遣唐使の停止 – 世界史用語集

遣唐使の停止は、9世紀末に日本が唐への公式使節派遣をやめる決断を下した出来事を指します。実際の最終渡航は838年で途絶え、894年に菅原道真の建議が採用されて新規派遣が中止されました。背景には、唐の内乱や沿岸治安の悪化による航海リスクの増大、莫大な費用負担、そして日本国内で制度・宗教・学問が成熟し、必ずしも直輸入に頼らずともやっていける段階に達したという事情がありました。停止は断絶ではなく、外交・交易の形を改める選択でもあり、その後は私貿易や朝鮮半島・渤海とのルート、のちには宋との交易など、より柔軟なつながりが模索されていきます。ここでは、停止に至る国際環境と国内事情、決定のプロセス、具体的な理由、そして停止後に起きた文化・制度の変化を整理します。

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国際環境の変化:唐の動揺と海の危険

9世紀の唐は、安史の乱以降に強まった藩鎮(地方軍閥)の自立や宦官政治、財政難によって動揺が続いていました。874年に始まる黄巣の乱は長く広域に及び、沿岸の治安や官の統制力を大きく損ないました。地方ごとに軍閥や盗賊が割拠する状況は、外国使節の安全な陸上移動や宿泊・護送を保証しにくい環境を生み、到着後の行程管理すら不確実にしました。唐を目指す価値が低下したというより、唐の内部事情が安定した受け入れ態勢を維持できなくなったのです。

海上でも事情は厳しさを増していました。白村江の戦い(663年)後に北路が使いづらくなってから、遣唐使は東シナ海を横断する南路を主に用いましたが、これは外洋航海となり、台風・季節風・黒潮など自然条件の影響を強く受けます。9世紀後半は気候の不順や海上治安の悪化が重なり、遭難・漂流・座礁の危険は常に高止まりでした。唐の沿岸では官の監督が行き届かず、地方勢力や海賊の横行も伝えられ、港湾都市への安全な寄港が難しくなります。航海技術や船体構造の改善は徐々に進んだとはいえ、国家が公式使節として多数の人員と宝物・資材を載せて外洋へ出すには、リスクが費用に見合わない局面に達していました。

このような国際環境の変化は、日本側のリスク評価を根本から改めさせました。最新知識の獲得は依然として重要でしたが、唐の学術・宗教の中核はすでに導入済みであり、残る細目は書籍や私的な往来で補えるという判断が現実味を帯びてきます。外洋での人的損耗と財政負担を重ねてまで、従来と同規模の公的派遣を続ける合理性が薄れていったのです。

国内事情の成熟:受容から翻案へ

国内の側でも、停止を後押しする条件が整っていました。律令制度は奈良時代に骨格が整えられ、平安初期には実務運用が日本の事情に合わせて調整されていました。都城計画や官人制度、度量衡、文書様式など、国の運営に関わる基礎技術はすでに確立し、細かな改良は国内の官人・学僧ネットワークで処理できる段階に進んでいました。とりわけ宗教では、奈良仏教の学派体系に加え、8世紀半ばの鑑真の渡来による授戒制度の確立、9世紀初頭の最澄・空海らによる天台・真言の導入と体系化が進み、戒律・教学・儀礼の「本場」の知が国内で再生産できるようになりました。

学問でも、漢詩文・史学・暦学・医薬などは国内に専門人材が育ち、留学の「必須性」は相対化されます。公的留学生が数十年かけて大陸に滞在しなくとも、輸入書籍や写本、来日僧・商人からの情報、そして国内での研究・教育体制によって、必要な知識が得られると見通せるようになりました。官制面でも、格式・令の改正や、地方行政の実務に適した便法の整備が進み、唐法の直輸入よりも、日本の実態に合わせた運用の知恵が重んじられていきます。

財政面の圧迫も看過できません。遣唐使は船団建造、装備・物資調達、随員の給与と旅費、唐側への贈答、帰国後の接待・報告体制など、国家規模の出費を伴う事業でした。地方の徴発や人夫動員が生産に与える影響も無視できず、度重なる派遣は国内経済にとっても負担でした。しかも、派遣回次によっては半数以上が遭難することもあり、費用対効果の観点から慎重論が強まっていきます。

決定のプロセス:894年の中止建議とその意味

こうした状況を踏まえ、894年、学者官僚であった菅原道真が遣唐使の中止を建議し、宇多天皇がこれを採用しました。道真の意見は、唐の混乱と海路の危険、そして得られる成果の逓減を冷静に指摘するもので、単なる保守ではなくリスクとコストの再評価にもとづく政策提案でした。ここで重要なのは、法律で「遣唐使を永遠に廃止する」と明文化したわけではなく、実施の見合わせ=新規派遣の停止という行政判断として実現した点です。

