新疆 – 世界史用語集

新疆(しんきょう)とは、中国大陸の西端、現在の「新疆ウイグル自治区」を中心とする広大な地域を指す言葉です。タリム盆地やタクラマカン砂漠、天山山脈など雄大な自然環境を抱え、古くから東西交易の要衝として知られてきました。シルクロードのオアシス都市群、ウイグル人をはじめとするテュルク系・イラン系・モンゴル系の諸民族、イスラームを中心とした宗教文化などが重なり合う、多民族・多文化の空間です。

歴史的に見ると、この地域は中国本土(中原)から見れば「西域」と呼ばれてきました。漢帝国の張騫の派遣や前漢・後漢の西域経営、唐代の安西都護府設置など、中国王朝の影響が及んだ時期もあれば、匈奴・突厥・回鶻・モンゴル帝国・チャガタイ=ハン国・ジュンガルなど、遊牧国家やテュルク系諸勢力が主導権を握った時期もあります。つまり新疆は、常に一つの国家に一方的に支配されてきたというより、内陸アジアの広い世界の中で勢力図が変動し続けてきた frontier(境域)でした。

「新疆」という名称そのものは、清朝が18世紀にジュンガルを征服し、その支配を固めたのちに、この地域を「新たに獲得した領土=新疆」と呼んだことに由来します。それ以前から存在した地名ではなく、帝国が自らの領域拡大を表現することばとして生まれた概念です。近代以降、この地域は清朝の一行省としての「新疆省」を経て、中華人民共和国の「新疆ウイグル自治区」へと再編されますが、民族構成・宗教・経済開発・政治統合をめぐって、複雑な問題を抱えてきました。

世界史の視点から新疆を見ると、東アジア・中央アジア・西アジア・ロシア世界をつなぐ結節点としての役割が浮かび上がります。絹や香辛料だけでなく、宗教(仏教・マニ教・ゾロアスター教・イスラーム)、技術、思想、人の移動が交差したことで、この地域は多層的な歴史の「交差点」となりました。新疆の歴史をたどることは、単に一地域の民族問題を見るだけでなく、ユーラシア規模での交流と支配の歴史を理解する入り口にもなります。

スポンサーリンク

地理と名称:「西域」から「新疆」へ

新疆と呼ばれる地域は、現在の行政区画としての新疆ウイグル自治区をおおむね指しますが、歴史的にはより広く「西域」と呼ばれた空間と重なります。地理的には、大きく分けて三つのゾーンに分かれます。第一に、タリム盆地とタクラマカン砂漠を中心とする南部。ここにはクチャ(庫車)・ホータン(和田)・カシュガル(喀什)など、オアシス都市が砂漠の周縁に点在しています。第二に、天山山脈の北側に広がるジュンガリア盆地を中心とする北部で、草原やステップが多く、古くから遊牧民の活動の場でした。第三に、東部のトルファン盆地やハミ(哈密)周辺で、ここもまたオアシス農業と交易都市が発達した地域です。

これらの地域は、乾燥した気候と大きな高度差を特徴とし、人びとは主にオアシス農耕と遊牧を組み合わせた生活を営んできました。川が山地から砂漠に流れ出て消えていくその周辺に畑や町がつくられ、ラクダ隊商による交易が主要な経済活動の一つとなりました。地理的には厳しい環境ですが、逆に言えば、ここを通過しなければ東西の行き来が難しいという意味で、戦略的な価値が非常に高い地域でもありました。

中国側の文献では、この地域は長らく「西域」と呼ばれてきました。「西のはて」「西の地域」という意味で、中原から見て西方に広がる諸オアシス・諸部族の世界をまとめて指す言葉です。「西域三十六国」などの表現に見られるように、そこには多くの小王国や都市国家が存在していました。これらは、しばしば東西の強大な勢力(漢帝国や匈奴、のちの唐や突厥など)の間で、従属や自立をめぐって揺れ動いていました。

「新疆」という名称が現れるのは、清朝がこの地域を本格的に軍事征服し、自らの版図に組み込んで以降のことです。18世紀半ば、乾隆帝の時代に、清は北西の強敵であったジュンガル(オイラト系モンゴル)を撃破し、その支配領域を接収しました。その際、従来の中国本土から離れた「新しい領地」を指す用語として「新疆(新しい境域)」という語が用いられ、その後この地域の行政単位を指す正式名称にも採用されていきます。

