コロンビア独立 – 世界史用語集

「コロンビア独立」とは、スペイン帝国の副王領ヌエバ・グラナダが19世紀初頭の大西洋革命の波の中で主権国家へ移行した過程を指します。起点は一般に1810年7月20日のボゴタの蜂起とされますが、過程は単純な「スペイン対クレオール」の二項対立ではありませんでした。半島生まれ(ペニンスラール)とアメリカ生まれのクリオーリョの対立に加え、都市エリート間の覇権争い、地域間の分裂、王党派(ロイヤリスト)として戦った下層や地方共同体、黒人やムラート、先住民、さらには内陸のリャネーロやパストの山間民など、多様な主体が関わりました。大西洋世界の戦争—ナポレオンの侵入とスペイン本国の混乱—が引き金となり、1810年代の「愚かな祖国(Patria Boba)」と呼ばれる内輪もめと失政、スペインの再征服を経て、ボリバルとサンタンデールらが解放戦争を勝ち抜き、1819年にグラン・コロンビアが樹立されます。本稿では、背景と端緒、内戦と再征服、解放戦争と国家建設、そして社会経済と遺産という四つの観点から、コロンビア独立をわかりやすく整理します。

スポンサーリンク

背景と端緒—副王領ヌエバ・グラナダの社会、帝国危機、1810年の蜂起

独立前のヌエバ・グラナダ副王領は、アンデスの高地都市(ボゴタ、トゥンハ、ポパヤン)、カリブ海岸の港湾都市(カルタヘナ、サンタ・マルタ)、内陸の鉱山・農園地帯、そしてオリノコの平原(リャノ)と太平洋側の黒人共同体など、著しく多様な地域から成り立っていました。18世紀のボルボン改革は、徴税と専売の強化、行政区画の再編、駐屯軍の常備化を進め、地方社会に重い負担と新たな機会の双方をもたらしました。植民地社会の上層はクリオーリョの官僚・法律家・商人が占める一方、カスティーリャ本国生まれの官吏・商人の影響力も強く、両者の摩擦は慢性的でした。

1808年、ナポレオンがスペインを侵略し、フェルナンド7世が退位させられると、帝国の主権正統が崩れ、各地で臨時政権(フンタ)が乱立します。大西洋を挟む帝国の通信は途絶がちになり、アメリカ側では「主権は人民・自治体に帰属する」とする議論が勢いを得ました。1810年7月20日、ボゴタでは名士たちが外交儀礼の口実(花瓶貸借をめぐる口論として有名な逸話)から騒擾を組織し、市参事会(カビルド・アビエルト)が臨時政府を樹立します。同時期にカルタヘナ、トゥンハ、パマプロナなどでも自治政府が相次いで成立し、ヌエバ・グラナダは形式上「フェルナンド7世への忠誠」を掲げつつも、実質的な独立状態へと歩を進めました。

ただし、端緒の段階から方向性は一枚岩ではありませんでした。連邦か中央集権か、急進的改革か温和な自治か、カトリック教会と世俗権力の関係はどうするか—各都市エリートの利害と思想が交錯し、統一的な憲法と軍事指揮系統の構築は難航します。沿岸のカルタヘナは自由貿易と海防を重視し、内陸のボゴタは政治・司法の中心としての権威を主張しました。この分裂的な構図が、のちの内戦と再征服の隙を生むことになります。

内戦と再征服—「愚かな祖国」、地域対立、モリーリョの圧迫

1810~1815年は、ヌエバ・グラナダの政治が最も不安定であった時期です。急進派のアントニオ・ナリーニョはボゴタを拠点に中央集権的なカンダマルカ国を主張し、連邦派のサンタンデールや他州の指導者たちと対立しました。カルタヘナやトゥンハ、アンティオキアなどは独自の憲法・軍を整え、互いに外交・通商で凌ぎを削ります。王党派も一枚岩ではなく、サンタ・マルタや内陸のパストでは保守的な共同体が強固にスペイン王権への忠誠を掲げ、地の利と山岳戦で自治派を苦しめました。こうした混乱と内輪もめの時期を、後世の史家は皮肉を込めて「愚かな祖国」と呼びます。

スペイン本国で1814年にフェルナンド7世が復位すると、植民地再掌握の方針が強まり、モリーリョ将軍率いる遠征軍がカリブ海岸に上陸してカルタヘナを包囲・陥落させます(1815–16)。ボゴタを含む内陸も相次いで制圧され、多くの指導者が処刑・追放・投獄されました。再征服は秩序の回復をもたらした反面、厳罰主義はかえって抵抗の正当性を強め、島嶼・英領からの亡命者を中心に「解放のネットワーク」が再構築されます。ベネズエラ側でもロイヤリストと愛国派(パトリオタ)の戦いが続き、オリノコ流域のリャネーロ(牧童戦士)をめぐる動員競争が戦局を左右しました。

解放戦争とグラン・コロンビア—ボヤカの勝利、ククタ憲法、国家建設

戦局を決定的に転換したのは、シモン・ボリバルが主導した1819年のアンデス越えとボヤカの戦いです。ベネズエラ側のロス・ヤノスで軍を整えたボリバルは、雨季の増水と山岳の難路を衝いてパライソ、ピスバの峠を越え、高地で意表を突く機動を成功させました。8月7日のボヤカ橋での勝利はボゴタへの道を開き、スペイン軍の中枢は崩壊、首都は無血入城となります。この勝利を受けてアンゴストゥーラ(現ベネズエラ東部)で構想されていた連合国家の実現が加速し、1819年末、議会は「グラン・コロンビア(大コロンビア)」の樹立を宣言しました。

