シュメール文字 – 世界史用語集

「シュメール文字」とは、古代メソポタミア南部のシュメール人が用いた文字体系のことで、のちに一般に「楔形文字」と呼ばれる書記システムの最初期の姿を指します。粘土板の上に葦のペンで刻まれた記号によって、穀物や家畜の数量、取引、神殿への納入物などを記録するために発達し、その後、王の命令や法律、神話や祈りの言葉、学校での教材など、多様な内容を書きとめるための道具へと広がりました。人類史の中でも最古級の文字の一つであり、「歴史時代」の幕開けを象徴する存在とされています。

シュメール文字は、はじめは絵文字的な記号から出発し、しだいに抽象化・簡略化されていきました。粘土板に刻まれた線は、やがて葦ペンの先の形に由来する「くさび形の刻み」の組み合わせに変わり、これが後世に「楔形文字」と呼ばれるゆえんとなります。記号は、物の名前そのものを表す「表語(表意)的」な使い方のほか、音を表す「表音的」な使い方もするようになり、シュメール語だけでなく、アッカド語など他言語の表記にも応用されました。

世界史で「シュメール文字」という用語に出会ったときには、おおまかに「粘土板に刻まれた、最初期の楔形文字」「神殿や宮殿の記録のために生まれ、やがて文学や法律まで書きとめるようになった文字」とイメージしておくとよいです。この解説では、まずシュメール文字がどのように誕生し、どんな特徴をもって発達していったのかを見ます。つぎに、書記と呼ばれる専門職や神殿・宮殿との関係を通じて、文字が社会の中でどのように使われていたのかを説明します。最後に、シュメール文字から楔形文字全体への発展、そして近代における解読と現代への意義について考えていきます。

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シュメール文字の誕生と発展の過程

シュメール文字の起源は、紀元前4千年紀後半の「ウルク期」にさかのぼると考えられています。シュメール人の都市ウルクや、その周辺の神殿遺跡からは、印章や粘土製の小さなトークン(小片)などが出土しており、そこには穀物や家畜、容器の種類などを表す記号が刻まれています。最初は、物品の出入りを数えたり、倉庫に保管された物資の量を示したりするための「記録の補助具」として、図形的な印が使われていたのです。

やがて、これらの印や記号は、粘土板の上に直接刻みつける形へと変化していきます。最初期のシュメール文字は、丸みを帯びた線で描いた素朴な絵文字に近いものでした。たとえば、穀物を表す記号は穂の形を簡略化した図、牛を表す記号は頭と角を示す図のように、視覚的に意味が分かる形をしていました。しかし、記録すべき情報が増え、書き手が素早く多くの文字を刻む必要が高まると、線は次第に直線的・規則的になり、複雑な絵から抽象化された記号へと変わっていきます。

この過程で重要だったのが、書き具の変化です。シュメール人は、葦(あし)で作った棒の先を斜めに切った「葦ペン」を使って粘土板に文字を刻みました。葦ペンの先を粘土に押し当てると、三角形やくさび形の刻み痕が残ります。この「くさび形」の痕跡を組み合わせて文字を表すようになった結果、もともとは絵に近かった記号も、すべてが小さなくさびの集合のような形になっていきました。ここから、のちに「楔形文字」と総称される書記システムが成立します。

シュメール文字は当初、物の名前や数量などを表す「表語的」な性格が強く、記号一つが一つの言葉や概念に対応していました。しかし、同じ記号を音に応じて使い分けたり、言葉の一部の音だけを記号で表現したりする「表音的」な使い方も徐々に発達します。たとえば、人名や地名のように、絵で直接表現しにくい言葉については、似た発音を持つ別の言葉の記号を借りて書く、といった工夫が行われました。こうした表音的利用が進むことで、シュメール文字はシュメール語だけでなく、後に台頭するアッカド語などにも適用できる柔軟なシステムへと変化していきます。

