羯 – 世界史用語集

羯(けつ、中国語読み:ジエ)は、中国の「五胡十六国」時代(4世紀前半)に活躍した遊牧・半農牧系の集団を指す名称です。最も知られるのは、指導者・石勒(せきろく)とその養子・石虎(せきこ)が建てた後趙(こうちょう)という国家で、河北から河南にかけての広い地域を支配しました。羯は匈奴・鮮卑・氐・羌と並ぶ「五胡」の一角として語られますが、出自や言語は確定しておらず、イラン系(サカ系)説、トカラ語(インド・ヨーロッパ語族の枝)説、テュルク系説、複合・混成説などが並立します。史料は主に漢文の正史・編年史に依存し、彼ら自身の文字記録がほぼ残らないため、政治・軍事の動向は比較的追える一方、社会や言語の実像は断片的です。後趙の短い隆盛と急速な崩壊、そして漢人政権・冉閔(ぜんびん)による「殺胡令」に象徴される激しい民族間暴力は、北中国の秩序がいかに脆く分断され、また再編されていったかを示す教訓的な事例でもあります。

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語義と歴史的背景:五胡十六国の文脈での「羯」

「羯」という呼称は、漢文史料で一定の民族・勢力を指すラベルとして現れますが、その範囲は時代や文脈で揺れます。東晋・十六国期の北中国では、漢人王朝(西晋の崩壊後に南遷した東晋)と、北方・西方から流入・台頭した諸勢力が入り乱れ、地方政権が次々と興亡しました。史家は便宜上、匈奴・鮮卑・氐・羌・羯を「五胡」と総称し、遊牧・半遊牧の伝統をもつ多様な集団をひとまとめに扱いました。このうち「羯」は、主として後趙の支配層を担った人びとを指し、彼らの指導者名(石姓)と結び付けて語られます。

三世紀末から四世紀初頭、北中国は戦乱と移住で社会が流動化し、旧来の郡県支配は大きく傷みました。前趙(匈奴)、後趙(羯)、前燕(鮮卑)、前秦(氐)などが代わる代わる中原を制し、税・兵・食糧・移民の管理は常に緊急の課題でした。羯はこの権力地図の一角を占め、特に石勒・石虎の時代には、軍事的な機動力、俘虜・移民の組織化、在地豪族の懐柔で頭角を現しました。

出自・言語・文化:諸説併存と史料の制約

羯の出自については、古くから議論が続いています。第一に、イラン系(サカ・ソグド系)とする見解です。人名・地名の音写や、一部に残る語句の音価を手がかりに、西方草原のイラン語群との近縁性を推す研究があります。第二に、トカラ語系(インド・ヨーロッパ語族の枝)に近いとする説で、タリム盆地の言語層との接触を想定します。第三に、テュルク系に連なる、あるいはテュルク化した集団という見解も提示されてきました。いずれの説にしても、決定的な文献・碑文・語彙資料が乏しいため、結論は保留されるのが現在の標準的態度です。

史料面でよく言及されるのは、漢文史書に記録された「羯語」の断片的な語句や、指導者の通称に見られる外来音ですが、これらは漢字音による転写のため再構成が難しく、複数解釈が並びます。また、羯は単一の「民族」よりも、戦乱期に形成された軍事的・政治的同盟体としての性格が強く、匈奴・漢人・鮮卑・ソグド系商人などが混在していた可能性があります。騎射・機動戦を得意とする戦法、俘虜や移民の集団移住、農業・牧畜の併存など、北方・西方の生活文化と中原の制度の折衷が実務のレベルで進みました。

宗教・信仰については、天神・祖霊・山川の祭祀に加え、漢地の礼制や仏教の受容が局地的に進んだとみられます。後趙の政治中心では、仏寺・僧尼が活動した形跡があり、戦乱の安寧祈願や王権の権威づけに仏教が利用されたことが推測されます。もっとも、均質な文化像を想定するのは危険で、羯の内部でも地域差・階層差が大きかったと考えるのが妥当です。

