アルジェリア独立は、1954年の蜂起以降の武装闘争と政治交渉の積み重ねの末、1962年にフランスから主権を獲得した出来事を指します。独立の道程は、民族解放戦線(FLN)とその軍事部門(ALN)によるゲリラ戦・都市戦、フランス軍の大規模掃討・情報戦・国境封鎖、国連・第三世界の世論戦、本国政治の危機(第四共和政の崩壊と第五共和政の成立)といった層が複雑に絡み合って形成されました。停止線上の決着ではなく、国内外の多数のアクターが関与する「交渉型の独立」という性格が強く、停戦・住民自決・国籍と財産・資源と基地・遷移的協力の各項目を精密に取り決める必要がありました。
法的・政治的区切りとしては、1962年3月18日のエビアン協定、3月19日の停戦発効、同年7月1日のアルジェリア住民投票(圧倒的多数で独立支持)、7月3日のフランスによる承認、そして7月5日の独立宣言が連続します。独立記念日として7月5日が選ばれたのは、1830年7月5日のフランスによるアルジェ占領日に対置する象徴的意味を持つためです。独立は解放と同時に、入植者社会の大量移動、補助兵ハルキの保護をめぐる悲劇、国内の権力争いという重い代償も伴いました。以下では、独立への道筋、エビアン協定の中身、独立後の国家形成、国際的意義と記憶という順に整理します。
独立への道筋:蜂起、都市戦、本国政治の転回
前史として、1830年の占領以来アルジェリアは「本国の三県」と位置づけられましたが、政治・土地・市民権の面で欧州系入植者(ピエ・ノワール)を優遇し、ムスリム多数派を構造的に周縁化する制度が根を下ろしました。第二次世界大戦後の改革期待は1945年5月のセティフ・ゲルマで流血に転じ、失望と急進化が進みます。民族運動は複数潮流に分かれ、最終的にFLNが主導権を握りました。
1954年11月1日、FLNは警察・軍・交通・象徴施設を狙う一斉攻撃(トゥーサン・ルージュ)を実施し、武装闘争が本格化します。山岳・農村でのALNの打撃と行政破壊に対し、フランス軍は細密な区画制、再定住キャンプ化、情報網の構築で応戦しました。1956–57年のアルジェの戦いでは、FLNの都市テロと、空挺部隊による検問・尋問・拷問・失踪が衝突し、短期的な軍事効果と長期的な政治的損耗が併存しました。国境では補給線を断つためにモーリス線が築かれ、1958年にはチュニジア領サキエト・シディ・ユセフへの爆撃が国際的非難を招きました。
戦争の帰趨はフランス本国政治の転回に左右されました。1958年5月、アルジェで軍と入植者の一部がパリ政府に反旗を翻し、ド・ゴールが政権に復帰、第五共和政が成立します。当初は「アルジェリアはフランスの一部」と言いながらも、ド・ゴールは徐々に自己決定へ舵を切り、軍内強硬派と入植者過激派(OAS)と対立しました。1959–60年のシャル・プランでALNは打撃を受けますが、戦争終結を求める世論は強まり、交渉の環境が整っていきました。
エビアン協定の中身:停戦・自決・在仏権益・資源・基地
1962年3月18日に締結されたエビアン協定は、戦闘停止と独立への移行を段階化して規定しました。第一に、3月19日の停戦発効、捕虜・抑留者の釈放・交換、政治犯の恩赦が定められました。第二に、アルジェリア住民の自己決定投票の実施手順(選挙人登録・監視・期日)と、その結果に基づく主権移行の方法が明文化されました。第三に、フランス人住民の権利(一定期間の二重国籍的地位の選択、財産権の保護、移動と文化教育の自由)が取り決められました。
第四に、サハラ地域に関わる取り決めでは、資源(石油・ガス)開発の共同管理と移行的枠組みが設けられ、フランスが一定期間関与を続ける余地が残されました。第五に、軍事面では一部施設の暫定的使用(たとえばメルス・エル・ケビール海軍基地など)の期限付き存置が合意され、順次撤収が進められました。こうした「暫定的共存」は、独立時点での行政・経済・安全保障の急激な空洞化を回避しつつ、主権の移譲を実務的に保証する狙いがありました。
