アトリー内閣 – 世界史用語集

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アトリー内閣の成立と歴史的背景

アトリー内閣(1945年-1951年)は、第二次世界大戦後のイギリスにおいて労働党が単独で政権を担った最初の政権であり、同国における福祉国家の基盤を築いた重要な政権です。首相はクレメント・アトリーで、彼は戦時中にチャーチルの戦時連立内閣で副首相を務め、戦後直後の総選挙で労働党を率いて歴史的な勝利を収めました。

1945年7月の総選挙は、戦争を勝利に導いたチャーチル率いる保守党にとって有利に見えましたが、国民は戦後の平和と社会改革を強く求めており、「ゆりかごから墓場まで」を掲げた労働党の社会政策が支持されました。その結果、労働党は戦前には考えられなかったほどの圧倒的多数を獲得し、アトリーを首班とする内閣が誕生したのです。

国内政策と福祉国家の建設

アトリー内閣の最大の功績は、イギリスにおける本格的な福祉国家の建設です。その理論的基盤となったのは、1942年のウィリアム・ベヴァリッジによる「ベヴァリッジ報告」でした。報告は、貧困・疾病・無知・不衛生・失業という「五大悪」との闘いを課題として掲げ、それに応える形でアトリー内閣は制度改革を断行しました。

1946年には国民保健サービス(NHS)が設立され、国民は無償で医療を受けられるようになりました。これは現在に至るまでイギリス社会の中核を成す制度です。また、社会保障制度が拡充され、国民保険法・国民扶助法が制定されました。これにより失業保険、老齢年金、児童手当が整備され、国民生活の最低水準が国家によって保障される仕組みが作られました。

さらに、基幹産業の国有化も大きな政策の柱でした。石炭産業(1947年)、鉄道・電力・ガス(1948-49年)、鉄鋼(1951年)といった重要産業が国家の管理下に置かれ、計画的経済運営を通じて戦後の再建を図りました。これにより失業の防止と安定した供給体制が実現されましたが、経済効率や競争力の低下といった問題も残しました。

住宅政策も重要な課題であり、戦争によって荒廃した都市において公共住宅建設が進められ、多くの労働者階級が恩恵を受けました。教育分野では、1944年の教育法(バトラー法)を基盤に中等教育の拡充が進められ、国民の教育水準の向上に寄与しました。

外交政策と帝国から連邦へ

アトリー内閣は外交においても大きな転換点を迎えました。まず重要なのは脱植民地化の開始です。1947年にインドとパキスタンの独立を承認し、大英帝国はイギリス連邦へと移行していきました。ビルマ(現ミャンマー、1948年)、セイロン(現スリランカ、1948年)の独立も続きました。これは帝国主義から多国間の協調体制への歴史的移行を象徴しています。

一方で冷戦構造のなかで、アトリー内閣は明確に西側陣営に属しました。1949年には北大西洋条約機構(NATO)に加盟し、アメリカとの安全保障協力を強めました。また、戦後経済再建のためにアメリカのマーシャル・プランの援助を受け入れました。さらに、ソ連の脅威に対抗するため、イギリスは独自に核兵器開発にも着手しました。これは大国としての地位維持を図る政策でした。

アトリー内閣の歴史的意義と評価

アトリー内閣の歴史的意義は、何よりも「福祉国家の制度的基盤を確立した」点にあります。国民保健サービスや社会保障制度は、今日に至るまでイギリス政治の根幹に位置し続けています。第二に、基幹産業の国有化によって戦後復興の安定を支えました。第三に、脱植民地化の開始とNATO加盟によって、戦後世界におけるイギリスの立場を新たに定めました。

ただし、その政策には課題もありました。国有化政策は一時的に効果を発揮しましたが、長期的には経済の硬直性を生み出す要因となり、後に保守党やサッチャー時代の民営化政策によって大きく見直されることになります。また、福祉政策の財源確保をめぐって財政難に直面することもありました。

総じてアトリー内閣は、戦時体制から平時体制への移行を成し遂げた「戦後イギリスの建設期の政府」として高く評価されます。その社会改革は「イギリス的福祉国家」のモデルを確立し、20世紀後半のヨーロッパ社会民主主義に大きな影響を与えました。