・外交交渉などの選択肢を比較検討させます。軍部は奇襲空爆で発射基地を叩く案を強く主張しましたが、ソ連の核戦力への連鎖反応や国際法上の正当化の難しさ、基地の完全破壊が保証できない点が懸念となりました。

22日、ケネディはテレビ演説でミサイル発見を公表し、対キューバ「海上検疫(quarantine)」の実施を宣言しました。「封鎖(blockade)」は戦争行為と解釈され得るため、より限定的な語を用いたのです。海軍はカリブ海上に阻止線を敷き、武器搭載船舶に対する臨検・反転を迫りました。他方で、外交回路ではオスロ・ニューヨーク(国連)・モスクワの複線で対話が続けられ、両首脳の書簡やメッセージの応酬が始まります。国連安保理では、スティーブンソン米国連大使がソ連のグロムイコ外相に偵察写真を突きつける劇的場面が演じられ、国際世論は緊張を共有しました。

現場は常に偶発の危険にさらされました。10月27日、ソ連供与の対空ミサイル(SA-2)がU-2偵察機を撃墜し、操縦士アンダーソン少佐が死亡します。同日、カリブ海上のソ連潜水艦B-59は米駆逐艦の示威用爆雷投下で圧迫され、艦内の核魚雷発射が協議されましたが、副長ウラジーミル・アルヒポフの反対で思いとどまりました。また、アラスカ近辺で気象誤差からU-2が偶発的にソ連領空へ迷い込む事案も発生し、一歩間違えば報復の連鎖に発展しかねませんでした。危機管理は「意図せざる拡大」をいかに抑えるかの連続だったのです。

EXCOMM内部でも、攻撃と抑制の間で議論は揺れました。検疫の効果が限定的に見える局面では、空爆への圧力が再燃し、逆にソ連船の反転や臨検の受け入れが進むと、交渉派の勢いが増しました。ケネディは軍事エスカレーションを抑えつつ、相手に「引き際」を与える回路の維持に腐心しました。

解決の回路――二本の書簡、トルコのジュピター、侵攻不実施の保証

10月26日、フルシチョフは私的で情緒的な文体の書簡をケネディに送り、「米国がキューバ不侵攻を約束するなら、ソ連はミサイルを撤去できる」と提案しました。翌27日、今度は公式で硬い調子の第二書簡が届き、「トルコのジュピター撤去」との「取引」を明示します。米側は、第一書簡の「不侵攻保証との交換」を表向きの落としどころとし、第二書簡のトルコ条件については、水面下での合意に留める二段構えの戦術を選びました。

10月28日、ケネディの弟ロバート・ケネディは駐米ソ連大使ドブリニンと極秘協議し、(1)米国はキューバ侵攻を行わないことを公に約束する、(2)ソ連は査察可能な形でミサイルを撤去する、(3)米国はトルコのジュピターを数か月内に撤去するが、これは公然のリンクとはしない――という枠組みを提示しました。フルシチョフはこれを受け入れ、対外放送でミサイル撤去を発表します。国連・赤十字の監視下で撤去と移送が進み、危機は収束に向かいました。キューバのカストロは交渉当事者から外される形になり、五つの要求(領空侵犯停止、検疫解除、グアンタナモ返還など)を掲げて不満を示しましたが、大勢は覆りませんでした。

ここで重要なのは、表の「不侵攻保証」と裏の「ジュピター撤去」という二重のレールが、双方に「勝ち筋」の物語を与えた点です。米国は「侵攻なし」の約束で国内のタカ派に弱腰と見られる危険を負いましたが、実態としてはピッグス湾の教訓から全面侵攻は政治的にも軍事的にも選びにくかったのが実情でした。他方、ソ連は対価として米国の核の前進配備(トルコ)をはがし、国内向けの面目を保てました。

余波と制度化――ホットライン、部分的核実験停止、検証・抑止・合法性

危機の翌年、米ソは首脳間の直通通信(いわゆる「ホットライン」)を設置し、危機時の誤解と遅延を減らす仕組みを整えました。1963年には大気圏内・宇宙空間・水中での核実験を禁じる「部分的核実験停止条約(PTBT)」が締結され、放射能拡散の抑制と軍備管理の第一歩が刻まれます。危機の教訓は、偵察の重要性(戦略偵察の継続と衛星偵察の拡充)、指揮統制の厳格化(偶発発射・現場の自主判断の抑制)、危機コミュニケーションの工夫(選択肢の多重化と秘密チャンネルの併用)という具体的な制度にも結びつきました。

国際法上は、「海上検疫」の合法性が議論を呼びました。米国は米州機構(OAS)の決議を根拠に地域的集団安全保障の措置だと主張し、安保理の明確な承認なしに実施しました。封鎖=戦争行為を避けるための言葉遣いの工夫は、以後の制裁・臨検の法技術にも影響を残します。また、査察の方法をめぐる米ソの駆け引きは、のちの兵器管理での検証条項の発達につながりました。

国内政治の影響としては、米国でケネディの危機対応が一定の支持を得て、1962年の中間選挙への打撃は限定的にとどまりました。他方、ソ連ではフルシチョフが党内の批判にさらされ、1964年の失脚の一因になったとされます。キューバは主権保障を得る一方、戦略上の決定から外された疎外感を抱え、ソ連との関係に微妙な陰影が残りました。

危機像の修正――近年明らかになった事実と当事者の視界

冷戦終結後の共同検証や公文書公開で、いくつかの重要な修正が加わりました。第一に、危機時点でキューバには戦術核(対上陸部隊用のフロッグミサイルなど)や核搭載能力のある爆撃機が配備され、部分的には使用権限の委譲が想定されていたことです。もし米軍が上陸していれば、局地核使用の可能性は無視できない水準でした。第二に、前述の潜水艦B-59の核魚雷搭載と「発射寸前」事案は、危機の逼迫度を従来像以上に高めて理解することを迫ります。第三に、二通のフルシチョフ書簡の性格の違いと、その読み分けをめぐる米側の戦術が、偶然ではなく周到な政治判断だった点も、当事者の証言で具体化しました。

また、キューバの視点からは、米国の低空侵入・偵察飛行の継続や民兵の動員が「主権の侵害」と「再侵攻の準備」に見え、撃墜や迎撃は自衛の行為と理解されていました。米ソの「大国間の駆け引き」の陰で、当事国キューバの安全保障認識と意思が十分に反映されなかったことは、危機の構図を読み解くうえで欠かせない要素です。

総じて、キューバ危機は、軍事力・同盟・政治的メッセージ・法的正当化・国内世論が絡み合う複合危機でした。写真一枚、言葉の選び、船舶の針路、潜水艦の計器の針――小さな要素が全体の運命を左右しうることを示した出来事です。出来事の筋をたどるだけでなく、各当事者の「見えていたもの/見えていなかったもの」を意識して読むと、危機の立体像がくっきりと浮かび上がります。