シモン・ド・モンフォール – 世界史用語集

「シモン・ド・モンフォール」とは中世ヨーロッパにおいて二人の著名な人物を指す名称で、父(1170年代生—1218年)と子(1208年頃—1265年)の双方が歴史上の大きな足跡を残しました。父は南フランスのカタリ派を討つアルビジョア十字軍の軍司令としてトゥールーズ伯領を席巻し、十字軍国家の権益を拡大させた人物です。子はイングランドのレスター伯としてヘンリー3世に反抗した第二次男爵戦争の指導者で、1265年に代表者を召集する革新的な議会(いわゆるモンフォール議会)を開いたことで、後世には「議会政治の先駆者」として記憶されました。つまり、同じ名を持ちながら、父は宗教戦争の将、子は身分制政治の改革者として、全く異なる領域で中世の転換点を象徴する存在なのです。

本記事では、まず家系と同時代の背景を概観し、続いて父シモンのアルビジョア十字軍での活動、子シモンのイングランド政治改革と内戦、そして両者の評価と史料上の注意点を整理します。概要だけでも、モンフォール家の名が12〜13世紀のヨーロッパで宗教と政治の二つの軸を横断して響いたこと、そして「武力による秩序」から「合意による統治」への長い移行過程に影を落としていることを理解していただければ十分です。より詳しく知りたい方は、以下の見出し以降をご覧ください。

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家系と同時代の背景

モンフォール家は、パリ西方イル=ド=フランスのモンフォール=ラモーリ近郊に発祥をもつフランス貴族の一族です。12世紀末には王権の伸長を背景に北仏の有力諸侯と姻戚関係を結び、軍事・宗教的任務で頭角を現しました。父シモン(以下、便宜上「父シモン」)はアリス・ド・モンモランシーと結婚し、王国騎士団や教会との結節点に位置しました。十字軍を主導する力量と信仰心、そして領土拡張への野心を併せ持つ典型的な高位騎士像として知られます。

子シモン(以下「子シモン」)は、母方や縁戚を通じてイングランド貴族社会と結びつき、後にレスター伯位を継承しました。ヘンリー3世の妹エリナー・オブ・イングランド(寡婦)と結婚したことにより、王家と直接の縁戚関係を形成し、宮廷政治における発言力を得ます。同時に、大陸とブリテンの両方で行動する「二重空間の貴族」として、戦争・財務・教会政策に深く関与しました。13世紀は王権の財政需要が飛躍的に増大し、租税・借財・封建動員の再編が避けられない時代であり、彼の名はこの再編をめぐる王権と諸身分の協議・対立の只中に刻まれました。

宗教的背景としては、教皇権が普遍王国的理念を掲げて遠征と異端審問を制度化し、同時に各地の地域権力は自立的な慣行と特権を固守していました。まさにこの緊張関係の切れ目に、父と子のシモンはそれぞれの舞台で登場します。父は教皇の十字軍招集に応え、南仏の宗教世界を武力で再編しようとし、子は王権の専断と財政運営に対して身分的合意の原理をつきつけました。

父シモンの生涯—アルビジョア十字軍とトゥールーズ支配

アルビジョア十字軍は、南フランスのラングドック地方に広がったカタリ派(当時は「アルビジョア派」とも)を根絶することを名目に、1209年に教皇インノケンティウス3世のもとで発動されました。父シモンは当初から軍事的中核を担い、ベジエやカルカソンヌの攻略を皮切りに、北仏式の封建軍事組織と修道会ネットワークを動員して攻勢を強めます。十字軍は宗教浄化の大義を掲げましたが、同時にトゥールーズ伯家(レーモン6世・7世)など南仏在地勢力の政治的自治を抑え、王権と北仏諸侯の勢力圏を南進させる契機ともなりました。

十字軍の過程では、多数の都市包囲戦と降伏・追放・財産没収が行われ、父シモンは戦功によりトゥールーズ伯位を請求する立場に躍り出ます。1213年のムレの戦いでは、アラゴン王ペドロ2世が南仏勢に加勢したにもかかわらず、父シモンは連合軍を破って戦略主導権を確立しました。この勝利は十字軍側にとって決定的で、彼の南仏支配の正当性を大きく補強しました。しかし、軍政と宗教裁断を伴う統治は在地の抵抗を絶えず呼び込み、包囲と反攻が繰り返されます。

1215年、第四ラテラン公会議は父シモンの権利を追認し、彼はトゥールーズ伯位を正式に主張するに至ります。それでも戦局は安定せず、都市包囲とゲリラ的抵抗が続きました。1218年、トゥールーズ再包囲のさなかに父シモンは投石機の石弾に当たり戦死します。彼の死は十字軍支配の転機となり、以後は王権(カペー朝)による南仏編入の過程が前面に出ます。父シモンの遺産は、軍事的勝利と過酷な統治、そして南仏社会の再編をもたらしたという点で歴史的重みを持ちますが、同時に宗教的名分のもとに行われた暴力の負の遺産でもあります。後世の史学は、彼を「信仰に燃える征服者」とも「地域社会を破壊した十字軍貴族」とも評し、その両義性は現在も議論の対象です。

