「昇竜(しょうりゅう)」とは、現在のベトナムの首都ハノイにあたる都市の、主に中世〜近世にかけて用いられた名称で、ベトナム語では「タンロン(Thăng Long)」と呼ばれます。「昇る竜」というめでたい意味を持つこの名前は、11世紀に李朝の李太祖(リー・タイ・トー)が都を移した際、「竜が天に昇る瑞兆を見た」という伝説に由来するとされ、以後、ベトナム王朝の政治・文化の中心として長く栄えました。世界史の教科書などでは、「昇竜(ハノイ)」という形で、歴史上の都名と現在の都市名がセットで紹介されます。
中国の長安や洛陽、日本の平安京になぞらえるなら、昇竜は「ベトナム版・古都」であり、王宮や城塞、官庁、寺院や文廟(孔子を祀る学問の場)などが集中する、中世ベトナム国家の中枢都市でした。紅河(ホン川)デルタの要地に位置し、内陸と海との結節点として政治だけでなく交易・交通の拠点にもなりました。李朝・陳朝・黎朝など多くの王朝がここを都とし、ベトナム史の重要な出来事の多くがこの地を舞台に展開します。
その後、都が中部のフエ(順化)へ移されてからも、昇竜=ハノイは北部ベトナムの中心都市として、フランス植民地期や現代に至るまで重要な役割を果たし続けています。つまり、「昇竜」という名には、ベトナム王朝期の歴史的な都としての顔、「ハノイ」という名には、近代・現代ベトナムの首都としての顔が重なっていると言えます。
以下では、まず昇竜が都として成立するまでの経緯と、その象徴的な命名の由来を見たうえで、中世ベトナム王朝の首都としての発展と性格を説明します。続いて、都の移転やフエの台頭、フランス植民地支配と近代ハノイへの変化、そして統一ベトナムの首都としての現在とのつながりをたどり、「昇竜(ハノイ)」という地名が持つ歴史的意味を立体的に捉えていきます。
昇竜誕生:李朝による遷都と「竜」の伝説
昇竜という名が歴史に登場するのは、11世紀初頭のことです。当時、ベトナムでは、丁朝・前黎朝に続いて興った李朝(李氏大越)が、北部ベトナムを中心に「大越(ダイベト)」という自立的な国家を築きつつありました。初代皇帝の李太祖は、中国王朝(この時期は宋)から形式的な冊封を受けつつ、実際には独立した王として国内統治を進めていました。
李太祖が最初に拠点としたのは、山あいのホアルー(華閭)という地でしたが、やがて王朝の長期的な発展には、より開けた平野部で交通の便に優れた場所がふさわしいと考えるようになります。紅河デルタは、肥沃な水田地帯であると同時に、川を通じて内陸と海とを結ぶ交通の要衝でした。この地域に都を移すことは、国家の経済基盤と軍事・交通の利便性を高めるうえで理にかなっていました。
『李太祖の遷都詔』として知られる史料の中には、李太祖が新しい都の候補地に向かう途中、城塞の近くで「一匹の金色の竜が空へと舞い上がるのを見た」という伝説的なエピソードが記されています。この瑞兆を「国家が隆盛するしるし」と受けとめた李太祖は、その地を「昇竜(Thăng Long=竜が昇る)」と名づけ、正式に都と定めたとされています。
東アジア世界では、竜は皇帝や王権を象徴する神聖な霊獣です。中国皇帝の象徴である「真龍天子」という言葉に見られるように、竜のイメージは権威・豊穣・雨をもたらす自然の力と結びついていました。ベトナムも長く中国王朝の支配や影響を受けてきたため、こうした象徴体系を共有しており、新しい都に「昇竜」という名を与えることは、自らの王権を天命と結びつける強い意味を持っていました。
昇竜は、紅河のほとりに築かれた城塞都市として整備されました。城壁に囲まれた王城と、その周囲に広がる市場・住居・寺院・官庁が一体となって、東アジア型の都城を形成していきます。地形的には、川と低湿地に囲まれた微高地や河畔の段丘が利用され、堀や城壁によって防御を固めると同時に、水運の利を生かした都づくりが行われました。
