呉楚七国の乱(ごそしちこくのらん、紀元前154年)は、前漢の景帝期に発生した大規模な諸侯王連合の反乱で、江南の強大な呉王国(呉王劉濞)と楚王国(楚王劉戊)を中核に、斉の分封から生まれた東方諸国(膠西・膠東・淄川・済南など)や趙などが呼応し、中央の権力強化に抗議して蜂起した出来事です。反乱は数か月で鎮圧されましたが、漢王朝が郡国制の下で進めていた「削藩(諸侯王の権限・領地の縮減)」を決定的に前進させ、のちの武帝期に至る中央集権の確立に直結しました。事件の背景には、劉邦以来の功臣・宗室に対する広大な分封が生んだ地方権力の自律、塩・鉄・銅山や商税に支えられた呉・楚の経済力、そして景帝期に進んだ法制・財政の一元化への反発がありました。本稿では、発端と背景、戦況と鎮圧、制度と政治への影響、記憶と史料の問題という順で、要点を丁寧に解説します。
背景――郡国制のもとで膨張した諸侯王と「削藩」路線の衝突
漢の初期国家は、直轄地の「郡」と、宗室・功臣に与えた半自立的領域「国(諸侯王国)」が併存する郡国制でした。前漢前半には、反乱鎮圧や辺境経営の功に報いる形で広範な分封が行われ、とくに江南の呉王国は会稽・丹陽方面の銅・鉄・塩・漕運の利を握り、独自貨幣や関税的課徴・商税で豊かな国庫を蓄えたと伝えられます。楚王国もまた長江中下流の産物と交通の要衝を押さえ、地方軍事力と財政基盤を養っていました。
しかし、文帝・景帝期に入ると、中央は財政の均一化と刑法・度量衡の統一を進め、諸侯王の官僚任免権・征税権・司法権を徐々に制限しはじめます。とくに景帝の重臣・晁錯(ちょう さく)は、諸侯王の大国化が再び割拠を生むと警告し、(1)領地の細分化、(2)鉱山・塩鉄など戦略資源の直轄化、(3)国境の関市と通商の統制、といった「削藩」策を理論化しました。これにより、諸侯王は領土の削減や権限の剥奪に強い危機感を抱きます。とりわけ呉王劉濞は、長年の裁量の縮小に不満を募らせ、朝廷との関係が悪化していきました。
反乱の導火線としては、呉と梁(皇帝の同母弟・梁孝王の領国)との確執、すなわち呉王太子の死をめぐる怨恨がしばしば語られます。宮廷儀礼や競技の場での諍いが発端となったという逸話は、後世の潤色を含む可能性がありますが、少なくとも政治的緊張が個人的怨恨と結びつき、呉が武力に傾く心理的背景を与えたことは否定できません。いずれにせよ、制度改革(削藩)への構造的不満の上に、象徴的事件が火をつけた構図でした。
勃発と戦況――呉・楚を中核とする連合と、周亜夫の兵站遮断
前154年、呉王劉濞を盟主に、楚王劉戊、趙、斉の分封諸国(膠西・膠東・淄川・済南など)が相次いで挙兵します。連合の戦略は東西分進で、呉・楚が淮河・泗水流域から北上して梁を攻め、さらに関中に迫る一方、山東の諸国が泰山・済水方面から中央に圧力をかけるというものでした。呉・楚の兵力は多く、江淮の水運を活かして迅速に梁境へ侵入し、各地の城邑が戦火に巻き込まれます。趙は中山方面で動き、斉系の諸国は一時的に優勢に立つ地域もありました。
中央は当初、政略的譲歩で事態の鎮静化を図ろうとし、反乱の矛先が「晁錯の讒言」にあるとする諸侯の要求を受け入れて、景帝は晁錯を誅殺します。これは政治的には衝撃的な判断でしたが、結果として諸侯の武装解除は進まず、連合はなお攻勢を継続しました。軍事的解決が不可避になると、朝廷は名将・周亜夫(しゅう あふ)を大将に任じ、全軍の指揮を委ねます。
周亜夫の作戦は、正面決戦ではなく「補給線の遮断」による持久消耗戦でした。彼は黄河・泗水・済水の要地に築城・塁壁を置いて渡河点を固め、梁王国を囮にしつつ、呉・楚連合の糧道を断つことに専念します。具体的には、(1)梁境深くに救援軍を送り込まず、(2)敵が深入りして兵站が伸びきるのを待ち、(3)側背の水陸交通を遮断して敵の食糧・矢材の枯渇を誘う、という徹底した兵站戦でした。これにより、緒戦の勢いで北上した呉・楚軍は、補給の欠乏と現地住民の協力不足に苦しみ、攻囲戦の持久に耐えられなくなります。
