胡適(こ てき・こ せき/フー・シー、Hu Shih, 1891–1962)は、中国近代の思想・文学・教育・外交にまたがる改革者として知られる人物です。北京大学での白話運動の推進、プラグマティズムに基づく「実験主義」の学問観、文学革命の宣言、そして戦時期の駐米大使や戦後の大学改革・学術院運営まで、多方面で足跡を残しました。彼は過激な革命ではなく、漸進的な制度改革と市民的自由の拡充を重視し、政治的には自由主義の立場を取りつつ、文化の近代化を言語改革と教育から進めようとした実務家でした。熱のこもった名文と、冷静な方法論の併存が胡適の特徴であり、今日の中国語の文章スタイルや大学の研究規範にも、その影響が見え隠れします。本稿では、彼の生涯と時代背景、文学革命と白話運動、プラグマティズムに根ざした学問方法、外交・大学行政と論争、思想の射程と限界について、平易に整理して解説します。
生涯と時代背景――留学から北京大学、そして戦後台湾へ
胡適は1891年、安徽に生まれ、少年期に母に伴われて上海に移り住みました。清末の新学に触れ、やがて清朝末の官費留学制度でアメリカへ渡ります。コーネル大学で農学を学んだのち、コロンビア大学に転じ、アメリカ哲学の重鎮ジョン・デューイに師事しました。デューイのプラグマティズムは、理念の真理を現実の効果で測るという実験主義の立場で、胡適はこれを「大胆な仮説、周到な実証」というスローガンに翻訳して、東アジアの学術界に紹介しました。
帰国後の1917年、胡適は北京大学で教鞭を執り、『新青年』を中心とする新文化運動の先頭に立ちます。言語・文学・教育の改革を軸に、旧来の八股文や文言文(古典文)中心の文化に対して、口語(白話)による表現と、科学的態度・個人の自由を掲げたのが特徴でした。1919年の五・四運動の時期、彼は急進的な政治動員に与するよりも、教育と学術の改革で社会を長期的に変えるべきだと主張し、論争を呼びます。
日中戦争が全面化すると、胡適は1938年に駐米大使としてワシントンに赴任し、アメリカ世論と政界への働きかけを担いました。1942年に帰国したのち、戦後の1946年には北京大学校長(学長)となり、学問の自律と大学自治の回復を模索します。しかし内戦の激化のなかでその努力は十分に実らず、1949年以後は台湾に拠点を移して学術行政に携わりました。1950年代末からは中央研究院(Academia Sinica)の院長として研究体制の整備に尽力し、1962年に台北で客死しました。
文学革命と白話運動――「文學改良芻議」から国語の近代へ
胡適の名を決定的にしたのは、1917年に『新青年』誌上に発表した「文學改良芻議(文学改良の試論)」などの論考でした。そこで彼は、(1)思想内容の重視、(2)口語の採用、(3)古典の模倣ではなく創造、(4)文法・句読の整備、(5)平易で生きた語彙、といった具体的方針を掲げ、詩文から日常の文章にいたるまで、白話(口語)を基調とした表現への転換を強く訴えました。これは単なる文体の問題ではなく、教育機会の拡大、識字の普及、学術の翻訳・紹介、新聞・雑誌の近代化と直結する社会改革の戦略でした。
胡適は自ら白話詩や随筆を執筆し、方法面では「古典の死蔵庫化」を避けるため、朱子学的注釈の再生産ではなく、原典の批判的読解と史料学的検討を重視しました。彼の文章は、古典的修辞の華麗さを退け、明晰で口語的、データと根拠を示すスタイルで、世代を超えて模範となりました。この言語改革は、陳独秀・魯迅・周作人・胡適らが担った共同のプロジェクトですが、胡適の寄与は、理念の宣言と運用の作法(句読法、語彙選択、教科書化)を具体化した点にあります。
文学観において彼は、文学を「社会改良の道具」に専一化する立場には批判的でした。文学には自律的価値があり、個性の解放と表現の多様性が必要だと考え、プロパガンダ的文学や定型的革命文学とは距離を置きました。この姿勢は、政治運動が文化を動員しがちな時代において、文化の自律と市民的教養を守ろうとする自由主義者の立場を鮮明にしています。
プラグマティズムと学問方法――「大胆な仮説、周到な実証」