実のところ、最後の実施派遣は838年で止まっており、894年は「再開を検討したが、見送った」という位置づけでもあります。つまり、制度上の「停止」決定は、すでに進んでいた実務上の空白を追認した側面があります。これは、現実主義的な政策運営の表れでもあり、国家の資源配分を外征型の知識獲得から、国内の整備と地域的交流へと振り向ける意思表示でもありました。

また、停止判断は外交戦略の転換をも意味します。冊封的な儀礼を含む大陸中心の外交ルートに固執せず、朝鮮半島や渤海との関係、多国間の私的交易、内海交通の整備といった、複線的なネットワーク運用へ切り替える布石となりました。国家が一元的に管理する大規模使節を減らしつつ、民間の機動力と局地的な交流に余地を与える方向に舵を切ったと言えます。

停止の理由を分解する:危険・費用・逓減・自立

第一に「危険」です。外洋航海は、現代の感覚では想像しにくいほどの高リスクでした。台風季の読み違え、黒潮の流速、羅針や精密な海図が未発達な中での天測、帆柱や舵の損傷、飲料水の腐敗、疫病の蔓延――いずれも船団の存亡に直結します。唐沿岸の治安悪化は、この危険をさらに増幅しました。到着後の陸路移動でも、地方軍閥の検問や徴発、宿駅の混乱が予想され、使節の安全と威信を保つのが難しくなっていました。

第二に「費用」です。船の建造・修繕、帆・縄・釘・樹脂などの資材、乗組員の訓練、食料と医薬の備蓄、外交贈答品の調達など、総費用は国家の一大プロジェクトに匹敵します。これに、出港地のインフラ整備(港湾・倉庫・造船所)や、帰国後の報告・褒賞・配布といった後方事務も加わり、全体の負担は相当なものになりました。費用は単純な支出にとどまらず、動員による国内の労働力配分にも影響します。

第三に「逓減する成果」です。8世紀から9世紀初頭にかけての派遣で、律令・都城・仏教・暦法・医薬・音楽・工芸など、国家運営に必須の「基幹技術」は概ね導入済みでした。残る課題の多くは、既存体系の運用改善や在地化であり、大陸での長期留学による“根本的な革新”の余地は狭まっていました。書籍の輸入や来舶者からの知識伝播、国内の研究努力で十分に対応できると判断されたのです。

第四に「自立の志向」です。唐風の模倣から、和様の書・かな文学、和様建築、装束・礼制の日本的洗練へと、文化の自律性が強まりました。宗教でも、密教の儀礼と王権の関係は国内で独自の展開を見せ、神仏習合の枠組みが深まります。行政実務では、格式・格の改補や便法の蓄積が進み、「唐での正統」を参照せずに国内解で問題を解く力が増しました。こうした内的成熟が、停止決定の心理的な後押しとなりました。

停止後の展開:断絶ではなく、回路の組み替え

遣唐使の停止は、大陸との交流を完全に断つことを意味しませんでした。まず、私貿易や民間渡航は細々と継続し、唐物(からもの)と総称される文物は流入し続けました。朝鮮半島諸国や渤海との往来も維持され、北東アジアの地域ネットワークは命脈を保ちます。さらに10世紀以降、宋が台頭し東アジアの海上商業が活発になると、日本は朝廷の許可を得た形で日宋貿易へと関与を深めていきます。公的使節の巨大な船団ではなく、商業と宗教者・学者の小規模往来が重層的に広がる方向へと変化したのです。

国内文化は、導入済みの唐風を土台にしつつ日本化が進みました。文芸では仮名文学が隆盛し、『古今和歌集』や『源氏物語』へと連なる表現世界が成熟します。書は和様が確立し、建築は寝殿造が宮廷住宅の主流となりました。宗教儀礼や年中行事も、気候や社会構造に適合した形で整理され、宮廷文化は「国風」と呼ばれる固有の輝きを放ちます。これは、外来の権威を無視したということではなく、受容と翻案を重ねた結果として、参照軸が内側に移ったことを意味します。

行政・法制の面では、唐法の条文に拘泥せず、国内の実務に即した運用が重んじられました。荘園の展開や地方武士の台頭という社会変動に対して、中央は弾力的な便法で対応し、結果として律令国家は形式上の維持から、事実上の再編へと向かいます。遣唐使の停止は、そうした内生的な変化に国家が資源を振り向ける前提条件ともなりました。

外交面でも、冊封秩序における序列や儀礼より、実利的な交易や地域安定が重視されていきます。唐という中心の弱体化は、周辺諸国に多核的な関係を築く余地を与え、日本は自国の事情に応じて関係を選別する力をつけました。停止によって、むしろ視野が広がった側面もあったのです。

こうして見ると、遣唐使の停止は、知識と制度の「直輸入」段階から、「内製化」と「選択的外部接続」へ移る転換点でした。危険と費用を抑えつつ、必要な情報は民間や小規模ルートで取り込み、国内の成熟を促す――このバランスの取り方が、9世紀末の日本が選んだ現実的な答えだったと言えます。