高麗版大蔵経 – 世界史用語集

高麗版大蔵経(こうらいはん だいぞうきょう、朝: 고려대장경)は、高麗王朝が国家的事業として彫刻・校勘した仏教経典の総合版で、一般に「八万大蔵経(はちまんだいぞうきょう)」の名で知られる版木群を指します。13世紀のモンゴル来襲という国難のただなかで、国土安泰と仏法護持を祈願して再彫されたもので、総版木数はおよそ8万枚に達するとされます。規格の統一、高度な彫工技術、徹底した校勘によって誤字脱字の極めて少ない正確な本文を実現し、東アジアの仏典校訂史における金字塔として評価されます。現在、版木は韓国・海印寺(ヘインサ)の蔵経板殿に伝わり、文化財として厳重に保存されています。高麗版は中国・日本・チベットなどの諸版と比較しても編集方針と文字組の整斉さが際立ち、その後の朝鮮王朝や日本・中国での印行にも深い影響を与えました。宗教的には勧進と国家祈願の象徴、学術的には底本の信頼度が非常に高い校訂版、技術史的には木版本の最高到達点として位置づけられます。

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成立と背景──国難と発願、第一次・第二次彫造の流れ

高麗版大蔵経の成立は二段階で理解されます。第一段階は11世紀の「初彫」です。宋版や契丹版を参照しながら高麗での大蔵経事業が進められましたが、その多くは13世紀初頭の戦乱で失われました。第二段階が一般に知られる「再彫」で、13世紀中葉、モンゴルの侵攻が続くなか、王権と僧俗の協力で国家的な再彫事業が発願されます。海運・勧進・工房運営の体制が全国的に整えられ、版木の調達から彫刻、校勘、保管に至るまで厳密な手順が定められました。国難克服と仏法興隆を願う誓願は、寄進台帳や願文に明確に記され、経典彫造が単なる学術事業ではなく宗教的・国家的行為であったことを示します。

政治社会的背景としては、武臣政権期の混乱とモンゴル来襲が人心を不安定化させ、王権の権威を支える護国仏教の機能が強調されました。国家事業としての大蔵経彫造は、募財・労役の動員、輸送路の確保、寺院ネットワークの結集を伴う大規模プロジェクトであり、当時の高麗社会の組織力と宗教文化の厚みを物語ります。なお、再彫の完成は13世紀なかばとされ、以後、海印寺における保管体制が整えられていきます。

版木・素材・工房運営──精緻な規格と彫刻技術

高麗版大蔵経の圧倒的な価値は、版木の規格統一と彫刻技術の精度にあります。版木は主に上質の白樺・楓・桜・松などの材が用いられ、乾燥・防腐・防虫の工程を経てから使用されました。厚み・縦横寸法・縁の余白(ノド・小口)の幅、文字枠の天地左右が厳格に規格化されており、どの板を継いでも版面設計が揺らがないよう配慮されています。彫工は表裏二面を彫り、板端には巻・帖・葉次を示す識語が刻まれ、配架・検索・差し替えの管理が容易にできるよう工夫されました。

文字は端正な楷書風の書体を基調とし、字間・行間の詰め具合が一定で、墨のりを想定した彫りの深さと面の角度(面取り)が統一されています。これは印影の均質性を担保し、長期の刷り重ねでも文字の欠けや潰れを最小化するための設計でした。欄外の注文(ちゅうもん)や校勘記、訂正痕は最小限に抑えられ、本文の視認性が極めて高く保たれています。行頭の字寄せ、句読の位置、返り点的記号の付与など、読み手の使用を意識した細部は、後代の東アジア木版本の基準となりました。

工房運営では、版下の作成(清書)、彫刻、校勘、刷り試し、再校、板倉収納という流れが分業化されました。校勘は複数の底本を照合して異同を集約し、誤謬を除く作業で、宋版や遼・金の諸版、在来の写本が参照されました。校勘の痕跡は版面には表れにくいものの、誤字脱字の少なさと体裁の整理にその成果が現れています。こうした分業と品質管理は、大蔵経のような巨大コーパスを扱うにふさわしい「知の工場」を高麗社会が内部に構築していたことを示します。

