概要
「アボリジニー(Aboriginal Australians)」とは、オーストラリア大陸およびタスマニア島に古くから暮らしてきた先住民族の総称です。日本語では「アボリジニ」「アボリジニー」と表記が揺れますが、いずれも英語のAboriginalに由来し、ラテン語のab origine(起源から)を語源とします。行政や学術の場では、トレス海峡諸島民(Torres Strait Islander peoples)と区別して「アボリジナル・オーストラリアン」と併称するのが一般的です。本項では主に大陸側のアボリジニーを中心に解説します。
彼らは少なくともおよそ5万年以上にわたって大陸に居住してきたとされ、世界でも最長級の連続的な文化伝統を保持してきました。多様な言語と社会組織、火入れによる環境管理、岩絵や儀礼音楽など豊かな文化実践を発展させ、土地と祖先の関係を物語る「ドリーミング(The Dreaming)」の世界観を共有してきたことが広く知られています。一方で、18世紀末以降のイギリス植民地化は、土地喪失、暴力、疫病、同化政策を通じて深刻な影響をもたらしました。
20世紀後半以降、土地権や自己決定をめぐる運動と法的改革が進み、1992年のマボ判決による「テラ・ヌリウス(無主地)」論の否定、1993年のネイティブ・タイトル法、2008年の連邦首相による「盗まれた世代」への公式謝罪などが大きな節目となりました。今日は、文化復興と社会的格差の是正を両立させる取り組みが続く一方、国レベルの制度設計や呼称のあり方をめぐる議論も活発です。
起源・社会・文化の基礎
考古学と遺伝学の知見から、最初の人々は海面が低かった旧石器時代に東南アジア方面から渡来し、数万年にわたり乾燥した内陸から熱帯雨林、海岸、高地に至る多様な環境に適応したと理解されています。タスマニア島の分離は完新世初頭の海面上昇によるもので、地域ごとに独自の文化的適応が進みました。こうした長い時間の積み重ねが、場所に根差した知識体系を豊かに育んだのです。
言語はかつて250以上が存在したと推定され、今日も儀礼や地域社会で重要な役割を果たしています。言語系統としては大陸広域に分布するパマ・ニュンガン語族が知られ、北部には非パマ・ニュンガン系の多様な言語が集中します。言語は単なるコミュニケーション手段にとどまらず、土地の特徴、動植物、祖先の物語と密接に結びつき、知識の記憶媒体として機能してきました。
社会組織は氏族や皮制度(モイティ、セクション/サブセクション)など複層的な親族体系によって構成されます。婚姻規則や儀礼上の役割、他集団との関係はこの体系によって調整され、土地と人、動植物、天体までもが親族関係のネットワークの中に位置づけられます。土地は単なる資源ではなく、祖先の行為が刻まれた「関係の場」であり、守るべき親族の一部として理解されます。
生業は狩猟採集を基本としつつも、高度な「ランド・マネジメント(環境管理)」が行われました。代表例が計画的な火入れ(ファイア・スティック・ファーミング)で、植生をモザイク状に維持し、特定の動物相や食用植物の再生を促し、移動経路や視界を確保しました。また、内陸と沿岸を結ぶ交易網が発達し、顔料の黄土(オーカー)や貝殻、石斧材などが広範に流通しました。内陸河川や沿岸域では魚梁(石造の魚捕り施設)も用いられ、季節的移動と資源管理を組み合わせる柔軟な適応が見られます。
世界観の中心には、しばしば「ドリームタイム」と訳されるドリーミングがあります。これは過去の神話時代ではなく、祖先の存在と行為が現在も土地や生き物、儀礼、歌の中で生成し続けるという時間感覚を指します。祖先の旅路を示すソングライン(歌の道筋)は地形や水場、聖地を結び、歌や踊り、身体装飾、絵画を通じて伝承されます。したがって、宗教、法、地理学、歴史が一体化した実践的知の体系と言えます。
文化表現としては、数万年の蓄積をもつ岩絵(ロック・アート)、樹皮画、点描画(ドット・ペインティング)などが知られます。モチーフには祖先存在、動植物、狩猟場面、ソングラインの地図的表現などが含まれ、制作は儀礼や法的記憶と密接に関係します。音楽では北部で発展した木製管楽器ディジュリドゥ(地域語ではイダキ等)が有名ですが、これは全大陸の普遍的伝統ではない点にも注意が必要です。舞踊やコールアンドレスポンスの歌唱は儀礼の核をなし、身体や空間を通じて物語が実演されます。
植民地化の衝撃と権利回復の歩み
1788年、イギリスのファースト・フリートがシドニー湾に到来すると、入植拡大は急速に進みました。先住社会は天然痘などの疫病、土地の接収、牧羊・牧牛による生態系変化、そして前線地帯での暴力的衝突に直面しました。多くの地域で人口は急減し、伝統的な移動と儀礼の連続性が断たれました。タスマニアでは19世紀前半に極めて過酷な状況が生じ、先住民コミュニティは壊滅的打撃を受けました。