紀元前3千年紀の中頃になると、シュメールの諸都市から大量の粘土板文書が出土するようになります。そこには、税や地租の記録、家畜の数、労働者への配給、商取引の契約、王の命令、外交文書など、多種多様な内容が記されています。シュメール文字はもはや単なる簡易な記号ではなく、「国家や神殿の運営を支える総合的な書記システム」として成熟していたと言えます。

書記と神殿・宮殿:シュメール文字の社会的役割

シュメール文字が社会でどのように使われていたかを理解するには、「書記」と呼ばれる専門職の存在が重要です。読み書きができる人はごく一部に限られており、多くの農民や職人は文字を使いませんでした。その代わり、神殿や宮殿に所属する書記たちが、納税や配給、生産計画、裁判の記録などを一手に担っていました。書記は、都市国家の行政や経済を運営するうえで不可欠なエリート官僚とも言える存在でした。

書記になるためには、長い教育が必要でした。粘土板と葦ペンを用いた「書記学校」のような場で、学生たちはまず基本的な記号の形を練習し、その後、語彙表(単語の一覧)や簡単な文章、ことわざ、計算問題などを繰り返し写して学びました。シュメール語とアッカド語の対照表のような教材も出土しており、後の時代には、シュメール語が「学問と宗教の古典語」として教えられていたことも分かります。

神殿は、シュメール都市社会の宗教的中心であると同時に、経済の中心でもありました。そこで働く書記たちは、神殿に納められた穀物や家畜、布製品などを粘土板に記録し、どの村からどれだけの貢納があったか、どの労働者にどのくらい配給したかを管理しました。粘土板は、乾燥させたり焼き固めたりすることで保存され、棚や箱に分類して保管されました。このように、シュメール文字は、灌漑農業と神殿経済を支える「情報インフラ」として機能していたのです。

宮殿のレベルでも、王や高官の命令、戦勝報告、外交書簡などがシュメール文字で記されました。例えば、ラガシュの王エアンナトゥムや、ウル第3王朝の王たちは、自らの治績を刻んだ石碑や円筒印章を残しており、その碑文には「正義を行い、神々に喜ばれる王」であることを強調する文言が並びます。こうした記録は、単に事務上の必要からだけでなく、支配者の権威を内外に示す宣伝の役割も果たしました。

シュメール文字は、宗教儀礼や学問の場でも用いられました。神への祈りや賛歌、儀式の手順書、占いの記録、星の観測データなどが粘土板に書きとめられ、神殿や学者の間で共有されました。とくに天体観測や暦の計算は、農業や祭礼の時期を決めるために重要であり、書記たちは数学や天文学の知識も身につけていました。このように、シュメール文字は行政・経済だけでなく、宗教・学問・文化の多方面で社会の基盤を成していたのです。

シュメール文字から楔形文字世界へ:他言語への応用と長期的継承

シュメール文字はシュメール語を書くために生まれましたが、その柔軟な性質ゆえに、他の言語にも広く応用されるようになります。特に重要なのが、セム系言語であるアッカド語への適用です。紀元前24世紀ごろ、アッカド人のサルゴン王がメソポタミア全域を支配するアッカド王国を築くと、王国の公用語はアッカド語となりました。しかし、書記体系としては、既に成熟していたシュメール起源の楔形文字が採用され、シュメール文字はアッカド語表記にも流用されることになります。

このとき、もともとシュメール語の語を表していた記号は、アッカド語では別の読み方を与えられたり、発音(音節)を表すために使われたりしました。例えば、ある記号はシュメール語では「家」を意味し、そのまま「家」を表す表意文字としても使われますが、アッカド語の「家」に近い音節を表す表音文字としても利用される、といった具合です。このようにして、楔形文字は「表語+表音」を組み合わせた複雑な書記システムとして、シュメール語とアッカド語の双方に対応するようになりました。

その後、バビロニアやアッシリアなど、メソポタミアの諸王国は数百年にわたって楔形文字を使い続けます。外交文書や条約、王の碑文、法典、文学作品、占いの記録などが、広大な地域で楔形文字によって書かれました。エジプトやヒッタイト、シリア・パレスチナの諸都市とのあいだでも、アッカド語楔形文字が「国際的な書き言葉」として機能した時期がありました。この意味で、シュメール文字は、一地域のローカルな文字を超えて、「古代オリエント世界の共通文字体系」の出発点になったと言えます。