構成と内容──経・律・論を中心に、索引と目録の整備

大蔵経は仏典の総合コレクションであり、一般に経(釈尊や諸仏・菩薩の説法を記す)、律(僧団の規範)、論(教義の注釈・体系化)を中核とします。高麗版でもこの三部構成を軸に、阿含部から般若・法華・華厳・浄土・密教の諸経、部派仏教から大乗・密教にわたる論書、僧祇律・四分律などの律典が網羅されました。目録類(『一切経音義』『開元釈教録』など)や索引の整備は、研究者・僧侶にとって不可欠のナビゲーションを提供し、巻次・品次・篇章の参照が迅速に行えるよう設計されています。

高麗版が重視したのは、先行版に見られる誤写・重複・配列の乱れを正し、体系的・可参照性の高いコーパスを構築することでした。そのため、巻頭・巻末に校勘の由来や底本関係を記す註が置かれる場合があり、版面の均斉とともに、編集理念の透明性が意識されています。現代のテキスト批判の視点から見ても、底本の選定と異本対照の痕跡は、仏典の伝承系譜を復元する上で貴重な手がかりを提供します。

保存・建築・環境制御──海印寺蔵経板殿の工夫

高麗版大蔵経の版木は、韓国・海印寺の蔵経板殿(チャンギョンパンジョン)に保管されています。この建築は、温湿度・通風・採光・害虫防除を建築的に解決した優れた保存施設として知られます。板殿は山の稜線と風向を読み、南北の窓・格子の配置で気流を制御し、床下・壁体の土と木材、屋根の勾配によって結露を避けるよう設計されています。昼夜・季節で変動する温湿度を平準化し、紙や木材の伸縮を抑えるための自然換気の仕掛けは、現代の保存科学の観点から見ても合理的です。

さらに、版木自体の防虫・防腐処理として、乾燥期間の管理、塩水・薬草の利用、煤煙による燻しなどが採られたとされます。版木の表裏に均等に圧がかかるよう収納し、曲がり・反りを防ぐために交互に積層する配架法も確立しました。地震や火災への備えとして、建物の耐力や可燃物の制限、消火用の水利も配慮されています。数百年にわたり良好な保存状態が保たれてきた事実は、建築・材料・運用の三位一体の成果を示します。

国際的評価と受容──東アジア仏典史・印刷史への影響

高麗版大蔵経は、東アジアの仏典校訂史・印刷史において規範的地位を占めます。中国では宋・遼・金・元の諸版、日本では平安末〜鎌倉期の印経・版本、大徳寺・東福寺などの寺院版が存在しますが、版面の美しさと本文の正確さ、構成の整然さにおいて高麗版はしばしば底本として選ばれました。朝鮮王朝期には、高麗版をもとにした印行や参照が継続し、日本にも伝来して学僧や近世学者が利用しました。明治以降、近代的な仏教学の確立とともに、高麗版は校訂事業の重要資料となり、西洋の東洋学者にも高く評価されます。

印刷技術史の観点でも、高麗版は木版本の極致を示します。均質な彫り、版面設計、紙質の選択、刷りの品質管理は、近世以降の版木文化に長期の影響を与えました。活字印刷(近代活版)の導入以前、東アジアの知の大量複製は木版によって支えられており、その代表例が大蔵経です。高麗版は、宗教テキストの大量供給だけでなく、教育・法令・文芸の印行基盤を社会に根付かせる効果も持ちました。

