郷挙里選 – 世界史用語集

「郷挙里選(きょうきょりせん)」は、漢代を中心に用いられた官吏登用の基本方式を指す通称で、地方社会の評判と在地官僚の審査によって人材を中央へ推挙する仕組みをまとめて呼ぶ言葉です。重要な点は、今日の「試験で一斉に選ぶ」発想ではなく、里・郷・県・郡(国)という地方の階層を通じた人物評価と、中央の面接・試問によって官途に入る点です。漢代の公文書では「察挙(さっきょ)」と「辟召(へきしょう)」が主要な術語で、「孝廉(こうれん)」「茂才(もさい)」「秀才(しゅうさい)」などの評価科目が設けられました。学校史の教科書などで広く用いられる「郷挙里選」という四字は、地方(郷)で挙げ、里(地域社会)の選を経ることを要約した後世的な総称と理解すると実像に近づきます。以下では、成立背景、制度の運用と科目、社会への影響と限界、そして後代制度との比較を、わかりやすく解説します。

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成立背景と基本構造――「評判の政治」を行政の仕組みにする

秦漢帝国は広大な領域を郡県制で統治しました。中央の法令を末端にまで行き渡らせるには、地方社会の実情をよく知る人物を官僚層に取り込む必要がありました。とはいえ、当時は全国同時の筆記試験を運用できる交通・通信・学校制度が整っておらず、人材の把握は「誰が徳行に優れ、実務に耐えるのか」を顔の見える関係で確かめるほかありませんでした。ここで機能したのが、在地の名望家・里長・三老など共同体の長老と、県令・太守といった地方官による「人物評」です。

制度の骨格は、地方社会→地方官→中央という推挙の段階化にあります。まず里や郷で評判の高い人物が候補に上がり、県・郡の長官が日常の行政・裁判・租税の場で人物を「察(み)て挙げる」ので「察挙」と言います。中央は奏上を受理すると、詔や尚書の手続を通じて呼び出し、策問(面接型の試問)や短期の見習い任用を経て、郎・史・属官などの初任ポストに就けました。中央の官署で実務経験を積んだのち、地方官に転じたり、昇任したりします。もう一つの入口である「辟召」は、司徒・司空など三公や名高い州郡の長官が、自身のスタッフとして有為の人物を「辟(招く)」制度です。辟召はヘッドハントに近く、学識や議論の能力が高い「名士」を引き付ける効果をもちました。

この仕組みは、単なるコネの温床ではなく、「徳行を社会が監督する」という共同体規範を前提にしていました。家族への孝と清廉(私欲の少なさ)を重視する倫理は、税徴収や裁判、軍役に関わる官人のふるまいを規律する実用的な徳目でもありました。結果として、地方の名望家が国家の行政体系に吸い上げられ、中央と地方の相互接続が生まれます。帝国はこのネットワークを通じて、文書行政と慣行秩序を結び、広域統治のコストを下げることができたのです。

運用の実際――科目・審査・任用の流れ

漢代の察挙には、いくつもの「科目(カテゴリー)」が設けられました。もっとも著名なのが「孝廉」です。これは親に孝行で、かつ廉直(清廉)である人物を推挙する科目で、人格の基礎を重んじる価値観をよく表しています。地方官は郡や国ごとに定められた割当(名額)に基づき、毎年あるいは隔年で孝廉を挙げ、中央は彼らに策問を施しました。策問は行政・法令・歴史・儀礼に関する口頭試問で、成績や人物評により任用先が決まりました。

「茂才(茂材)」は、才識と実務の秀でた人物を対象にした科目です。法や財政、軍事の知見、訟事の処理能力などが評価され、太守・相の補佐や属官として重用されました。時期によっては「秀才」や「明経(経書理解に秀でる)」「明法(律令・法理に通じる)」といった分科が設けられ、儒学教育の浸透や行政需要の変化を映し出しました。とくに後漢では、太学・郡国学といった公的教育機関の整備が進み、経書解釈の能力が要件として重みを増しました。

審査の要は、①在地での評判(里・郷レベルの証言)、②地方官の観察と実務評価、③中央での策問・面接、④試補(見習い任用)という階段を踏むことでした。筆記試験のように画一的な「点数」で決まるのではなく、日常のふるまいとコミュニケーション、判断力が重視されました。任用の入り口は、宮廷の警護・雑務も担う「郎」や、各省局の書記官「史」などが典型で、ここで記録作成・文案起草・案件整理を学び、やがて県丞・県尉・県令などの地方官に転じます。とりわけ財政・法務に強い者は、租税・戸籍・訟事の要職を担い、帝国の運営に不可欠な専門性を蓄えました。