グラン・コロンビアは、ほぼ現在のコロンビア(ヌエバ・グラナダ)、ベネズエラ、エクアドル(キト地方)、さらにパナマ(当時はボゴタ側に属する)を連合する広域国家でした。1821年のククタ憲法は、共和国・代表制・権力分立・カトリック国教・奴隷制漸次廃止(胎内奴隷解放など)を定め、ボリバルを大統領、サンタンデールを副大統領に選出します。軍事的には、サンタンデールが行政と後方を統括して補給・徴税・兵站を整備し、ボリバルは南に転じてキト解放(1822)を達成、さらにペルー・上ペルー(のちのボリビア)へ遠征してアヤクチョの勝利(1824、主にスクレ指揮)へと連なる一連の解放戦争を締めくくりました。

ただし、国家建設は容易ではありませんでした。広大な地理と貧弱な交通、地域間の利害の差、ベネズエラのカウディーリョ(地方軍事指導者)やパストの王党派の根強い抵抗、教会財産と世俗権力の関係、徴税と関税の配分、常備軍と地方民兵の整理など、課題は山積しました。英外人部隊やアイルランド旅団など外人義勇兵の役割は戦時に大きかったものの、平時の財政に重荷となり、対外債務の返済は通商政策に影響を与えました。ボリバルの一元的中央集権志向と、サンタンデールの法治・地方自治の重視は次第に緊張を深め、政治文化の亀裂はのちの分裂の原因となります。

1820年代半ばには、エクアドル・ベネズエラの分離運動が強まり、オカーニャ会議(1828)の憲法改正は決裂、ボリバルの臨時独裁宣言と暗殺未遂事件(9月の陰謀)など、政情は不安定化します。ボリバル退陣と1830年の死去、翌1831年のグラン・コロンビア正式解体をもって、連合国家の試みは幕を下ろし、ヌエバ・グラナダ、ベネズエラ、エクアドルが独立国家として歩み出しました。パナマは当面ボゴタ側に残り、19世紀末に米国の影響下で分離・運河建設へ向かいます。

社会経済・国際関係・遺産—奴隷制、先住民、通商、記憶の政治

独立の過程は、社会の階層秩序を大きく揺さぶりました。ククタ憲法下で胎内奴隷解放法(自由胎児法)が採択され、奴隷制は段階的廃止の道に置かれます(完全廃止は1851年)。解放軍は黒人・ムラート兵を積極的に動員し、恩給や土地分配が約束されましたが、履行は地域差と遅延が目立ちました。先住民共同体は、王権下で保護と搾取が併存していたレドゥクシオンや保留地制度の再編に直面し、課税と土地権の防衛をめぐって共和国との交渉を続けます。パストやナリーニョ南部では、共同体が王党派として戦った記憶が長く残り、国家の統合に裂け目を生みました。

経済面では、カリブ海港の開港と英米との通商が拡大し、コーヒーやキニーネ、家畜、鉱産物の輸出が重要性を増します。戦時の破壊と貨幣の混乱、関税収入への過度の依存、地方通貨・貸借の不整備は、国家の財政基盤を脆弱にしました。教会との関係では、財産の世俗化・修道会の抑制と教育・福祉の再配分が進む一方、保守派は国教的秩序の回復を求め、19世紀を通じて教権と国家権の綱引きが続きます。

国際関係では、英米の承認と融資が独立の持続条件となり、反乱鎮圧や国境画定(特にエクアドル・ベネズエラとの境界)は長期の懸案でした。カリブと中央アメリカへの投資・移民は限定的ながら進み、パナマ地峡は早くから世界交通の要衝として注目され、銀行・蒸気船・鉄道(のちの運河計画)へと関心が向かいました。軍事的には、マラカイボ湖の海戦(1823、主にベネズエラ側)など、スペインの拠点掃討が続き、独立の不可逆性が国際的に確認されていきます。

記憶の政治として、7月20日の蜂起と8月7日のボヤカの勝利は国民的祝祭日となり、ボリバル、サンタンデール、ナリーニョ、ポリカルパ・サラバリエータ(女スパイの英雄)らの像は国家のシンボルとして公共空間に刻まれました。他方で、パストの王党派、リャネーロ兵、黒人共同体や先住民の複雑な立場は歴史叙述で周縁化されがちで、近年は多声的な独立史の再編が進んでいます。独立は単なる政治的断絶ではなく、地域・人種・身分・ジェンダーが交差する社会変容であったという認識が、教育・博物館・記念日に浸透しつつあります。

総括すれば、コロンビア独立は、帝国の危機に触発された地方自治の実験、内戦と再征服の痛み、大胆な軍事的賭けと連合国家建設の試み、そして長い19世紀を通じた国家形成の模索から成る複合過程でした。勝利の瞬間(ボヤカ)は鮮烈ですが、その背後には物流・税・兵站・外交・思想の積み重ねがあり、また敗者や周縁の人々の選択も刻まれています。この多層性を押さえることで、コロンビアの独立は単なる英雄譚ではなく、社会の深層にまで及ぶ変換点として理解できるのです。