絹布(帛) – 世界史用語集

絹布(けんぷ、帛〈はく〉)とは、カイコの繭から取れる絹糸で織った布の総称です。しっとりとなめらかな手触り、光を優しく反射する独特の艶、通気性と保温性を併せ持つ機能性が特徴で、古来「高価で特別な布」として王侯貴族の衣裳、宗教儀礼、外交贈答、貨幣代替の貢納品など、多面的な役割を担ってきました。最古の本格的な生産は中国内陸で始まったと考えられ、やがて東アジア全域、中央アジア、インド、地中海世界へと広がります。交易路は後世「シルクロード」と総称され、絹は単なる布を超えて、技術・宗教・芸術様式・文字文化の交流を媒介しました。日本でも古墳・飛鳥・奈良・平安の各時代に朝貢品や公領の貢納として重視され、律令国家の財政・礼制・装束制度を支える基盤のひとつでした。以下では、起源と製法、経済・交易のダイナミズム、文化的意味と象徴性、技術と制度の諸側面から、絹布(帛)の歴史的実像を立体的に解説します。

スポンサーリンク

起源・素材・製法:繭から布へ

絹は一般に家蚕(Bombyx mori)の繭から得られる動物繊維です。繭は一本の長いフィブロイン繊維(芯)をセリシン(糊成分)が覆う構造を持ち、これを熱湯やアルカリで煮てセリシンを部分的に除去(精練)し、繊維同士のまとまりを整えてから繰糸(くりいと)します。繰糸では複数の繭糸を撚り合わせて太さと強度を調整し、生糸(きいと)を作ります。生糸は経糸(たていと)・緯糸(よこいと)として機にかけられ、平織・綾織・朱子織などの組織で布へと織り上がります。

養蚕の工程は、桑の栽培、卵(蚕種)の保管、温湿度管理、給桑、上蔟(繭を作る枠への移動)、収繭、選繭、煮繭、繰糸と、多段階の熟練を要します。とりわけ温湿度の制御と病害の予防は難易度が高く、古代において養蚕知識は家門や地域に秘伝として継承されました。繊維の性質は繭の品質に左右され、春蚕・夏蚕・秋蚕の作期によって糸の光沢や強度に違いが出ます。

布地の種類は多様で、薄く軽い羅(うすぎぬ)、目の粗い紗、透明感のある綃(きぬ)、地紋の浮き立つ綾、光沢の強い緞子、厚みのある繻子、刺繍や金箔を施した錦など、用途や階層に応じて細分化されました。染色では植物染料(藍・蘇芳・茜・黄檗など)や鉱物系染料が用いられ、媒染と精練の加減で色の冴えや堅牢度が変わります。刺繍・織り紋・絞り・箔押し等の加飾は、衣裳だけでなく法衣・幡(はた)・帳・旗・装飾品まで広がりました。

絹の物性は、繊維断面の三角形に近い形と屈折率の高さに起因する真珠光沢、吸湿・放湿に優れた快適性、細番手でも高い強度にあります。こうした特性が、礼服や儀礼具、巻物・経巻の表装など「格式」と「保存性」を求められる領域で重宝された理由です。一方で摩耗や紫外線に弱く、保存には湿度・光の管理が不可欠でした。

経済・交易・政治:絹が動かす世界

絹布(帛)は、古代・中世社会において貨幣と並ぶ価値尺度として機能しました。中国では「布帛・銭」の二元的な課税・給与体系が長く併存し、農民の租税や兵士の給付が布で支払われる例も一般的でした。朝廷は絹を歳入として集め、官人の衣料・儀礼費・外交贈答・軍需に充てました。中央は地方に対して絹の上納を割り当て、地方は養蚕・織機・染色の分業体制を内包することで義務を果たしました。

国際的には、絹は東西交易の主力商品であり、価値密度が高く、運搬費用に対して利潤が大きい「軽貨」でした。オアシス都市の商人、ソグド人やペルシア系の交易民、インド洋の海商、唐・宋期の海上商船、地中海の商人共和国などが、絹を通じて網の目のように結びつきます。陸路では隊商がラクダで砂漠を越え、海路では季節風(モンスーン)を読んでアラビア海・インド洋・南シナ海を横断しました。絹は金・銀・香料・ガラス器・宝石・香木と交換され、同時に宗教や図像、楽器、科学技術の交流も加速させました。

絹の生産・流通は、国家権力と密接に結びついていました。宮廷は高級織物の工房(織官)を直営し、貢納品の規格や紋様、色目を法令で統制しました。皇帝・王権は、儀礼秩序を可視化するため、衣服令や服色令で身分と色・布地の等級を細かく定めます。違反は罰金や没収の対象で、絹そのものが権威体系の媒介となりました。外交でも、使節への下賜や婚姻同盟の贈答に絹が大量に用いられ、周辺諸国は絹を受け取ることで宗主の威徳を承認する構図が形成されました。