他方、三公・九卿・州郡長官が直接に人材を呼ぶ「辟召」は、名士層の登用に適していました。大きな案件の諮問に応える策士や、経学に通じた学者、地方豪族の若手などが対象となり、辟召で実績を積んで中央へ進む「高速レーン」も存在しました。これにより、地方の知の中心である門生・故吏のネットワークが強まり、政治文化の伝播路になりました。

社会的影響と限界――名士の台頭、豪族の固定化、党錮の禍

郷挙里選(察挙・辟召)体制は、地方の名望家を国家運営に組み込むことで、広域統治を可能にしました。同時に、この仕組みは在地エリートの声を中央に届ける「代表制」の萌芽でもあり、政論・史学・儀礼論争などの公共的議論を促しました。太学や郡国学に集う学生・門生が地方へ戻って師友ネットワークを築き、経書解釈と政治論議を媒介したことは、漢代の教養社会を形づくる重要な要因です。

しかし、長期的には限界も顕在化します。第一に、「評判」を媒介とする以上、推薦と人事が在地豪族の支配と結びつきやすく、血縁・婚姻・師弟関係が選抜の公正を浸食しました。地方の有力家は郡県の官人と互いに依存し、世代を超えて「名士層」を再生産する仕組みができあがります。第二に、科目の倫理的強調(孝廉)と経学偏重は、法務・財政・工学など実務技能の評価が薄くなる副作用を生みました。もちろん有能な実務家も多く輩出されましたが、制度の重心が名声と学統に傾くほど、運用は硬直化します。

第三に、後漢末には、名士ネットワークが政治的派閥化し、朝廷内の宦官勢力と鋭く対立しました。これがいわゆる「党錮の禍」です。清議(清廉な言論)を掲げる士大夫と、皇帝近臣である宦官が相互に弾圧・排除を繰り返し、察挙・辟召のルートは政治闘争の標的となりました。結果、官僚補充の正常運転が損なわれ、地方統治の綻びと相まって、後漢王朝の統合力は大きく低下します。制度の「徳と名望に依存する性格」が、危機時には逆に派閥対立を激化させたとも言えます。

こうした限界を受け、曹魏期には「九品中正制」が導入され、郡国の人物を中正官が九等に品評する仕組みが整えられました。これは一見、評判政治を標準化する工夫でしたが、実際には中正官を握る名門が格付けを通じて優位を固定化し、「門地による官途の世襲化」を促す結果にもつながりました。のちに隋唐の科挙が確立すると、筆記試験中心の競争が名望政治の重心を相対化し、国家が直接に人材を掘り起こす新段階に入ります。郷挙里選の歴史的位置は、科挙の前史としての「社会推薦型登用の成熟と限界」を示す点にあります。

後代制度との比較と歴史的評価――科挙・近代官吏制との連続と断絶

郷挙里選を、唐以降の科挙や近代の文官制度と比較すると、連続と断絶が見えてきます。連続面では、地方社会の情報に依拠して人物を把握するという発想は、科挙時代にも郷里の保薦や州県の資格審査という形で生き続けました。人事の基礎情報として「出生・家柄・師友・実務歴」を重視する文化も、程度の差はあれ継承されます。断絶面では、選抜の中心を筆記試験に置く科挙・近代文官制は、名望・門地の重みを相対化し、中央が一挙に広域から人材を掬い上げる能力を獲得しました。これは識字率や学校制度、交通通信の発達があって初めて可能になった手法で、漢代には制度的・技術的に現実味を持ちませんでした。

歴史的評価としては、郷挙里選は漢帝国の条件下で最も合理的な「統治コスト最小化の解」とみなすことができます。地方に根ざした人物評と中央の最終確認という二段階は、広域帝国における信頼の担保としてよく機能し、文書主義と徳治主義の折衷として官僚制を支えました。他方で、倫理評価と名望政治は、社会の上下移動の回路を細くし、派閥対立の火種を内包しました。ゆえに、郷挙里選の学びは二つあります。第一に、どの時代の官吏登用でも「誰が評価し、誰が最終決定するか」という権限設計が決定的であること、第二に、評価の透明性と多元性(徳・法・財政・技術のバランス)を欠くと、制度は名望や感情に引きずられるということです。

まとめとして、郷挙里選は、共同体の目と地方官僚の観察を国家の選抜装置に組み込んだ、古代帝国ならではの制度でした。そこで重んじられた孝廉や茂才の価値は、単なる道徳ではなく、広域統治の実務に直結する「信頼可能性の指標」でした。限界と矛盾を抱えながらも、漢代の行政が数百年続いた背後には、この社会推薦型の人材パイプラインがあったことを押さえておくと、後の九品中正制や科挙、さらには現代の官僚採用制度の比較理解がいっそう深まります。