アレクサンドリア – 世界史用語集

アレクサンドリア(Alexandria)は、エジプト地中海岸のロゼッタ支流河口近くに位置する港市で、紀元前331年にアレクサンドロス大王が建設を命じて以来、ヘレニズム世界から後古代、イスラーム期、近現代に至る長い時間を通じて地中海とナイル世界を結ぶ結節点として機能してきました。プトレマイオス朝の王都として栄え、学術機関ムセイオンと王立図書館に象徴される知の都であると同時に、ファロス島の大灯台やヘプタスタディオン(七スタディアの堤)に代表される土木・都市技術の先端でもありました。ローマ帝政下では帝都ローマへの穀物流通の要であり、キリスト教の神学論争の中心地としても激しい思想と政治の衝突を経験しました。イスラーム期・オスマン期を経て、19世紀には綿花と運河・鉄道によって再び地中海交易の拠点として蘇り、現在は港湾・工業・学術の都市として、さらにはビブリオテーカ・アレクサンドリーナに見られる文化復興の象徴として位置づけられます。

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建設と都市計画:ヘレニズムの港都、ヘプタスタディオンと二つの港

アレクサンドリアは、紀元前331年にアレクサンドロス大王がエジプト征討の帰路に建設地を定め、以後、後継者プトレマイオス1世・2世によって王都として整備されました。選地は、ナイル三角州西縁の砂州と浅い潟湖、沖合の小島ファロスの組み合わせがもたらす天然の良港性に基づきます。都市はヒッポダモス式の格子街路で組織され、東西に延びる大通り(カノプス街)と、王宮地区・王家の墓所・セラペウムなどの象徴的施設が、幾何学的に配置されました。

都市計画の要であるヘプタスタディオンは、ファロス島と本土を結ぶ長大な堤防で、海流を分けて二つの港—東の大港(メガス・リメン)と西の商港(エウノストス)—を形成し、軍事と商業の機能を分節しました。堤防はまた、都市の給水・排水や交通の動脈となり、港湾都市としてのアレクサンドリアの持続的繁栄を支えました。沖合にそびえたファロスの大灯台は、プトレマイオス2世の時代に完成したと伝えられ、古代世界の七不思議の一つに数えられます。塔の設計にはクニドスのソストラトスの名が伝わり、鏡と火を用いた遠距離航行の標識として、地中海の航海に革命をもたらしました。

都市はエジプト内陸と地中海の両回路を結ぶ節点で、ナイルの穀物・パピルス・麻布、東方の香料・宝石、ギリシア世界の工芸品が集散しました。ユダヤ人、ギリシア人、エジプト人、シリア人など多様な共同体が居住し、それぞれの神殿・会堂・市場がモザイク状に広がるコスモポリスの性格を早くから示しました。

学術と文化:ムセイオンと王立図書館、知の装置と翻訳の都市

アレクサンドリアの精神的中心は、王家が設立・保護したムセイオン(諸芸の館)王立図書館でした。ムセイオンは学者・詩人・数学者・医師が共同生活を送り、王の給費で研究・講義・討論に専念する学術共同体で、今日の大学・研究所の先駆とみなされます。附属の図書館は地中海世界から巻物を収集し、書誌学者カリマコスは『ピナケス(目録)』を編纂して分類・目録学の基礎を築きました。

この場から、科学・人文学の多くの源流が生まれます。幾何学のエウクレイデス(ユークリッド)は『原論』を整備し、地理学者エラトステネスは夏至日の影の差から地球の周囲長を推算しました。解剖学のヘロフィロスエラシストラトスは、人間の神経系や循環の理解を前進させ、詩学・文献学ではゼノドトスアリストファネス(ビザンティオンの)がホメロス校訂やアクセント体系の整備に尽力しました。こうした知の営みは、王権の栄誉と都市の威信に直結し、巻物の収集・複製・校訂という書物のインフラが整備されました。

宗教・言語の面でも、アレクサンドリアは翻訳と交渉の場でした。ユダヤ人共同体は大規模で、ヘブライ語聖書のギリシア語訳である七十人訳(セプトゥアギンタ)がここで成立したと伝えられます。ギリシア語コイネが行政・学術・交易の共通語となり、エジプト語(デモティック)やヘブライ語・アラム語との接点で新しい概念が生み出されました。ギリシア・エジプト・オリエントの信仰を合成したセラピス崇拝は、王権と都市統合の象徴宗教として機能し、セラペウムは都市の知と信仰の拠点でした。

ローマと後古代:穀物の港、神学の舞台、危機と変容

紀元前30年、オクタウィアヌス(後のアウグストゥス)がアントニウスとクレオパトラを破り、アレクサンドリアはローマ帝国の支配下に入りました。都市の戦略的役割はますます高まり、ナイルの穀物を帝都に供給する穀物船団の出発点として、帝国の食糧安全保障を担いました。ローマ市民権の拡大とともに商人・官僚・軍人が往来し、都市は経済・行政の中枢であり続けます。

