五・四運動 – 世界史用語集

五・四運動は、1919年5月4日に北京で起きた学生の抗議行動を出発点に、中国の都市社会に広がった大規模な愛国・反帝国主義運動の総称です。きっかけは第一次世界大戦後のパリ講和会議で、日本の山東権益が中国へ返還されず日本に認められたという報に対する怒りでした。しかし五・四運動は単なる対外抗議にとどまらず、官僚腐敗や軍閥政治への不満、旧来の価値観の見直し、言論と学術の自由の要求、そして「科学と民主」を掲げる新文化運動の高まりと結びついた点に大きな特色があります。学生のデモは上海などの大都市に波及し、商人の休市や労働者のストライキと連携して、都市の経済と政治を揺るがす社会運動へと成長しました。結果として、外交方針の転換、閣僚の更迭、対日条約の不批准など具体的な政治的効果を生み、のちの政党政治や労働運動、文学・言論の世界に深い影響を残しました。

本稿では、五・四運動の背景と発端、運動の展開と担い手、思想・文化とのつながり、政治・外交への影響とその後の波及を順に解説します。難解な専門用語は避け、当時の都市生活や国際環境のイメージがつかみやすいように整理して説明します。

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背景と発端――講和会議と都市社会の緊張

19世紀末から20世紀初頭にかけての中国は、列強の半植民地的支配のもとで、関税自主権や司法権など主権の核心部分が制限されていました。辛亥革命(1911年)で清朝が倒れ共和制が成立しましたが、各地の軍閥が割拠し、北京政府は財政的にも軍事的にも脆弱でした。都市では近代教育を受けた学生層と新聞雑誌の読者が増え、新しい政治意識が芽生えていました。言文一致の推進や伝統倫理の再検討、性別役割の見直し、科学主義の導入を唱える「新文化運動」は、北京大学をはじめとする学術・出版の拠点から広がり、社会の空気を変えつつありました。

第一次世界大戦終結後、パリ講和会議が開かれ、中国代表団は山東半島のドイツ権益が中国へ返還されることを期待して参加しました。しかし、戦前に結ばれた対日借款や秘密協定の影響、列強間の力学、そして日本の主張の強さなどが絡み、会議は日本の山東権益継承を認める方向へ傾きます。1919年5月4日、この情報が国内に伝わると、北京の学生たちは急遽集会を開き、「国恥雪ぐべし」としてデモ行進を実行しました。彼らは列強に対抗しえない政府の弱腰外交と、国内の親日派官僚を厳しく批判し、国民的抵抗の必要を訴えました。

この日、学生たちはスローガンを掲げ、要人の邸宅前で抗議し、一部では衝突や放火事件も起きました。警察・憲兵は多数の学生を拘束し、大学と社会の緊張は一気に高まります。事件の報は電報と新聞で全国に広がり、数日のうちに上海や天津、漢口、広州などの都市でも抗議集会が開かれ、学生・知識人のネットワークが各地の行動を結びつけました。

運動の展開――学生・商人・労働者の連帯

五・四運動の大きな特徴は、学生の抗議が商人・労働者の経済的手段と結びついた点にあります。まず、北京での逮捕者釈放を求める要求が掲げられ、大学の授業ボイコットが続きました。やがて上海では、商業界が自主的に「休市」を決め、物流と金融の流れが鈍化しました。都市経済の要である上海の停止は政府にとって強い圧力となり、運動は政治的交渉力を獲得します。

労働者の動員は、印刷・紡績・鉄道・港湾など基幹部門を中心に広がりました。ストライキは単なる賃上げ要求にとどまらず、愛国的スローガンと結びついて実施され、外国資本の工場や租界の生活にも影響が及びました。新聞は各地の動きを逐次報じ、ビラや演説、講演会が都市の公共空間を満たしました。女子学生や女性労働者も積極的に参加し、ジェンダーの壁を越えて新しい市民的行動が可視化されました。

運動の組織面では、学生連合会、商業公会、労働組合が連絡委員会を設け、募金・救護・宣伝・交渉の役割分担を進めました。弾圧に対しては弁護士や新聞人が支援し、拘束者の釈放運動が全国的な共感を呼びました。こうした都市横断のネットワークは、近代的コミュニケーション手段と印刷文化の発達に支えられ、従来の地域共同体とは異なる新しい「公共圏」を形づくりました。

政府側は当初強硬姿勢を示しましたが、経済の停滞と世論の高まりの前に、拘束学生の釈放、責任者の更迭、講和条約調印の見直しを示唆せざるを得ませんでした。外務当局は交渉方針を修正し、最終的に中国代表はヴェルサイユ条約への署名を拒否しました。これは五・四運動の象徴的な政治的成果であり、国際的にも注目を集めました。

思想と文化――「科学と民主」、白話運動、価値観の転換

五・四運動は、政治事件であると同時に思想と文化の地殻変動でもありました。北京大学を中心とする知識人は、「徳先生(デモクラシー)」と「賽先生(サイエンス)」を合言葉に、封建的権威や迷信に依存した社会のあり方を批判しました。雑誌『新青年』をはじめとする媒体は、言文一致の推進、個人の自由、女性解放、恋愛・婚姻観の変革、教育制度の改革を論じ、広い読者層に影響を与えました。