比較とテキスト批判──宋版・元版・日本諸版との異同

諸版比較では、宋版は初期校訂の基礎を提供し、字形や用字に地域的特色が残るのに対し、高麗版は全体にわたり字形を整理し、誤写・重複を削った整本性が目立ちます。元版は大規模ながら戦乱期の影響を受け、校勘の密度にばらつきが見られる場合があり、日本の諸版は寺院ごとの編集方針に差が出るため、特定ジャンルでは独創的な配置・註釈が付されます。高麗版を底本にしつつ、宋・元・日本諸版を参照して異同を注記するやり方は、近代以降の学術版(例えば大型全集や電子テキスト)に受け継がれました。

個別テキストの例でいえば、『法華経』『華厳経』『大般若経』『阿含経』群、『倶舎論』『成唯識論』『中論』など、部ごとに伝承系統や訳者の違いがあり、高麗版の採択が本文の標準化にどのように寄与したかが検討されます。音義書・目録の処理、偽経・疑経の扱い、密教儀軌の配列など、編集判断の差は、宗派・地域の優先順位や学風の違いを反映します。高麗版は全体として折衷的で、宗派横断的な包括を志向した点が特徴です。

制作・流通・信仰──勧進ネットワークと功徳の観念

大蔵経彫造は信仰実践でもありました。勧進帳には寄進者の名と金額、願意が記録され、貴族・官僚・僧侶・商人・在地の庶民に至るまで、幅広い層が参加しました。寄進は単に資金提供ではなく、木材・紙・墨・糊・食糧・労役など多様な形で行われ、版木一枚の供養、巻の完成供養といった単位で功徳が説かれました。完成後の読誦・転読・法会は、国家祈願と地域社会の統合を象徴する儀礼であり、版木は信仰の対象としても崇敬されました。

流通面では、蔵経は写経・摺印によって寺院・学房・私邸に広がりました。海印寺からの公的頒布だけでなく、地方寺院での部分印行、寺社の寄進者に対する授与も行われ、経典は教化と学修の媒体として生活世界に浸透しました。これにより、説教・講経の文化、読経・結縁の実践が広範に定着し、仏教知識の共有基盤が形成されました。

保存科学とデジタル化──近現代の調査・影印・データベース

近現代に入ると、高麗版大蔵経は影印本として刊行され、研究者が遠隔から参照できる環境が整いました。写真製版技術の発達により、版面の細かな彫り口や改刻痕までが精密に記録され、テキスト批判の質が飛躍的に向上します。さらに、デジタル化プロジェクトによって、全文検索・異本照合・画像注記が可能になり、言語学・仏教学・書誌学の横断研究が進みました。Unicode化された漢字の問題、異体字・俗字の正規化、画像とテキストのリンク付けなど、デジタル人文学的課題も同時に浮上し、版木文化の現代的継承が試みられています。

保存科学の観点では、版木の材質分析、微生物・昆虫による劣化の診断、非破壊検査、適正温湿度の再検討などが継続的に行われています。伝統的建築の環境制御と近代設備の補助の最適な組み合わせが模索され、災害リスクに対するレジリエンス強化も課題です。教育現場では、模型・レプリカ・VR展示などが活用され、彫刻工程や版面設計を体験的に学べるコンテンツが作られています。

意義の総括──宗教・国家・技術・知識の結節点

高麗版大蔵経は、宗教的信仰、国家的祈願、技術的熟達、学術的校訂という四つのベクトルが一点に結びついた成果です。モンゴル来襲という外圧にさらされながら、社会は分断ではなく協働を選び、資金・素材・技能・時間を投入して巨大な知のアーカイブを生み出しました。その版面に刻まれた端正な文字は、祈りの言葉であると同時に、校訂の理性と工芸の熟練を刻印しています。海印寺の静かな蔵経板殿に積み重ねられた版木群は、宗教と国家と技術が相互に作用しうること、そして文化遺産を支える社会の設計が歴史的に可能であったことを、今日に伝えています。現代の私たちは、この遺産から、信仰と知識と技術を循環させるための具体的な方法と、長期の時間感覚を学び取ることができるのです。