文化・制度面では、十字軍の進行にともない司教座・修道院の再配置が進められ、ドミニコ会による説教活動や異端審問制度の整備が加速しました。父シモンの軍政下で導入された北仏的な封建慣行と財産没収の仕組みは、土地所有の再分配を通じて在地エリートの力学を変え、ラングドック文化の独自性に深い影響を与えました。歌謡と宮廷文化で知られたトルバドゥールの世界も、この軍事的衝突と再編の波の中で変容しました。

子シモンの生涯—第二次男爵戦争と「モンフォール議会」

子シモンは大陸とイングランド双方の経験を積み、1230年代以降に王政の財政・封臣政策へ発言を強めます。国王ヘンリー3世は大陸政策と宮廷費用に多大な財源を要し、外国人側近(ポワトゥーやサヴォワ出身者)への恩顧が反発を招いていました。1258年、諸侯は「オックスフォード条項」を突き付け、王権を監督する評議会と年次議会の開催を制度化しようと試みます。子シモンはこの改革派の中核で、法と慣行に基づく行政監督、租税の合意原則、地方統治の是正を掲げました。

しかし、改革派内部の利害は一枚岩ではなく、王党派との対立は内戦へ発展します。1264年、ロンドン近郊ルイスの戦いで子シモンは王軍を破り、国王・皇太子(後のエドワード1世)を拘束して政権を掌握しました。これは武力による政権交代でしたが、彼は軍事独裁に走らず、支配の正統性を「合意」によって裏づけようとします。1265年初頭、彼は伯爵・聖職者・騎士に加え、主要都市の「庶民代表(バーグスの市民)」を召集する議会を開催しました。これがしばしば「モンフォール議会」と呼ばれ、自治都市層を王国政治に制度的に組み込む先駆的な試みと評価されます。

もっとも、子シモンの統治は短命でした。拘束されていた皇太子エドワードが脱出して反攻に転じ、1265年8月、イーヴシャムの戦いで子シモンは戦死します。彼の死後、王権は秩序を回復し、改革の多くは一旦は後退しましたが、議会の経験と「課税には同意が必要」という原理は消えませんでした。後継のエドワード1世は制度化を進め、1295年には身分代表を広く含む「模範議会」が招集されます。子シモンの試みは、王権に対立する「反乱貴族」のエピソードであると同時に、イングランド議会制の成立史における重要な段階として位置づけられるのです。

子シモンの宗教性と政治観にも触れておきます。彼は敬虔な信仰者で、教会法や道徳的規範を政治の衡平の根拠とみなし、私利ではなく「レジム(公)」のための統治を自負しました。一方で、彼の統治は縁戚・盟友に依拠する面が強く、旧来の地方諸侯や都市の利害との調整に難を抱えました。改革派の理想は、しばしば従来の封建的特権と都市の要求の折衝へと引き戻され、その矛盾が反王党連合の亀裂を生みました。理想と現実のはざまで、彼は「合意の政治」を最後まで模索したと言えます。

評価と史料—二人のシモンをどう読むか

父シモンについて、近代史学は長らく「異端根絶の英雄」像と「文化破壊者」像の間で評価が揺れてきました。近年は、宗教的動機と政治・領土的利益が重なり合う中世十字軍の複合性を強調し、南仏社会の自立性とカペー朝の南進、修道会の制度拡張の交点に父シモンを位置づけます。彼の行動は教皇権と北仏諸侯の利害に支えられ、在地の慣行世界に大きな断層を刻みました。その重さを直視することが、アルビジョア十字軍の理解には不可欠です。

子シモンの評価は、自由の伝統を重んじる19世紀英国史の文脈で英雄化される傾向がありましたが、近年の研究は、彼の改革が権力闘争の文脈に深く根差し、身分代表の拡大も政治的必要から生まれた現実的措置であることを強調します。それでもなお、代表の理念を実務に落とし込んだ点、都市と騎士を議会に組み込んだ点は、欧州比較史の上でも画期的です。王権の徴税・司法・軍事動員をめぐって「同意」が制度化される過程の一里塚として、子シモンは記憶されるべきでしょう。

史料上の注意として、両者をめぐる同時代記録は、立場によってバイアスが大きいことが知られています。父シモンに関しては、教会側年代記と在地貴族・都市の記録で叙述の温度差が顕著で、虐殺や財産没収の規模に関する証言は相互に食い違います。子シモンに関しては、改革派・王党派それぞれの年代記、修道院記録、法文書、都市文書が豊富に残る一方、政治宣伝的表現や自己正当化のレトリックが散見されます。研究上は、軍事史・法制史・財政史・宗教史の知見を突き合わせ、当時の制度と利害の重層性を慎重に再構成する必要があります。

最後に、二人の「シモン・ド・モンフォール」を同名のまま混同しないことが重要です。父は南仏の十字軍指揮官として1218年にトゥールーズ包囲戦で戦死し、子はイングランドの反王党指導者として1265年イーヴシャムで戦死しました。彼らは地理も目的も異なりますが、どちらも「権威を再編する暴力」と「秩序をつくる規範」の境界線上で行動した点で共鳴しています。父の剣が宗教秩序を、子の議会が政治秩序をそれぞれ組み替え、ヨーロッパ中世の長い13世紀に深い刻印を残したのです。