アフガン戦争の歴史的背景
「アフガン戦争」という用語は、複数の時代における大国の軍事介入を指す場合に用いられます。特に有名なのは、1979年から1989年にかけての「ソ連・アフガン戦争」と、2001年以降の「米国主導のアフガン戦争」です。両者は冷戦期とポスト冷戦期における国際政治の構造を反映しており、アフガニスタンがいかにして「帝国の墓場」と呼ばれる存在となったかを示しています。
アフガニスタンは中央アジアと中東・南アジアを結ぶ戦略的要地であり、歴史的に列強の干渉を受けてきました。19世紀にはイギリスとロシアの「グレート・ゲーム」の舞台となり、20世紀後半以降は冷戦の代理戦争や「対テロ戦争」の主戦場となりました。こうした地政学的条件が、アフガン戦争を国際政治の焦点へと押し上げたのです。
ソ連・アフガン戦争(1979–1989年)
1979年12月、ソ連はアフガニスタンに軍事介入し、親ソ政権の安定化を図りました。前年の1978年に成立したアフガニスタン人民民主党政権は急進的な社会主義改革を進めた結果、国内の部族社会やイスラム指導者と深刻な対立を生み、各地で反乱が拡大していました。ソ連はこの政権を支えるために軍を派遣し、カブールを掌握しました。
しかし、ソ連軍はムジャーヒディーンと呼ばれるイスラム武装勢力のゲリラ戦に苦しみました。険しい山岳地帯での戦闘はソ連軍に大きな損害を与え、戦争は泥沼化しました。西側諸国やイスラム諸国はムジャーヒディーンを積極的に支援し、特にアメリカのCIAは武器や資金を供与しました。携帯型地対空ミサイル「スティンガー」の供与はソ連軍の航空優勢を打ち破る大きな要因となりました。
戦争は約10年続き、ソ連は大きな犠牲と経済的負担を背負うことになりました。1985年に就任したゴルバチョフ書記長は戦争を「流血の傷」と呼び、撤退を模索しました。そして1989年、ソ連軍は完全にアフガニスタンから撤退し、ソ連・アフガン戦争は終結しました。この敗北はソ連体制の弱体化を加速させ、最終的に1991年のソ連崩壊へとつながる重要な要因の一つとなりました。
米国主導のアフガン戦争(2001–2021年)
第二の「アフガン戦争」は、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件を契機に始まりました。アルカーイダを庇護していたタリバン政権を排除するため、アメリカは「不朽の自由作戦」を開始し、同盟国と共にアフガニスタンを攻撃しました。タリバン政権は短期間で崩壊し、アメリカはカルザイ暫定政権を支援して新たな国家建設を進めました。
しかし、タリバンは地方で勢力を温存し、ゲリラ戦を展開しました。アメリカはNATO諸国と共に多国籍軍を派遣し、治安維持や復興支援を試みましたが、地方では依然としてタリバンの影響力が強く、戦争は長期化しました。オバマ政権期には兵力増強が行われ、2011年にはオサマ・ビン=ラディンが殺害されましたが、それでも戦争の完全な終結には至りませんでした。
2021年、バイデン大統領は米軍の完全撤退を決定しました。その直後、タリバンは急速に勢力を拡大し、わずか数週間で首都カブールを掌握しました。これにより、20年にわたるアメリカの軍事介入は、タリバンの政権復活という形で幕を閉じることになりました。
アフガン戦争の歴史的意義
アフガン戦争は、二度にわたり大国の軍事介入と撤退を経験した歴史的事例です。ソ連とアメリカという二つの超大国が、ともにアフガニスタンを完全に掌握することに失敗した事実は、アフガニスタンが「帝国の墓場」と呼ばれる所以を象徴しています。
ソ連・アフガン戦争は冷戦史の転換点であり、米国主導のアフガン戦争は「対テロ戦争」の限界を示しました。いずれの戦争も、軍事力だけでは国家建設やテロ根絶を達成できないことを明らかにしました。さらに、戦争の長期化はアフガニスタン社会に深刻な影響を及ぼし、数百万人規模の難民流出や民間人被害を生み出しました。
総じて、アフガン戦争は現代国際政治の構造を映し出す鏡であり、軍事介入の限界と地域紛争の複雑性を示す歴史的な教訓となっています。