イギリス当局と植民地政府は長らく大陸を「テラ・ヌリウス(無主地)」と見なし、先住社会の土地権を法的に承認しませんでした。19世紀から20世紀にかけては保護・隔離政策と同化政策が交互に実施され、居住制限や賃金管理、言語使用の抑圧が広がりました。この過程で、混血と見なされた子どもを家族から引き離す措置が広範に行われ、「盗まれた世代」と呼ばれる深いトラウマが残りました。
20世紀半ば以降、アボリジニー自身の運動と非先住民の連帯により、法的・政治的転換点が次々に築かれます。1966年のウェーブ・ヒル農場スト(グリンジ族の労働争議と土地返還要求)、1972年のキャンベラにおける「アボリジナル・テント大使館」の設置は、土地権と自己決定の象徴的事件として記憶されています。1967年の国民投票では、連邦政府に先住民政策を制定する権限が明確化され、国勢調査での人口算入が実現しました。
法制度面では、1976年の北部準州先住民土地権法が伝統的土地への権利回復を可能にし、続く1992年のマボ判決が「テラ・ヌリウス」論を退け、習慣法に基づくネイティブ・タイトル(先住土地権)を初めて最高裁が認めました。1993年にはネイティブ・タイトル法が制定され、鉱業や開発との関係調整の枠組みが整えられます。さらに1996年のウィック判決は、牧場リースとネイティブ・タイトルの共存可能性を示し、交渉の余地を拡げました。
過去の政策への向き合いとしては、1997年の「ブリング・ゼム・ホーム」報告が「盗まれた世代」の実態を公的に記録し、2008年には連邦首相が議会で公式謝罪を表明しました。これは記憶の回復と今後の社会関係の再構築に向けた重要な節目となり、各地で言語復興、文化教育、若者支援などの実践が広がる契機となりました。
現代の課題と呼称の注意点
21世紀の今日、アボリジニーは都市部から遠隔地域まで多様な生活世界を築いています。芸術やスポーツ、大学・研究機関、先住メディアの発展など、文化的・社会的発信力は着実に高まっています。一方で、健康、教育、雇用、住宅、司法アクセスなどにおける格差は根強く、「閉じられたギャップ(Closing the Gap)」と総称される政策課題として取り組まれています。地域に合った支援設計や、コミュニティ主導の意思決定を尊重することが鍵とされています。
文化遺産保護も重要な論点です。聖地や岩陰遺跡、埋蔵遺物、ソングラインに沿った景観などは、単なる観光資源ではなく、法と記憶を担う不可欠の基盤です。近年、開発行為による破壊が社会的反省を呼び、企業・政府・コミュニティ間の協議枠組みや、事前同意に関するより実効的な手続きの整備が求められています。文化の保護は新たな創造を妨げるのではなく、未来の文化的多様性を拓く前提と考えられています。
政治制度の議論としては、憲法上の先住民の位置づけや、議会への助言機関の設計などが挙げられます。国民的な合意形成は容易ではありませんが、いかにして先住コミュニティの声を持続的・制度的に反映させるかは、民主主義の成熟度を映す課題です。制度化の可否にかかわらず、地域社会での協働意思決定、文化教育、言語復興、若者のエンパワーメントなど、日常の実践を支える取り組みが欠かせません。
呼称に関しては注意が必要です。英語圏では「Aboriginal and Torres Strait Islander peoples」と併記するのが一般的で、近年は「First Nations」という自称・総称も広がっています。日本語では「アボリジニー」あるいは「アボリジニ」と記すことが多いものの、相手の希望に沿った呼び方を尊重するのが望ましいとされます。さらに、可能であればヨルング(Yolngu)、ヌンガー(Noongar)、アナング(Anangu)、カウルナ(Kaurna)といった具体的な民族名・国名で呼ぶことが推奨されます。その方が、文化と言語の多様性を可視化できるからです。
まとめると、アボリジニーという用語は単一の文化ではなく、数万年の連続性と地域多様性を併せ持つ共同体の集合を指します。ドリーミングの世界観、親族と土地の関係、環境管理の知恵、芸術的表現はいずれも現代にも生きる知の体系です。他方で、植民地化の遺産としての格差や不信もなお残り、記憶の回復と制度改革、生活の改善を同時に進めるバランスが求められています。歴史と現在の双方に目を配り、当事者の語りと選好を尊重しながら学ぶ姿勢こそが、この用語を理解する最良の入口になります。

