国民議会(こくみんぎかい)とは、主権の担い手を「国民」とみなし、その代表者が集まって立法や憲法制定を行う議会を指す一般名です。世界史ではとりわけ1789年のフランスで、三部会から分離した第三身分が自らを「国民議会」と宣言した出来事を原型として語られることが多いです。この一挙は、身分(特権)を基礎にした旧体制の政治から、法の下に平等な市民を基礎にする近代政治への大転換を象徴しました。以後、「国民議会」という言葉は、憲法制定のための特別議会(憲法制定国民議会)や、近代国民国家の常設議会の呼称として各地で使われ、19世紀のドイツ1848年フランクフルト国民議会、20世紀の各国「制憲議会」などに受け継がれていきます。本項では、(1)フランス革命期の国民議会の成立と役割、(2)国民議会が実施した改革の中身と限界、(3)ヨーロッパや世界への拡散と比較、(4)用語上の注意点—という順に、分かりやすく整理して解説します。
フランス革命の出発点:三部会から「国民議会」へ
1789年、ルイ16世は財政破綻の打開を狙って、フランスでは1614年以来となる三部会(聖職者・貴族・第三身分の身分別代表会議)を招集しました。各地方で住民の要望をまとめた「不満目録(カイエ・ド・ドルアンス)」が作成され、代表選出の過程で政治参加の意識が急速に高まります。しかし、三部会が伝統通り身分別に議決するのか、すべての代表を合して人数で議決するのかが最大の争点となり、第三身分は「国民全体の多数を体現するのは我々だ」と主張しました。
6月17日、第三身分はついに自らを「国民議会」と宣言します。これは、身分ごとの特権を前提とする「王国の会議」から、〈国民〉の主権を代表する〈議会〉への、観念上の政権移行を意味しました。6月20日には、宮廷が会場を閉鎖したことを受けて、ヴェルサイユの球戯場で「憲法が制定されるまで解散しない」と誓う有名な「球戯場の誓い」が行われます。国王は当初これを抑え込もうとしましたが、聖職者や一部貴族の合流、さらに7月14日のバスティーユ襲撃に象徴されるパリ民衆の圧力の下で、〈国民議会〉の正当性は既成事実化していきました。
同年7月以降、議会は正式に「憲法制定国民議会」(Assemblée nationale constituante)を名乗り、王権の下で憲法を定める権限を自任します。ここで重要なのは、国民議会が単に代議機関として法律を作るだけでなく、統治の枠組みそのもの—主権の所在、権力分立、地方行政、財政—を根本から設計する「制憲」の役割を引き受けたことです。
何を変えたのか:人権宣言、封建的特権の廃止、国家と社会の再編
憲法制定国民議会は、1789年夏から1791年にかけて、旧体制の根幹を揺るがす一連の改革を進めました。まず、1789年8月4日の夜、各身分の代表が互いの特権を競って放棄する形で封建的特権の廃止が決議されます。領主裁判権、十分の一税、農奴制的義務など、中世以来の法的束縛が原則として撤廃され、農民は法的に自由な所有者・納税者として位置づけられる道が開かれました(ただし地代・買戻金の処理など実務面には長い摩擦が残りました)。
続いて8月26日には、〈自由・所有権・安全・圧制への抵抗〉を核心に据えた「人間と市民の権利の宣言」(人権宣言)が採択されます。ここでは、主権は〈国民〉に存すること、法の下の平等、言論・出版の自由、課税の同意原則、罪刑法定主義など、近代法の原則が明文化されました。つまり、国民議会は「誰が統治の主人なのか」「権力は何によって制限されるのか」を、抽象的原理として明言したのです。
社会・経済面でも大きな転換が実行されました。教会財産の国有化と聖職者の公務員化(聖職者民事基本法)、行政府の地方分権(県・郡・コミューンの再編)、裁判所の再構成、度量衡の統一、関税・特権的商業組合の撤廃などが挙げられます。これらは、租税と行政の公平化、自由な市場の整備、統一的な国民経済の形成を目指したものでした。さらに、ギルド的な制約の撤廃とともに、職人・商人にとって新しい行動空間が広がります。
1791年には、〈立法権は議会、行政権は国王〉という権力分立を基本とする立憲王政の憲法が制定されました。議会は一院制、選挙は一定納税額を基準とする「能動市民」に限定され、財産要件が政治参加の線引きに用いられました。ここに、〈普遍的人権〉を掲げつつも、政治的主権の実際の担い手を財産で区切るという、近代初期の代表制の限界と矛盾が現れています。