同協定の履行は必ずしも平穏ではありませんでした。停戦後も一部地域で散発的暴力が継続し、OASはテロと破壊活動を強め、7月の独立宣言前後にはオランを中心に惨事が起きました。ピエ・ノワールの大量移動は社会的・感情的な断絶を生み、フランス側に協力したムスリム補助兵ハルキの保護は不十分で、多くの犠牲を出しました。にもかかわらず、7月1日の住民投票は独立支持で圧倒され、7月3日のフランスの承認、7月5日の独立宣言で国際社会は新国家を承認しました。
独立後の国家形成:権力構図、社会改革、資源と外交
独立は同時に新国家の内部対立の出発点でもありました。FLN外部に政府を置いてきた臨時政府(GPRA)と、国境に展開し規律ある戦力を保っていた「国境軍(Armée des frontières)」を率いるフワーリ・ブーメディエンの陣営は、主導権をめぐって緊張を深めます。1962年秋、ブーメディエンの支援を受けたアーメド・ベン・ベラが首相となり、1963年の憲法でFLN一党体制が確立しました。1965年にはブーメディエンがクーデタでベン・ベラを排し、評議会体制を経て大統領に就任します。
社会・経済面では、出国した入植者が残した農園・工場の空白を埋めるために、労働者・農民による自主管理(オートジェスティオン)が導入され、やがて国有化政策へと接続されました。教育・行政ではアラビア語化(アラビゼーション)が進められ、フランス語との二言語状況の中で国家の文化的輪郭が再定義されました。資源政策では、サハラの炭化水素の戦略的価値が高まり、1971年の炭化水素国有化は独立の実質化を象徴する措置となります。
外交では、アルジェは非同盟運動の有力拠点として位置づけられ、アフリカ解放運動やパレスチナ問題に積極的に関与しました。独立の記憶は、他地域の脱植民地化運動にとって象徴的資源となり、アルジェは「革命首都」と呼ばれることもありました。一方で、冷戦下の均衡や周辺国との関係(モロッコとの国境紛争・サハラ問題)への対応は、現実的な安全保障・経済利害と理想のあいだの調整を迫りました。
意義・記憶・学習の要点:7月5日の意味と現在につながる論点
アルジェリア独立の意義は、第一に植民地近代の不平等な秩序を終わらせ、主権と資源のコントロールを回復したことにあります。第二に、交渉と住民自決を核に据えた「移行設計」の一例として、停戦・権利・資源・軍事施設といった難題を段階的に処理する手本を提供したことです。第三に、解放の瞬間に伴った社会的断絶(ピエ・ノワールの出国、ハルキの悲劇、国内権力闘争)を含め、独立が新たな課題を生み出す「始まり」であることを示した点にあります。
記憶の領域では、7月5日の独立記念日は、1830年の占領日との対置という強い象徴性を持ちます。フランスでは長らく戦争の呼称や拷問・失踪の責任をめぐる議論が続き、1999年に議会が正式に「戦争」と認定しました。21世紀に入ると、和解・歴史調査・記念館・教科書叙述の改善が段階的に進みますが、犠牲者数の推計や個別事件の扱いなど、なお繊細な論点が残ります。アルジェリア側でも、殉教者の記憶と多様な経験(MNAとの抗争、オランの惨事、国内対立)の併記は容易ではなく、政治と記憶の折り合いが模索されています。
学習の要点としては、①1954–62年の時系列(蜂起→都市戦→国境封鎖→本国政治の転回→停戦→投票→独立)を押さえる、②エビアン協定の具体(停戦・住民自決・在仏権益・資源・軍事施設)を箇条で説明できる、③ピエ・ノワールとハルキの動態、OASの位置づけを社会史として描く、④独立後の権力構図(GPRA/ベン・ベラ/ブーメディエン)と社会経済政策(自主管理・国有化・アラビア語化)をつなげる、⑤非同盟と資源外交という対外戦略を近現代史の文脈にはめる、の五点を目安にすると良いです。独立は過去の出来事であると同時に、現在の仏・アルジェリア関係、欧州・アフリカの移民・記憶・安全保障に通じる現在形の論点でもあります。