一方で、シュメール語を母語として話す集団自体は、紀元前2千年紀の前半までに歴史の表舞台から退いていきます。しかし、シュメール語は宗教や学問の領域で「古典語」として残り、神殿や書記学校では、アッカド語を話す人びとがシュメール語の文書を学び続けました。シュメール語の賛歌や神話、ことわざ、語彙表は、アッカド語訳や注釈とともに粘土板に書き写され、後世の書記たちによって読み継がれました。こうして、シュメール文字とシュメール語は、実生活の言葉ではなくなっても、長期にわたり文化的な権威を持ち続けることになりました。

近代の解読と現代から見たシュメール文字の意義

シュメール文字を含む楔形文字は、古代オリエント世界が滅びたのち、長いあいだ「読めない文字」となっていました。中世・近世ヨーロッパの人びとは、聖書や古典文献を通じて「バビロン」や「アッシリア」の名を知っていましたが、その人たちが実際にどのような文字を使い、どんなことを書き残していたのかは分からなかったのです。状況が劇的に変わるのは、19世紀以降の考古学と文字解読の進展によってです。

19世紀、ヨーロッパ諸国の探検家や学者がメソポタミア各地を発掘し、宮殿や神殿の遺跡から大量の楔形文字碑文・粘土板を発見しました。とくに、ベヒストゥン碑文(現在のイランにある多言語の楔形文字碑文)は、ペルシア語・エラム語・アッカド語の三言語で同じ内容が刻まれており、これを手がかりにして楔形文字の意味が徐々に解明されていきます。ロゼッタストーンがエジプト象形文字の解読に役立ったのと同様に、多言語碑文が楔形文字解読の鍵となったのです。

楔形文字が読めるようになると、その中からシュメール語で書かれた文書が見つかります。当初、研究者たちはこれらをアッカド語の特殊な方言と考えていましたが、やがて文法や語彙がまったく異なる「独立した言語」であることが分かり、「シュメール語」という名称が与えられました。こうして、シュメール文字とシュメール文明の存在が、19世紀以降の研究によって徐々に輪郭を持つようになっていきます。

今日では、数十万点にもおよぶ粘土板文書が世界各地の博物館や大学に収蔵されており、その多くがシュメール文字・楔形文字で記されています。現代の研究者たちは、それらを一枚一枚読み解きながら、古代の人びとの日常生活、経済活動、宗教儀礼、文学、科学などを明らかにしています。例えば、ある粘土板は「パン職人に何個のパンが支給されたか」を記録した帳簿であり、別の粘土板は「生徒が書き写したことわざ集」であり、また別の粘土板は「ギルガメシュ叙事詩の一部」です。これらは、教科書上の抽象的な「文明」ではなく、一人ひとりの人間の生活の痕跡として、シュメール文字を通じて現代に伝わってきています。

世界史の学習において、「シュメール文字」は単に「楔形文字の最初の形」として覚えるだけでなく、「文字が社会をどのように変えたのか」を考える手がかりとしても重要です。文字がなければ、大規模な灌漑や税の徴収、長距離交易の管理、法や契約の保存、複雑な神話や宗教儀礼の継承ははるかに難しかったはずです。シュメール文字の誕生は、人類が「記憶と約束を物質に刻み込み、世代を超えて共有する」技術を手に入れた瞬間の一つであり、その後の歴史全体に大きな影響を与えました。

「シュメール文字」という用語に出会ったときには、粘土板に葦ペンで刻まれたくさび形の記号群を思い浮かべ、それが最初は穀物や家畜の数を数えるための印だったものが、やがて法律や神話、王の業績、学校教材にいたるまで、あらゆる情報を記録する道具へと成長したのだ、というイメージを持っておくとよいでしょう。その背後には、シュメール人が築いた都市文明と、そこから広がった古代オリエント世界全体の文字文化があることも、あわせて意識しておくと理解が深まります。