3〜5世紀、アレクサンドリアはキリスト教の神学・教会政治の最前線となりました。アレクサンドリア学派のオリゲネスクレメンスは哲学と信仰を媒介し、やがてアリウスの教説(子は被造物)をめぐる論争が帝国史を揺るがします。325年のニカイア公会議はアリウス主義を退け、アレクサンドリア主教アタナシオスが三位一体を擁護しました。後にキュリロス(キュリロス・アレクサンドリア)はネストリオスと論争し、431年エフェソス公会議の結論を導くなど、都市の主教座は宗教政治の重心でした。

この過程で宗教間・教派間の対立は激化し、391年には皇帝の勅令を背景にセラペウムが破壊され、異教文化の象徴は消えていきます。415年には女性数学者ヒュパティアが暴徒に殺害され、知の都としてのアレクサンドリアのイメージに暗い影を落としました。7世紀にはサーサーン朝との戦役と東方の新勢力の出現で帝国の支配が揺らぎ、642年、アムル・イブン・アル=アースの率いる軍により都市はイスラーム勢力に編入されます。中世以降、古代図書館に関する焼失伝承が流布しますが、学術的には複数の段階的散逸・破壊・再編が重なったと理解され、単一の事件に還元することはできないと考えられています。

イスラーム期から近現代:港湾の再興、コスモポリタン、ビブリオテーカの復権

イスラーム期に入ると、政治・交易の重心が新首都フスタート(後のカイロ)へ移り、アレクサンドリアは相対的に後退しますが、地中海への玄関口としての重要性は維持されました。ファーティマ朝・アイユーブ朝・マムルーク朝下で城壁と港が整備され、十字軍・商人・巡礼が交錯しました。オスマン帝国時代には地中海貿易の変動と紅海航路の発達により浮沈を経験しますが、依然としてエジプトの外向きの窓口でした。

19世紀、総督ムハンマド・アリーの近代化政策により、綿花経済の発展とともに都市は再生します。内陸と港を結ぶ運河(マフムーディーヤ運河)、鉄道、埠頭の拡張により、アレクサンドリアは欧州資本と地中海商人(ギリシア系・イタリア系・レヴァント系など)が集うコスモポリタン都市として再び脚光を浴びました。19〜20世紀初頭には銀行・証券・保険、新聞・出版、映画・演劇が育ち、カフェやクラブ文化が花開きます。スエズ運河の開通(1869年)は物流地図を塗り替え、アレクサンドリアは地中海側の要港として国際航路に組み込まれました。

20世紀半ば、第二次世界大戦と独立後の国民国家形成、スエズ危機(1956)などの政治変動は、外国人居住者の流出と共同体構成の変化をもたらしました。それでも都市は工業・港湾・教育の中心であり続け、人口は増加を続けます。21世紀には、古代の知の都の記憶を継ぐ試みとしてビブリオテーカ・アレクサンドリーナが建設され、図書館・博物館・プラネタリウム・デジタルアーカイブを備えた学術・文化複合体として内外に開かれています。海に傾く円盤状の外観と、各言語の文字を刻んだ外壁は、古代と現代の「知の公共性」をつなぐ象徴となりました。

今日のアレクサンドリアは、港湾物流、化学・繊維・食品などの工業、観光・教育を柱に、多民族・多宗教の記憶を抱える都市として歩みを続けています。地中海岸の気候と浜辺は行楽地として親しまれ、古代遺跡の一部は海中考古学によって再発見されつつあります。都市はまた、文化間対話と遺産保護、持続可能な沿岸管理といった課題に取り組み、地理と歴史が与えた宿題に現代的な解を探っています。

学習の要点と用語整理:年号・施設・人物を結び、記憶の層を読む

学習上は、①建設と都市計画(前331年、ヘプタスタディオン、ファロス灯台、格子街路)を地理と工学の視点で押さえる、②ムセイオン/王立図書館と学者(エウクレイデス、エラトステネス、ヘロフィロス、カリマコス)、七十人訳やセラピス崇拝を知の制度と宗教の視点で整理する、③ローマ期の穀物流通、神学論争(アリウス、アタナシオス、キュリロス)と後古代の事件(セラペウム破壊、ヒュパティア)を政治と宗教の力学として理解する、④イスラーム期〜近代の浮沈、ムハンマド・アリーの近代化、コスモポリタン文化、ビブリオテーカ・アレクサンドリーナを経済史と都市史の連続として捉える、の四点を軸にするとまとまりが生まれます。

用語上の注意として、「アレクサンドリア学派」は哲学・神学の文脈(オリゲネスら)と文献学の文脈(ホメロス校訂など)とで意味領域が異なること、「王立図書館」の焼失は単一事件ではなく長期的過程として捉えるべきこと、「セラペウム」は神殿かつ文化施設で図書の分館機能を持った可能性があること、を意識すると叙述が精密になります。また、「ヘプタスタディオン」「ファロス灯台」といった施設名は、都市工学の視点から図解で理解すると記憶が定着します。

総括すると、アレクサンドリアは、港湾・都市計画・宗教・学術が絡み合う世界史的なハブ都市でした。波打つ海と流れる大河のあいだで、交易は富を、宗教は争いと和解を、学術は世界像を生み出しました。古代の知の都のイメージにとどまらず、変化にさらされながら再生を重ねる「生きた都市」としてのアレクサンドリアを学ぶとき、私たちは地理と制度が文化を形づくるダイナミクスを具体的に掴むことができるのです。