国民議会は、自由と平等の原理を押し立てながらも、女性参政権や奴隷制廃止については当初十分に踏み込めませんでした。例えば、女性の政治的権利を訴えたオランプ・ド・グージュの『女性および女性市民の権利宣言』(1791)は、時代の先を行く提案でしたが、当時は主流になりませんでした。また、植民地の奴隷制は段階的に揺れ動き、最終的な廃止は後年の出来事となります。したがって、国民議会の改革は近代化の大枠を作りながらも、社会的包摂の射程では未完の側面を残したと言えます。
拡散と比較:フランクフルト1848、各地の「制憲議会」、そして定着へ
「国民議会」という語は、その後ヨーロッパ各地で、主権者を国民とみなし、憲法と国家を作り直す制憲的議会の名称として広がりました。代表例が1848年のフランクフルト国民議会です。三月革命の高揚の中でドイツ諸邦から選出された代表がフランクフルトのパウロ教会に集まり、ドイツ統一と自由主義的憲法を目指しました。議会は基本権章(言論・信教・集会の自由など)を採択し、統一ドイツの枠組みを論じましたが、普墺・諸邦の力関係に押し戻され、最終的な統一憲法の実施には至りませんでした。それでも、〈国民〉が自らの政府の形を議場で設計するという発想は、後のドイツ帝国憲法やワイマール憲法へと伝わっていきます。
同じ1848年のフランスでも、二月革命後に制憲議会が選出され、普通選挙(男子)にもとづく共和国の体制を定めました。オーストリア、イタリア諸邦、ハンガリーでも制憲的議会が開かれ、民族自決・言論の自由・法の支配が掲げられます。成功と挫折はさまざまでしたが、〈国民の代表が憲法を作る〉というルールそのものが、19世紀の政治変動の共通語になっていきました。
20世紀に入ると、帝国崩壊や革命の場面で憲法制定会議(制憲国民議会)が頻繁に設けられます。第一次世界大戦後のドイツ・ワイマール国民議会(1919)は、比例代表制や社会権を含む新憲法を制定しました。ロシアでは1917年に制憲会議(憲法制定議会)が選ばれましたが、ボリシェヴィキ政権との対立で短命に終わります。アジアでも、辛亥革命後の中国で臨時参議院や国民大会が憲法制定を試み、日本の大日本帝国憲法制定(1889)は上からの憲法制定でしたが、1946年には帝国議会が改正の形式で新憲法を可決し、主権在民の原理が定着します。これらはいずれも、〈主権者が代表を選び、公開の議場で基本秩序を決める〉という、国民議会的な発想の広がりを示しています。
また、今日でも多くの国で下院または一院制議会を「国民議会(National Assembly)」と呼ぶ例があります。フランス第五共和政では下院が「国民議会」、韓国・ベトナム・ナイジェリアなどでも同名が用いられます。ただし、同じ名前でも権限や選挙制度、政府との関係は国によって大きく異なります。用語の共通性は、〈国民代表の集会〉という理念を共有する一方、制度設計のバリエーションを隠してしまう危険もあります。
用語の整理と意義:身分制会議との違い、制憲と通常立法、名称の揺れ
最後に、学習上の注意点を整理します。第一に、三部会(身分制会議)と国民議会は別物です。三部会は身分別代表が身分ごとに投票するのが原則で、国王が招集・停止できる旧体制の機関でした。これに対して国民議会は、身分の別を超えた〈国民〉を主権者とみなし、代表の総数で議決し、憲法や法律の制定を担います。1789年の〈宣言〉は、この転換を表す出来事です。
第二に、「憲法制定国民議会」と「立法議会」の区別です。フランス革命では、1791年の憲法施行後、〈憲法を作る議会〉は解散し、選挙で選ばれた新しい〈立法(通常の法律を作る)議会〉が発足しました。制憲の役目を終えた議会と、日常の立法を担う議会は別の段階に属します。この区別は、1848年など他の国でもしばしば見られます。
第三に、名称の揺れです。英語のNational Assembly、仏語Assemblée nationale、独語Nationalversammlungは、いずれも「国民の集会」を意味しますが、文脈によっては「制憲議会」「議会下院」「国家の最高機関」など意味が異なります。歴史用語として使うときは、どの国・どの年の・どの権限を持つ議会を指すのかを明確にすると誤解を避けられます。
総じて、国民議会という言葉は、(1)〈主権者は国民〉という近代原理の宣言、(2)〈代表制にもとづく公開の討議〉という政治技術、(3)〈憲法を議場で作る〉という制度—この三つを束ねた概念として理解できます。1789年のフランスで生まれた実践は、19世紀のヨーロッパ革命を経て世界に広がり、今日の議会制民主主義の常識を形づくりました。その歩みは、権利の拡大と包摂の不十分さという両面を併せ持ち、世代ごとの再解釈を促し続けています。国民議会を手がかりに、誰が〈国〉をつくり、どのように〈合意〉を形成するのかという問いを、歴史と現在の両方から見つめ直すことができるのです。