一方で、絹の独占は常に崩れやすい課題を孕みました。養蚕技術の流出、辺境での私織、密貿易、偽造・等級詐称など、統制の網の目をかいくぐる試みは後を絶ちませんでした。国家は等級検査・官印・封緘・市場監督で対抗し、時に関税や市場独占(専売)を強化しました。絹は高付加価値ゆえに、常に政治と経済のせめぎ合いに置かれていたのです。

日本では、律令制下で調庸・貢の体系に絹製品が位置づけられ、特産地の指定や官営工房の整備が進みました。正倉院文書には、絹の反数・色・紋様・用途が緻密に記録され、朝廷の祭祀・外交・官服に充てられました。平安期以降は荘園経済や寺社勢力のもとで養蚕が広がり、やがて中世・近世には各地に生糸の産地が形成され、国際商業に組み込まれていきます。

文化・宗教・美術:絹がつくる「格式」と想像力

絹は衣服を超えて文明の表現媒体となりました。仏教世界では、法衣・袈裟・幡・曼荼羅の基材として絹が重用され、織りや染めの文様は教理の象徴(蓮・宝相華・組紐文など)を視覚化しました。経典の表装にも絹が使われ、紙と絹の複合によって保存性と荘厳さが両立します。儒教的礼制では、冠婚葬祭の衣裳規定や朝服の色目・紋様が権威秩序を体現し、絹は社会的距離と役割を一目で識別させるサインになりました。

美術において、絹は絵画の支持体(絹本)として重要な地位を占めます。絹本は繊維の目が細かく、顔料ののりが良い反面、にじみやすく修正が効きにくい性質があります。そのため緻密な線描や淡彩表現に適し、山水・花鳥・人物などの工筆画を発達させました。掛軸・屏風・巻物といった可動式の展示形式は、絹の柔軟性と軽量性を活かした日本的展開でもあります。

装束文化では、絹の重ねと色目が季節感や物語表現を担いました。重層的に衣を重ね、裏表の色対比や光沢の違いで微妙な美を表現する技法は、絹の薄さと発色の良さがあってこそ可能でした。宮廷文学における衣の描写は、人物の身分・心情・季節・場面を伝える重要な記号であり、絹の多義性が文学表現の厚みを生みました。

さらに、絹は宗教的・象徴的な意味を帯びました。古代には蚕の生命循環(変態)が再生・純潔の象徴と見なされ、女性の勤労徳目や家内工業の規範として位置づけられました。国家は蚕養を奨励し、祭祀で王妃・皇后が初穂に相当する初繭・初織りを奉る儀礼を整え、王権の慈恵と豊穣の演出に用いました。こうした象徴性は、絹が単なる贅沢品を越えて、共同体の価値観に浸透していたことを物語ります。

技術・制度・単位:規格が支えた品質と流通

絹の品質を安定させるには、糸の太さ(番手)、撚り、織密度(経緯の打ち込み)、幅(反物の規格)、仕上げ(精練度合い・艶出し)を統一する必要があります。古代から中世にかけて、官が規格(度量衡)と検査の基準を定め、反物一本あたりの長さや幅、等級ごとの重さを規定しました。これにより税・給与・贈答における換算が容易になり、遠隔地交易でも信頼が担保されました。

制度面では、絹は課税・租庸調の「調」や、軍需・官需の指定物資として組み込まれました。生糸・織物・染め・縫製の各工程に専門職が形成され、都市では行(ギルド)や座が供給をコントロールしました。偽装防止のため、官印や布端の耳(selvage)に識別織りを施し、品質証明として機能させる工夫も見られます。輸出入では関税・検査所が設けられ、特に高級織物は国家の監督下に置かれました。

技術革新としては、足踏み式高機(こうばた)や綜絖の改良、緯糸に色を配して文様を織り出す錦技法、二重・三重組織による立体感の表現、絞り・箔押し・縫い取りの複合加工などが挙げられます。染織理論の蓄積は、媒染剤の選択や精練条件の最適化に結びつき、色の堅牢度と発色の両立を目指しました。保存科学では、虫害(衣蛾)・カビ・光劣化への対策が工夫され、巻き方・桐箱・防虫香など、伝統的知恵が現代の文化財保存にも活かされています。

計量・交換の単位も重要です。反(たん)・匹(ぴき)・疋(ひき)といった反物の単位、生糸の重量単位、等級(上・中・下)や目方による評価など、地域差を踏まえた換算知識が交易者の基礎素養でした。布は視覚的に確認できるため、貨幣不足の社会では流通効率の高い支払い手段となり、実物貨幣としての役割を長く保ちました。

最後に、絹は環境と社会の影響も受けます。桑の栽培は水と土壌を選び、養蚕は村落の労働配分と季節暦に組み込まれます。家内工業から工房・都市の分業へ、さらに広域交易へと拡大するにつれ、女性の労働・家計・地域経済の構造が変化しました。絹布は、その光沢の奥に、自然・技術・制度・文化が織り込まれた歴史の層を秘めているのです。