つまり、「西域」は主として中原側から見た地理的呼称であり、「新疆」は近世以降の帝国支配の枠組みを反映した政治的呼称だと整理できます。現在、国際的には「新疆」「シンチャン(Xinjiang)」という名称が一般的に用いられますが、その歴史的背景には、清朝以降の領域編入と近代国家の国境確定のプロセスがあることを念頭に置く必要があります。

シルクロードと古代・中世の新疆

古代から中世にかけて、新疆(西域)はシルクロードの重要な中継地として栄えました。前漢の武帝は、匈奴に対抗するために西方との同盟を模索し、張騫を大月氏へと派遣しました。この「張騫の大月氏派遣」をきっかけに、漢帝国は西域諸国との関係を深め、オアシス都市に都護(漢の代理人)を置くなど、軍事的・政治的な進出を進めていきます。これにより、中国の絹や製品が西アジア・地中海世界へと流れ、代わりに馬や宝石、ガラス製品などが東へと運ばれました。

西域のオアシス都市は、東西交易だけでなく、宗教と文化の交差点でもありました。インドからは仏教が伝わり、クチャやホータンなどには仏教寺院や石窟が建てられ、多くの僧や翻訳者が活動しました。有名な玄奘三蔵も、インド往還の際に西域の諸都市を通過し、その様子を『大唐西域記』に描写しています。また、イラン系のゾロアスター教やマニ教、ネストリウス派キリスト教なども、この地域を経由して東アジアに伝わりました。

民族的には、古い時期にはインド=ヨーロッパ語系とされるトハラ人やイラン系諸集団がオアシスに住み、ステップ地帯では匈奴・烏孫・突厥などの遊牧国家が勢力を競いました。8世紀以降になると、テュルク系諸民族の進出が目立つようになります。とくに「回鶻(ウイグル)」は、モンゴル高原に大ハン国を築いたのち、その一部が崩壊後に西方へ移動し、トルファンやカラシャール一帯などに定住していきました。彼らは当初仏教やマニ教を信仰していましたが、やがてイスラーム化が進み、現在のウイグル人の祖先の一つとみなされています。

唐代には、唐王朝が安西都護府・北庭都護府を設置し、西域経営を強化しましたが、安史の乱や吐蕃(チベット)・ウイグルの台頭などもあり、唐の影響力はしだいに後退します。これ以降、西域は必ずしも中国王朝の直接支配下にはなく、中央アジア系の王国やイスラーム勢力が主導する時期が続きました。13世紀にはモンゴル帝国が新疆一帯を征服し、チャガタイ=ハン国などの支配が及びます。この時代、新疆は内陸アジアの遊牧帝国の一部として統合されると同時に、イスラーム化が急速に進行しました。

こうして古代・中世の新疆は、複数の民族と国家の支配が移り変わる「多層的な空間」として推移しました。どこか一つの王朝に一貫して支配されてきたわけではなく、漢・唐のように中原王朝の勢力が強い時期もあれば、突厥やウイグル、モンゴル、イスラーム諸政権の影響力が優位な時期もありました。そのたびに、宗教・言語・文化が交錯し、新しい混合文化が生まれていったのです。

清朝の征服と「新疆省」の成立

近世に入ると、新疆地域の政治地図は再び大きく変化します。17〜18世紀、中央アジアではジュンガルと呼ばれるオイラト系モンゴル勢力が台頭し、天山山脈北方のステップとオアシス地帯に強い影響力を行使しました。一方、東アジアでは満洲族の建てた清朝が中国本土を支配し、東北・モンゴル・チベットなど周辺地域に勢力を広げつつありました。両者はやがて新疆をめぐって対立し、18世紀半ばの一連の戦争の結果、清朝がジュンガルを壊滅させ、この地域を支配下に置きます。

清朝は、ジュンガル制圧後、タリム盆地のオアシス都市に駐屯軍や官僚を配置し、カシュガルなどには現地のムスリム支配層(ホージャ)を利用しつつ統治を進めました。しかし、度重なる反乱や外部勢力の干渉もあり、この地域の統治は決して安定したものではありませんでした。19世紀には、コーカンド汗国やロシア帝国の影響力が新疆に及び、イギリスとの「グレート・ゲーム(大博奕)」の舞台ともなります。

19世紀半ばには、ヤクブ・ベクによる大規模な反清運動が新疆で起こり、一時的に広い地域が清朝の支配から離れました。しかし清朝は再征服に成功し、その後、この地域をより直接的に統治する必要に迫られます。そこで1884年、新疆は正式に「新疆省」として清帝国の一行省に編入されました。これにより、「新疆」という名称は単なる「新領地」という一般名詞にとどまらず、具体的な行政区画の名称として定着することになります。