言語の面では、古典文(文言文)に対して口語(白話)の使用を積極的に広める運動が加速し、小説、詩、随筆、評論などの表現に新しい地平を切り開きました。魯迅や胡適、陳独秀、周作人らの議論や作品は、従来の儒教倫理の枠を越えて、個人の主体性と人間の内面を見つめる視線を提示しました。これにより、政治的スローガンと文化的実践が呼応し、社会全体の価値観の見直しが進みます。

教育と学術の面でも、学科の近代化、学会の設置、留学生の派遣拡大、翻訳・紹介事業が活発化しました。自然科学だけでなく、社会科学・心理学・法学・経済学などの領域で新しい理論の受容が進み、都市の大学と出版社が知の中継地となりました。こうした変化は、単に西洋追随ではなく、国内の課題に合わせた再解釈と選択を伴い、伝統と近代の折衷を模索する知的運動でもありました。

他方、五・四の「反伝統」色彩は、地方社会や保守的層からの反発も招きました。家族制度や宗教的儀礼の急激な改革に対する不安、都市と農村の価値の断絶、道徳の弛緩への懸念など、多様な反応が生まれました。これらの緊張は、のちの政治運動においても繰り返し姿を変えて現れ、文化と政治のせめぎ合いは長く続くことになります。

政治・外交への影響――外交方針の転換と政党形成への道

五・四運動の直接効果として、中国政府はヴェルサイユ条約への署名を拒否し、国際舞台で自国の主権を主張する姿勢を明確にしました。これは条約改正や関税自主権の回復、治外法権撤廃に向けた長期的交渉の起点の一つとなりました。国内政治では、親日派とされた要人の辞任や更迭が相次ぎ、外務路線の再検討が進みます。メディアと世論が外交と人事に影響を及ぼし得ることが可視化された点は、近代政治文化の形成にとって画期的でした。

さらに重要なのは、五・四運動が政党形成と大衆政治の萌芽に与えた影響です。学生・労働者・商人のネットワークは、のちの労働組合運動や政党組織の基盤となり、都市における動員と交渉の技術が蓄積されました。1921年、中国共産党が創立されると、五・四期の知識人・青年層の一部が参加し、労働運動や出版活動に加わります。他方で、国民党もまた都市の知識人や商工層に働きかけ、広東を拠点に国民革命へ向けた準備を進めました。こうして、五・四はイデオロギーの分岐点であると同時に、共通の動員経験を育んだ土壌でもありました。

外交的には、五・四運動が呼び起こした国際的世論の注目により、中国の対外要求は一定の支持を得る場面が生まれました。一方で、列強は自国の経済的利害を守るため、譲歩と抑圧を組み合わせる政策を継続し、実質的な不平等条約の是正は段階的にしか進みませんでした。この現実は、国内における民族主義の持続的な高まりと、外交だけでなく内政と軍備・財政の整備を伴う総合的な国力回復の必要を意識させる契機となりました。

社会の変容と記憶――都市から全国へ、日常の中の五・四

五・四運動は、都市の公共空間の使われ方を変えました。街頭演説、ビラ配布、署名運動、募金、救護体制の整備など、現代的な市民運動の手法が短期間に普及し、学生・労働者・商人の間に共通の経験が生まれました。これらの技法は、後のボイコット運動やストライキ、自治体の抗議活動にも引き継がれていきます。新聞・雑誌・図書館・夜間学校は知識の拠点となり、都市文化は政治と切り離せないものとして成長しました。

文学と芸術の領域でも、五・四を境に新しい表現が噴出しました。白話による小説や新体詩、風刺画、演劇、映画のシナリオなど、都市の読者に届く形式が発展し、作者と読者の距離が縮まりました。女性の社会参加は、学校・看護・出版・労働運動を通じて可視化され、衣服・髪型・職業選択など日常生活の細部にも変化が及びました。これらの動きは均一ではありませんが、都市の新中間層と若年層のライフスタイルを大きく変えました。

五・四はまた、記念日として定着し、追悼集会や記念講演、記念碑の建立などを通じて社会の記憶に刻まれました。記念のたびに、当時のスローガンや英雄視と批判的再検討が交わされ、歴史の意味づけが更新されていきます。政治的立場により評価は揺れ動きますが、学生・知識人・都市民衆が連帯して国家と社会の進路を問い直した経験そのものは、広い範囲で共有され続けました。

総じて、五・四運動は、外圧への抗議運動であると同時に、都市社会の自己変革と知の再編を伴う広域的な現象でした。外交の現場、大学の講義室、新聞社の編集室、工場と港湾、商店街と路上という多様な場所を結びつけ、近代中国の政治文化の基層を形づくりました。短期的な要求の成否だけでは測れない、社会の「作法」と価値観の長期的変化が、五・四の名の下に始動したのです。