こうして、11世紀初頭に李朝の新都として誕生した昇竜は、その後数世紀にわたってベトナム王朝の中心地であり続けることになります。竜が天に昇るという伝説は、単なる美しい物語にとどまらず、ベトナムが中国支配から自立し、自前の王朝国家として歩み出した象徴的な瞬間を語るものとして、後世にも語り継がれました。
中世ベトナム王朝の首都としての昇竜
李朝の後も、昇竜は陳朝(陳氏大越)、黎朝(後黎朝)などの王朝に引き継がれ、ベトナム国家の中枢都市として機能し続けました。これらの王朝は、中国王朝との冊封関係を維持しつつも、国内では独自の王権と文化を育み、「大越」という国号のもとで自立的な路線を歩みました。その舞台となったのが、まさに昇竜でした。
首都としての昇竜には、王宮や官庁に加え、儒教に基づく学問の場である国子監や文廟が置かれました。文廟は孔子を祀る廟であると同時に、科挙によって官僚を選抜するための教育機関でもありました。中国の制度を取り入れたベトナムは、儒教的な教養を身につけた士大夫層を育成し、王朝の支配を支える官僚機構を整えていきました。昇竜に集まる官僚・学者・文人は、ベトナム文化の中心的担い手となっていきます。
また、昇竜は軍事的にも重要な拠点でした。北方からの侵攻に備えるうえで、紅河デルタの中心に位置するこの都は、防衛と反攻の拠点になると同時に、内陸の山岳部や沿岸地域との連絡にも適した場所でした。モンゴル帝国が13世紀にベトナムへ侵攻した際には、陳朝がゲリラ戦や焦土作戦を用いて抵抗し、一時的に昇竜を放棄しつつも最終的には撃退に成功したことで知られています。戦乱のたびに都は損傷を受けましたが、その都度修復され、王朝の象徴としての地位を保ち続けました。
経済面でも、昇竜は紅河デルタの稲作地帯と、内陸・沿岸・海外との交易をつなぐハブでした。周辺には市場や河港が発達し、米はもちろん、布、陶磁器、香料、金属製品など多様な商品が行き交いました。外国商人もこの地域に姿を見せ、中国・東南アジア・一部の西方勢力とのあいだで交易が行われました。こうした活動は、都の財政を支え、王朝の富の源となりました。
政治的・文化的・軍事的にこのような役割を果たした昇竜は、「ベトナム国家の心臓部」とも言える存在でした。中国の都城文化を踏まえつつも、ベトナム固有の地理・気候・社会条件に合わせた都市構造と生活文化が育まれ、寺院や塔、城壁や門、市場や住居が織りなす独特の都市景観が形成されていきます。現在ハノイに残る旧市街の路地や、文廟などの歴史的建造物には、その名残を見ることができます。
時代が下るにつれ、昇竜の呼び名には変化も生じました。とくに黎朝以降、一部の時期には「東京(トンキン)=Đông Kinh」という名称が用いられ、東アジアの史料やヨーロッパ人の記録にも「トンキン」という形で登場します。これもまた、昇竜=ハノイが、北部ベトナムの政治中心として認識され続けたことを示しています。
都の移転とハノイへの変化:フエとフランス植民地支配
18〜19世紀になると、ベトナムの政治地図に大きな変化が訪れます。西山党の乱や内戦を経て、やがて阮朝(グエン朝)がベトナムを再統一すると、新たな都は中部のフエ(順化)に置かれました。これにより、昇竜は形式上「首都」の地位を失い、北部の中心都市の一つという位置づけになります。
阮朝は中国風の宮城をフエに築き、ここを皇帝権威の象徴としましたが、昇竜(この頃にはしばしば「昇龍」と漢字表記される)は、それでもなお北部行政の拠点として重要でした。19世紀半ば以降、フランスがベトナムへの勢力拡大を進めると、紅河デルタとその奥地は植民地支配にとっての要衝となり、昇竜の地理的条件が再び注目されることになります。