胡適の学術方法は、デューイのプラグマティズムの受容を核に、実証主義と歴史研究の手続を通文化的に翻訳した点に特色があります。彼が提唱した「大胆な仮説、周到な実証」という標語は、史料の徹底的蒐集と仮説の検証を循環させ、結果が仮説と異なればためらわず修正する態度を奨励しました。これは中国思想史・文学史・仏教史の研究に広く影響し、テキスト校勘・出土資料・考古学データをつなぐ今日的な学際研究の原型をなすものです。
具体的業績としては、『中国哲学史大綱(上編)』で先秦の思想を体系的に整理し、思想を社会的・言語的文脈に置いて読む方法を示しました。また、禅宗(禅仏教)の起源に関する実証的研究や、紅楼夢研究(脂本学)への刺激も周辺領域に波及しました。彼は「考証学」の長所を近代的に再評価しつつ、観念の体系化だけに偏らない〈史料に基づく思想史〉の書き方を模索したのです。
教育思想の面では、批判的思考と問題解決の能力を養うリベラルアーツを重視し、大学は国家の道具ではなく、知的自由の場であるべきだと主張しました。実験・討論・エッセイの評価を重んじる授業法、学内自治と学問の自由の擁護、教授任用の制度化は、彼が関わった大学改革の柱でした。
外交・大学行政と論争――自由主義の政治実践
1938〜1942年、胡適は中華民国の駐米大使として、アメリカの世論・議会・政府に中国支援を訴え、対日戦の国際的理解を広げる役割を担いました。英語での演説・寄稿・講演に長けた彼は、文化外交と公共外交を組み合わせ、世論を動かす重要性を早くから理解していました。帰国後の北京大学校長期(1946〜1948)には、内戦下での大学自治、暴力の大学キャンパスへの持ち込み拒否、学問の自由の擁護を掲げ、学生運動とも緊張と対話を重ねました。
政治思想における胡適は、マルクス主義の階級闘争と一党独裁に批判的で、法の支配・言論の自由・選挙による競争を尊重する自由主義者でした。彼は「大きな革命」ではなく「小さな改良」の積み重ね(小步徐進)の有効性を説き、過激な政治動員がもたらす副作用――暴力の常態化、学術の政治従属、言論空間の単調化――を警戒しました。この点で、同時代の急進派からは「消極的」「妥協的」と批判されることも多く、論争の的となりました。
1949年以後、胡適は台湾に拠点を移し、中央研究院の院長として研究所の再建、人材の保護・育成、国際学術ネットワークの維持に努めました。政治的には反共の立場を貫きつつも、学術の自律を優先し、検閲や思想統制が研究に及ぶことを抑えるためのバッファーとして機能しようとしました。彼の死(1962)は、冷戦期の知識人としての一つの時代の終わりを象徴する出来事でした。
思想の射程と限界――言語・自由・漸進主義の遺産
胡適の思想的遺産は、三つの軸で理解しやすいです。第一に〈言語の近代〉です。白話運動は、学術・教育・ジャーナリズム・行政文書の実務にまで浸透し、中国語世界のコミュニケーション様式を大きく変えました。言語の民主化は、識字と教育機会の拡大を通じて社会の垂直移動を促し、文学・学術・日常言語の距離を縮めました。
第二に〈自由の制度化〉です。胡適は、自由を抽象理念としてではなく、大学の自治、出版の自由、法治の確立、少数意見の保護といった具体的制度で担保する発想を貫きました。これは、政治的勝者が交代しても持続可能な自由を目指す、手続き的自由主義の伝統に連なります。
第三に〈漸進主義の政治〉です。革命の魅力が強かった時代に、彼は社会の複雑性と制度改革のコストを直視し、小さな改良の累積で長期的に大きな転換を生む道を選びました。今日、政策評価やエビデンスに基づく公共政策(EBPM)が重視される環境では、この発想はむしろ現代的です。
同時に、限界や批判も忘れるべきではありません。白話運動は文言文の豊かな表現資産を過小評価したとの指摘があり、政治面では、急進的社会改革への応答が遅く現実政治の暴力に対して無力だったという反省もあります。さらに、自由主義が社会経済の不平等に十分な処方箋を示せていないという批判は現代にも響きます。それでも、言語・大学・学術の領域で制度を整え、長い時間を味方につけるという胡適の視野は、短期の動員や宣伝では到達し得ない持続性を備えていました。
総じて胡適は、過激な破壊ではなく、知と制度の更新で社会を変える道を構想した人物でした。彼が残した明晰な文章と学問の作法、公共圏における自由の作法は、激動の時代を越えて、今なお有効な参照点であり続けています。胡適を読み直すことは、言葉と教育、学術と政治、理想と手続をどう結び直すかを考えることにほかなりません。