一方、山東の斉系諸国でも、朝廷側の分断工作と地域の城砦防衛が奏功し、個別撃破の態勢が整いました。趙方面では、漢軍が要衝を堅守して反撃の機会を窺い、反乱諸国の連携は次第に弛緩します。江淮からの水運遮断と夏季の疫病・暑気も、呉・楚軍に不利に働きました。こうして、短期の電撃戦に失敗した連合は、補給欠乏・士気低下に追い込まれ、各地で潰走・降伏が相次ぎます。呉王劉濞は敗走ののち逃亡・死亡、楚王劉戊も滅亡し、他の諸侯も処断・更迭・領地削減などの厳罰に服しました。
鎮圧後の制度変化――諸侯王の権限縮減と中央集権の決定打
反乱鎮圧ののち、朝廷は諸侯王の処断とともに、制度面での再発防止策を矢継ぎ早に実施します。第一に、諸侯王の行政・司法・軍事権限をさらに絞り、王国の内政を中央任命の相(宰相)・内史・太守などの官僚機構に実質委任する方向へ舵を切りました。これにより、王は名目的な統治者(宗室の象徴)に近づき、国の実務は中央の監督下に置かれていきます。
第二に、領地の細分化と相続ルールの改編が進みます。景帝・武帝期を通じて、宗室の恩沢を広く分配して大国を割る「推恩令」(とくに武帝期に主父偃が提起)へと制度が整い、巨大な一王国が複数の小王国・侯国に分解されやすくなりました。子弟への分与によって王土を細かく割り、個々の力を弱める仕組みです。これに加え、塩・鉄・銅山などの戦略資源は中央の直轄化が進み、貨幣・度量衡・道路運用などの標準化と合わせて、地方の独自財源を刈り取っていきました。
第三に、軍制の整備と兵站・城塞ネットワークの強化が図られます。周亜夫の兵站遮断戦が有効だった経験は、のちの対外戦(匈奴や南越・朝鮮半島方面)にも応用され、河川・関隘・倉儲の整備が体系化されました。地方の兵力動員は、王国単位の独断ではなく、中央の号令と法の下で行う原則が徹底され、反乱の芽を制度的に摘む方向へと整序されます。
このように、呉楚七国の乱は、漢の初期連合国家的性格から、法・財政・軍事の一元化へと舵を切る「決定的瞬間」でした。事件そのものは数か月の短期決戦でしたが、その後の半世紀にわたる制度改革の論理と政治力学を方向付けた点で、漢帝国の長期的な国家形成史の核心に位置づけられます。
史料と記憶――逸話化された発端と、冷静な再構成の必要
呉楚七国の乱については、『史記』『漢書』などの正史が基本史料となりますが、諸侯王の動機や宮廷の意思決定の細部には、後世の道徳的枠組みや政争の文脈が反映されている箇所が見られます。たとえば、晁錯の誅殺は「諸侯をなだめるためのやむなき犠牲」と描かれることが多い一方で、実際には中央内部の派閥力学や、景帝の統治スタイル(安定重視と迅速な火消し)も絡んだ複合的判断だったと考えられます。呉王太子の死をめぐる呉・梁の怨恨譚も、史実の核はありつつ、反乱の全体像を説明し尽くすものではありません。
史学的再構成では、(1)諸侯王の財政基盤(塩・鉄・銅山・関市)の分析、(2)江淮・山東の河川交通と城塞配置の復元、(3)周亜夫作戦の行軍路・補給線の比定、(4)処断後の王国再編と行政権限の配分、といった制度史・軍事史・経済史の三方向からの検討が重視されます。出土文字資料や地理考古の成果も、各地の城邑・倉儲の規模や分布を具体化し、従来の叙述に修正を迫る場合があります。
また、事件の位置づけは、漢代国家の「統合の技術」をどう評価するかとも直結します。過度な中央集権は地方の柔軟性を損ないうる一方、初期の分封が生んだ権力分散は、しばしば国家統合の危機を招きました。呉楚七国の乱は、その均衡点を探る政治試行の一局面であり、結果として「強い中心と管理された地方」という漢帝国の基本形が固まったと見ることができます。
総じて、呉楚七国の乱は「暴発した地方の不満」ではなく、初期漢国家の制度設計が臨界点に達したときの、不可避の調整過程でした。晁錯の理論、周亜夫の作戦、景帝の政治判断、諸侯の経済基盤という諸要素が交差し、短期の戦役が長期の制度変容を方向づけました。事件を立体的に捉えることで、漢帝国がいかにして広大な領域を持続的に統治しうる枠組みを作り上げたのか、その核心に触れることができます。

