自営農地法(ホームステッド法) – 世界史用語集

自営農地法(ホームステッド法, Homestead Act of 1862)は、アメリカ合衆国が連邦の公有地(パブリック・ドメイン)を小規模自作農に無償もしくは廉価で払い下げることで、西部フロンティアの定住を促進した法律の総称です。満21歳以上(または一家の世帯主)で市民権を持つ者、あるいは市民権取得申請中の移民、南北戦争後には黒人の自由民や単独の女性も対象になり、160エーカー(約65ヘクタール)を上限に「開墾と居住」を条件に与えられました。5年間の継続居住と改良(家屋建設や耕作)を証明して「プルービング・アップ(権利確定)」すれば無料で所有権が得られ、あるいは6か月以上の居住後に1エーカー1.25ドルで買い取る道もありました。ホームステッドは、同年のモリル土地助成法(州立大学の設立財源)や大陸横断鉄道の建設を認めた太平洋鉄道法と並ぶ「共和党の自由土地・自由労働・自由人」路線の柱であり、西漸運動を劇的に加速させた一方で、先住民社会の土地喪失と生計破壊、半乾燥地の生態制約を無視した入植、投機と詐欺の横行など重大な影も残しました。

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成立背景と制度のしくみ――共和党の国家構想と「自作農の共和国」

1862年のホームステッド法は、長年議論されながら南部の奴隷制プランターの反対で棚上げされてきた小農優遇の土地政策を、南北戦争の最中に一気に実現したものです。合衆国の公共地は、独立戦争後に旧植民地諸州が西方領土を連邦へ委譲した経緯や、ルイジアナ買収・メキシコ割譲などによって拡大していました。これらの土地をどのように配分するかは、国家の社会モデルを左右する大問題でした。共和党は、奴隷制の拡張を抑え、自由労働を広めるために、土地を安価に開放して自営の小規模農を増やす構想を掲げました。戦時下で南部議員が議会から離れた政治状況が、法の成立を後押ししました。

制度の骨格は簡潔です。申請者は連邦土地局(General Land Office)の地域事務所に出頭し、宣誓のうえで160エーカーまでの区画を仮取得します。条件は(1)当該土地が未処分の公有地であること、(2)申請者が市民(のちに帰化予定者も可)で、反乱政府に加担していないこと、(3)5年間の継続居住と改良を行うこと、です。証人の供述と書類審査を経て権利証(パテント)が交付され、初めて完全な所有権が移転します。「改良」の中身は、家屋・納屋・井戸の建設、耕地の造成、植林、柵の設置などが典型でした。

なぜ160エーカーかと言えば、東部の湿潤気候を前提に「家族が自力で耕作できる規模」と想定された数字だったからです。ところが大平原以西の半乾燥地では降水量が少なく、灌漑なしに家族労働だけで十分な収穫を上げるのは困難でした。このため、のちに乾燥地向けに区画を拡大した改正法が相次ぎます(1909年の拡大ホームステッド法は320エーカー、1916年の家畜放牧ホームステッド法は640エーカー)。

ホームステッドの法体系は単一の法律にとどまらず、補助・例外・特化法が連なる複合体です。木材文化法(1873)は植林を条件に追加の土地を与え、乾燥地法(1877)や砂岩土壌に関するティンバー&ストーン法(1878)は特定条件での払い下げを認めました。意図は農業の可能性を広げることでしたが、実務では抜け穴を利用した投機・名義貸し(ダミー申請)が横行し、鉄道会社や大土地所有者が広域を囲い込む現象も発生しました。

運用と生活世界――測量の線、草原の家、技術と共同体

ホームステッドは、紙の制度であると同時に、極めて具体的な生活の営みでした。土地は公有地測量(PLSS)にもとづく碁盤目のセクション(1平方マイル=640エーカー)とクォーター・セクション(160エーカー)に区切られ、境界線は測量杭と地籍図で固定されました。新参者は、まず草刈りと耕作に先立つ住居の確保に追われます。森林が乏しいプレーリーでは、草皮を切り出して積み上げる「ソド・ハウス(草土の家)」が普及し、風雨と火事に耐える工夫が必要でした。水を汲み上げる風車、乾燥に強い小麦、鉄製のプラウ(鋼犂)、のちには条播機や結束機、1870年代以降には有刺鉄線が柵の革命をもたらし、放牧との土地利用競合に境界を引きました。

農法面では、降水の少なさを補うドライ・ファーミング(耕起による水分保持、間作、夏季休閑)、防風林の植栽、掘り抜き井戸とタンクの設置、局所的灌漑が鍵でした。鉄道の敷設は市場へのアクセスを飛躍的に改善し、駅町は穀物倉庫(エレベーター)と商店街、学校、教会を中心にコミュニティを形成しました。新聞は農業情報と共同体ニュースを届け、収穫期には互助の作業隊が組まれました。女性は家計・教育・家庭菜園・保存食づくり・出産の相互扶助で共同体の核を担い、法律上「世帯主」であれば単独で申請できたため、未亡人や独身女性の自立の道にもなりました。