政治史:後趙の成立・最盛・崩壊と「殺胡令」

羯の名を最も強く歴史に刻んだのは後趙です。創業者の石勒(?–333)は、もとは漢人豪族に従属する立場から実力を伸ばし、河北・河南の要地を制圧して自立しました。彼は騎兵の運用と補給線管理に優れ、城邑の包囲と降伏者の編入を繰り返して勢力を増します。石勒の死後、養子の石虎(?–349)が権力を継承し、都城の整備、大規模な土木、後宮・宮廷儀礼の拡充、俘虜・移民の移送と配置を強硬に進め、版図と人口を拡大しました。石虎の治世は外形的には隆盛ですが、宮廷内の権力闘争、重税・徭役、苛烈な刑罰が社会に重圧をもたらし、地方反乱の火種を抱えました。

石虎没後、後継争いで政権は動揺し、各地で軍閥・豪族が離反します。混乱の中で頭角を現したのが漢人系の冉閔(染姓から改姓、在位350前後)で、彼は邯鄲・鄴を中心に勢力を固め、ついに「胡」と総称された北方出身の諸集団(羯・匈奴・鮮卑など)に対して苛烈な弾圧を行いました。史書に伝わる「殺胡令」は、その象徴とされます。これは、羯を含む胡人の摘発・殺害を奨励し、髻や服飾・言語などの外見・風習を手がかりに選別したと記録されます。短期的には冉閔が中原の一部を掌握する効果をもたらしましたが、長期的には北中国の人口・生産力に深刻な打撃を与え、鮮卑など他勢力の南下・再編を促進しました。後趙は瓦解し、代わって前燕・前秦などが台頭、最終的には北魏(鮮卑拓跋氏)が北方を統一して北朝の基礎を築きます。

この過程で「羯」という呼称は、後趙の支配層の記憶と結びつき、政権の暴力性(とくに石虎政権の苛政)や、民族間暴力の引き金となった仇敵像として、漢文史料上に描かれました。ここには勝者の視点と、後世の道徳的評価が混在しており、批判的読解が必要です。

相互作用とその後:他の胡族・漢社会との交錯、概念の残響

羯は、匈奴・鮮卑・氐・羌とともに、北中国の混交社会を形づくった要素でした。軍事・騎射の技量、移住・編戸の組織化、在地豪族との同盟、仏教の受容と保護など、彼らの実践は他の胡族と多くを共有します。他方、政権運営の過程で、漢文化の礼制・官名・律令・書記が取り入れられ、羯の指導層は漢字文化圏の政治言語を使いこなすようになります。これは同化というより、「支配の言語」の選択であり、在地社会を管理するための合理的対応でした。

後趙の崩壊後、羯という呼称は政治的主体としての意味を急速に失い、多くは鮮卑政権や漢人政権に吸収・同化されたとみられます。族名の消滅は、集団そのものの消滅を意味しません。戦乱期の同盟体が分解し、血縁・地縁・軍事的結合が新政権の戸籍・郡県・軍戸の枠内へ再配置された結果、かつて「羯」と呼ばれた人々は、姓氏・職能・居住地を通じて北朝社会に埋め込まれていきました。

史学上、「羯」は先入観の集積でもあります。すなわち、漢文史料における異民族表象(粗暴・勇猛・残忍といったステレオタイプ)と、後趙政権に対する道徳的非難が重なり、単純化された民族像が作動してきました。現代の研究は、考古学・地理情報・碑誌・出土文書・比較言語学の成果を踏まえ、羯を固定的な「民族」とみなすより、戦乱のなかで生まれた「政治的カテゴリー」と捉え直す方向へ進んでいます。限られた史料を丁寧に読み解きつつ、同時代の他集団との関係、移住・編戸・徴発といった実務の歴史に照らして、羯の実像を再構成する努力が続いています。