この時期、新疆では漢族官僚や軍人の進出が進む一方、現地のウイグル人やカザフ人などのムスリム住民は、伝統的な共同体や宗教指導者(イマーム、アフン)を通じて生活を営んでいました。清朝の統治は、直接支配と間接支配を組み合わせたもので、税制や治安維持、宗教政策などをめぐって緊張が生まれることもありました。

世界史的に見ると、19世紀の新疆は、ロシア南下政策・イギリスのインド支配・清帝国の領土防衛という三つの力が交錯する場でした。イリ地方の一部が一時ロシアに占領されるなど、清朝の主権が揺らぐ場面もありましたが、最終的には条約交渉を経て新疆の大部分は清朝の領域として確認されます。こうした国際関係の中で、現在の中国西北国境の大枠が形づくられていきました。

中華人民共和国と現代の新疆

20世紀に入ると、辛亥革命による清朝崩壊ののち、新疆は中華民国政権の下で省として位置づけられましたが、実際には軍閥支配やソ連との関係など、複雑な政治状況が続きました。新疆省の指導者は中央政府から派遣されることもあれば、事実上の地方軍閥として独自に振る舞うこともあり、ムスリム住民の自治運動や独立志向と、中央政権・周辺大国の力がせめぎ合う場となりました。

第二次世界大戦後、中国内戦の帰趨が定まりつつあった1949年、新疆は中国共産党の政権(中華人民共和国)の統治に組み込まれます。その後、1955年には「新疆ウイグル自治区」として、名目上は民族自治区の地位が与えられました。自治区という名称が示すように、ウイグル人をはじめとする少数民族の文化や言語の尊重が掲げられましたが、同時に中央政府の権力が強く及ぶ仕組みも整えられていきます。

中華人民共和国時代の新疆では、農業開発・鉱山資源の開発・工業化・交通インフラ整備など、大規模な経済開発が進められました。石油・天然ガス・石炭などのエネルギー資源が豊富であることから、新疆は中国全体のエネルギー供給基地として重視されるようになります。また、内地からの漢族人口の移住が進み、都市部を中心に民族構成も大きく変化しました。これに伴い、雇用・土地・教育などをめぐる不満や摩擦も生じています。

宗教と文化の面では、ウイグル人を中心とするイスラーム信仰が今もなお広く根づいています。モスクやマドラサ(伝統的宗教教育施設)、ラマダーン(断食月)などの宗教行事は、多くの人びとの生活の一部となっています。一方で、国家の世俗化政策や安全保障上の懸念から、宗教活動に対する規制や管理も強化されてきました。とくに20世紀末以降、民族運動や分離独立を掲げる一部グループの活動、暴力事件やテロとみなされた事案などを背景に、新疆における治安維持と統制は中国政府にとって最重要課題の一つとなっています。

国際社会では、新疆の人権状況や民族政策をめぐってさまざまな議論と評価が存在します。中国政府は、経済発展と貧困削減、治安維持やテロ対策の重要性を強調し、自国の統治を正当化しています。一方で、一部の国や人権団体は、宗教・文化・言語の自由や個人の権利の制限について懸念を表明し、強制的な同化政策が行われているのではないかと批判しています。この問題は、国際政治やメディア報道の中で、しばしば対立的な言説として現れます。

現代の新疆は、経済的には中国の西部大開発や「一帯一路」構想の重要な拠点と位置づけられています。カシュガルやウルムチは、中央アジアやパキスタン方面への交通・物流のハブとして整備が進められており、鉄道や高速道路、パイプラインが国境を越えて延びています。この意味で、新疆は古代シルクロードの時代と同じく、東西を結ぶ「回廊」として再び注目されていますが、その背後には経済発展と民族・宗教・政治の関係をめぐる繊細な課題が横たわっています。

新疆の歴史を長いスパンで見渡すと、ここは常に多民族・多宗教・多文化が交差し、ときに衝突し、ときに融合してきた場所でした。オアシス都市のにぎわい、隊商の往来、遊牧民の移動、帝国の進出と後退──そうした諸要素が折り重なって現在に至っています。新疆という用語を世界史で学ぶとき、その背後にある内陸アジアのダイナミックな歴史と、現代の国際関係の中での位置づけの両方を意識することが、この地域を立体的に理解する助けになるでしょう。