移民の役割も大きく、ドイツ、スカンディナヴィア、東欧、カナダからの入植者が北部平原に独特の文化景観(石造納屋、ルター派教会、ひなげしの畑など)を形作りました。黒人自由民は南部でもホームステッド申請を行い、ミシシッピ以西では「エクソダスター」と呼ばれる人々がカンザスへと移住して農地を得ました。とはいえ、土壌と市場の制約、差別的慣行、信用の不足は成功を難しくし、借金や旱魃、蝗害で断念して都市へ去るケースも少なくありませんでした。

法の運用は書面主義で、虚偽の居住証明やダミー申請を巡って土地局と入植者の駆け引きが続きました。鉄道会社は別枠の連邦助成で線路沿いに広大な土地を得ており、広告と割賦販売で入植者を惹きつけました。土地の細分化は地域政治にも影響し、郡の設置、学校区、道路の開設、保安官選挙など、草の根の自治が急速に立ち上がっていきます。

影響と代償――先住民の土地喪失、環境制約とダストボウル、国家の拡張

ホームステッドは「機会の平等」の象徴として語られてきましたが、その背後には厳しい代償がありました。最大の点は先住民社会の土地喪失です。条約で保留地(リザベーション)に押し込められたうえ、1887年のドーズ一般土地割当法は集団所有の保留地を個人区画に分割し「余剰地」を白人入植に開放しました。これは文化と生計の基盤を切断し、貧困と同化政策の圧力をもたらしました。1860~90年代は軍事衝突と虐殺、バッファローの大量殺戮、宗教儀礼(ゴーストダンス)への弾圧が重なり、ホームステッドはしばしば暴力と一体で推進されました。

環境面でも、半乾燥地の脆弱な草地を耕地へ急拡大したことが、長期的な土壌劣化を招きました。1930年代のダストボウル(砂嵐災害)は、世界恐慌の需要減退と干魃に加え、耕地化と過放牧による土壌露出が引き金になりました。政府は防風林ベルト、輪作、等高線耕作、灌漑計画など保全策を導入し、ニューディール期に農地調整政策と価格支持、用地買い上げを進めます。ホームステッドの理想――家族だけで自給的に成立する160エーカー――は、多くの地域で気候・市場・資本の現実とぶつかりました。

一方で、国家はホームステッドを通じて、測量・登記・裁判・郵便・農業普及・農業統計・信用(連邦住宅・農業信用制度)などの制度網を草の根にまで伸ばしました。モリル土地助成法により、州立大学と農業実験場が設置され、普及員制度が農法を標準化し、鉄道・電信・のちの農村電化が空間を結びます。個々の農家の自由の拡大は、同時に国家と市場の浸透の拡大でもあったのです。

社会構造への影響も二面性があります。成功した自作農は資本を蓄積して機械化を進め、隣接地を買い増して中・大規模化しました。他方、干魃や価格低迷に脆弱な小規模経営は、借金と抵当流れで離農し、農業賃労働者や都市労働者へ移行しました。農業の企業化と家族農の理念の齟齬は、今日に至るまでアメリカ農政の緊張を形づくっています。

派生法・修正と終焉――拡大型ホームステッド、放牧型、そして1976年の打ち切り

冒頭で触れた通り、ホームステッドの「160エーカー標準」は早くから限界が指摘され、改正と派生法が重ねられました。拡大ホームステッド法(1909)は降水量の少ない地域を念頭に、一定の作付・改良を条件に最大320エーカーまでを認め、家畜放牧ホームステッド法(1916)は放牧地としての利用を前提に最大640エーカーを付与しました。森林帯では木材文化法(1873)が10エーカー以上の植林を条件に追加の取得を認め、乾燥地法(1877)は灌漑を伴う開発を想定しました。もっとも、これらは投機筋の濫用と行き過ぎた開墾を助長し、環境負荷と土地集中を招いた側面も否めません。

20世紀に入り、公有地管理の哲学は転換していきます。1934年のテイラー放牧法は無秩序な放牧を規制し、内務省土地管理局(のちのBLM)が公有草地の管理を担うようになりました。第二次世界大戦後、農業の機械化・化学化と都市化が進むなかで、新たな入植の必要性は薄れ、自然保護とレクリエーション、鉱物資源とエネルギーのバランスをとる総合管理が重視されます。1976年、連邦土地政策・管理法(FLPMA)が成立し、下位法を整理して48州での新規ホームステッド申請は打ち切られました(アラスカのみ1986年まで時限的に延長)。公有地の原則は「処分(払い下げ)」から「保持(retention)」へと反転したのです。

この終幕は、ホームステッドの理念が完全に否定されたことを意味しません。むしろ、土地の配分・利用における「公共の利益」と「個人の自由」の調整軸が、開発から保全へ、定住促進から多目的管理へと移動した結果でした。今日のアメリカ西部では、公有地・私有地・先住民の保留地・州有地がモザイク状に入り組み、放牧権、水利権、鉱業権、景観保全、レクリエーション利用、先住民の権利が交差する複雑な管理課題が続いています。その基層には、ホームステッドが切り開いた測量線と区画、そして成功と失敗の記憶が静かに横たわっています。