フランスは軍事的・経済的な観点から、紅河デルタの拠点都市を整備しようとし、その過程で「ハノイ(Hà Nội)」という名称が広く用いられるようになります。ハノイは「川の内側」という意味を持つとされ、紅河とその支流に囲まれた地形を反映した地名です。19世紀末には、ハノイはフランス領インドシナの中心都市の一つと位置づけられ、行政機関や軍事施設、欧風の街路・建物が整備されていきました。
こうして近代都市としての「ハノイ」が形づくられる一方で、旧来の昇竜〜東京時代の城塞や寺院、街区も、さまざまな形で都市空間の中に組み込まれていきます。フランス風の官庁街やカテドラルが建設される一方、旧市街の細い路地や伝統的町屋、文廟などが共存し、「コロニアル都市」と「アジア的旧市街」が混在する独特の都市景観が生まれました。
植民地支配期のハノイは、フランス人官僚や実業家だけでなく、ベトナム人の知識人・学生・労働者が集まる場でもあり、近代的な教育機関や新聞社、出版社が置かれました。ここで育まれたベトナム人知識人の一部は、のちに独立運動や民族意識の高まりを担っていくことになります。つまり、昇竜=ハノイは、伝統王朝の首都から、近代民族国家形成の舞台へと、その性格を変えつつも「政治と文化の中心であり続けた」と言えるのです。
現代ハノイと「昇竜」の歴史的記憶
20世紀に入ると、ハノイはさらに大きな歴史の転換点を経験します。第二次世界大戦中の日本軍進駐、戦後のホー・チ・ミンによるベトナム民主共和国の独立宣言、第一次インドシナ戦争を経てのジュネーブ協定など、近代ベトナム史の重要な出来事の多くがハノイとその周辺を舞台に起こりました。
1954年以降、ハノイは社会主義政権が支配する北ベトナムの首都となり、アメリカとのベトナム戦争期にはしばしば空爆の標的ともなりました。戦争による被害と復興のプロセスもまた、この都市の記憶の一部です。1975年に南北ベトナムが統一されると、ハノイはベトナム社会主義共和国の首都として位置づけられ、現在に至るまで政治の中心であり続けています。
現代のハノイは、高層ビルや道路が整備された大都市であると同時に、旧市街の路地や湖、寺院・文廟・古城跡など、昇竜時代から連なる歴史的景観をところどころに残しています。世界遺産に登録されたタンロン皇城遺跡(昇龍皇城遺跡)は、まさに李朝以来の都城としての歴史を物語る場所であり、発掘調査や保存作業を通じて、かつての昇竜の姿が少しずつ明らかにされつつあります。
ベトナム国内では、千年以上続く都の歴史を記念して、2010年に「タンロン—ハノイ建都1000年」を祝う大規模な記念行事が行われました。このときも、「昇竜(Thăng Long)」という伝統的名称と「ハノイ(Hà Nội)」という現代名称がともに用いられ、古都としての誇りと現代首都としての役割が重ね合わせて語られました。竜が天に昇る伝説は、現代ベトナムにとっても、自国の歴史を象徴する重要な物語として生き続けています。
世界史の学習のなかで「昇竜(ハノイ)」という用語に出会ったときには、単に「ベトナムの昔の都名」と覚えるだけでなく、李朝による遷都と竜の伝説、中世王朝の政治・文化の中心としての役割、フエへの都の移転と植民地都市ハノイへの変化、さらに現代社会主義国家の首都としての顔が、一つの空間の上に幾重にも重なっていることを意識すると理解が深まります。
そのように考えると、「昇竜」という名は過去に閉じ込められた古い地名ではなく、いまもハノイの街並みや人びとの記憶の中に息づく「歴史のもう一つの顔」であることが見えてきます。現在のハノイを写真や地図で眺めるとき、その地下や路地の奥に、かつて竜の瑞兆を受けて建設された王城都市としての昇竜が重なっていることを想像してみるのも、世界史を学ぶ楽しみのひとつと言えるでしょう。

