イエズス会(ジェズイット教団) – 世界史用語集

イエズス会(Societas Iesu、ジェズイット教団)は、16世紀の宗教改革期に創設されたカトリック教会の男子修道会で、創立者イグナティウス・デ・ロヨラと彼の同志たちが1534年に誓願を立て、1540年に教皇パウルス3世から承認を受けて正式に発足しました。教団は「神のより大いなる栄光のため(Ad maiorem Dei gloriam)」を標語とし、従来の修道院生活と異なり、定住よりも機動的活動と教育・宣教・知的奉仕を重視した点に特徴がありました。霊的訓練として『霊操』を核に個人の分別と意思決定を鍛える方法を整え、厳格な組織統治とグローバルなネットワークを併せ持つ、近世世界史を理解する上で欠かせない存在です。本稿では、成立と制度、教育と知のネットワーク、世界宣教と文化交流、そして抑圧と再建、近現代の展開という観点から、用語「イエズス会」の中身を整理します。

呼称について、日本語では「イエズス会」が一般的で、「ジェズイット」は英語・仏語の外来形に由来する通称です。いずれも同一の団体を指し、史料や文脈によって使い分けが見られます。以下では、基本的に「イエズス会」を用いつつ、史料慣用上の語形にも適宜触れます。

スポンサーリンク

成立と制度:『霊操』・誓願・憲章がつくる機動的修道会

創立者イグナティウス・デ・ロヨラは、兵士としての経歴を経たのち回心し、学び直しをへてパリで同志(フランシスコ・ザビエル、ピエール・ファーブルほか)と出会いました。1534年、彼らはモンマルトルで清貧・貞潔の誓願を立て、やがて「教皇が必要とする場所に直ちに赴く」との特別誓願(いわゆる第四誓願)を掲げる共同体へと成熟します。1540年、教皇勅書によって公式に設立されたイエズス会は、総長(ジェネラル)を頂点に、管区—学院—住院という階層的組織を整え、機動的任務展開を可能にしました。

霊的基盤となったのが、イグナティウスが経験と指導の中で練り上げた『霊操』です。これは祈りと黙想、内省と実践のサイクルを通じて、神と人との関係の中で「より善い選び(discernment)」を行う技法で、個人の良心の形成と行動選択を結びつけます。『霊操』は、修道院の回廊に閉じられたものではなく、教育や指導、公共の場での意思決定にも応用され、イエズス会の行動原理を一貫させる役目を果たしました。

憲章(コンスティテューションズ)は、選修生の養成、任務配分、服従の範囲、貧困観と資産管理など、会のすべてを規定しました。とりわけ服従の美徳は、カリスマ的人格に依存しない組織運営を可能にし、緊急任務に迅速に応える「軍隊的機動性」を修道会に与えました。ただし、これは盲目的服従ではなく、良心の分別を通した自由な服従という理念が強調されます。こうした規範は、広域に散在する学院と宣教地を束ねる「一本の背骨」となりました。

創立当初から、イエズス会は布教だけでなく教育を最重要の使命に据えました。若者に対する人文教養の涵養は、信仰の基礎を整えるだけでなく、社会共同体に奉仕する市民を養成する手段でもあると理解されたからです。この「教育=使徒職」という発想が、のちにグローバルな学院網の形成へとつながります。

教育と知のネットワーク:Ratio Studiorum と「弁論・人文・科学」

イエズス会は16世紀後半までに欧州各地に学院を設立し、教師・学生・書物の循環によって知のネットワークを構築しました。教育の標準化を担ったのが1599年に整備された学則『ラティオ・ストゥディオルム(Ratio Studiorum)』です。これは教科書の選定、授業法(ディスプテーション、レトリック演習)、評価法、学年進行、教師の役割、規律まで詳細に規定し、「どの学院でも一定品質の教育が受けられる」仕組みを実現しました。

カリキュラムの核は、人文学(文法・修辞・詩学)と哲学(アリストテレス注解を含むスコラ学)でしたが、数学・天文学・自然学にも門戸が開かれました。演説と作文を重視する「エロクエンティア・ペルフェクタ(完成された雄弁)」は、単なる弁舌技術ではなく、倫理・判断・公共性を兼ね備えた人間形成を目的としました。今日よく言及される「マギス(より大いなるもの)」や「クーラ・パーソナリス(個人への配慮)」といった言葉も、学業の達成と人格の成長を統合する教育理念を示します。

こうした学院は、欧州の都市に留まらず、リスボン—ゴア—長崎、セビリア—メキシコシティ—リマ、パリ—ケベックなどの航路と結びつき、宣教師の訓練・補給・情報交換の結節点となりました。数千人規模の教師・学生が、手紙・年報(レラティオ)・観測記録・地図をやり取りし、学問と宣教の相互作用が生まれます。近世科学史では、星表作成や測量、暦法改良、植物・言語の記述などにイエズス会の名が頻出し、学知の地理的拡散に重要な役割を果たしました。

世界宣教と文化交流:適応主義とその光と影

イエズス会の宣教は、単純な教義の移植ではなく、受け入れ社会の言語・礼俗・学問に深く習熟して「相手のカテゴリーで語る」適応主義(アコモデーション)で知られます。アジアにおいては、その代表例が日本・中国・インドでした。

日本では、フランシスコ・ザビエルが1549年に鹿児島に到着し、薩摩・平戸・山口・京都を遍歴しました。彼の後継者たち(コスメ・デ・トーレス、ジョアン・フェルナンデス、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノなど)は、戦国大名の保護の下で学院や神学校、印刷所(キリシタン版)を設け、天正遣欧少年使節を通じて日欧の文化相互理解を演出しました。豊臣政権下で1587年の伴天連追放令、1597年の殉教、徳川政権下で1612・1614年の禁教と迫害が強まると、イエズス会の活動は地下化し、隠れキリシタンという特異な信仰形態を生む一因となりました。ここには、ポルトガル商業ネットワーク(パドロアード)との結びつきや他修会(フランシスコ会など)との緊張も絡み、宗教・貿易・外交が渾然となった近世日本の対外関係の難しさが映ります。

中国では、マテオ・リッチが明末の知識人社会に接近し、儒学の語彙でキリスト教の神学を語る戦略をとりました。渾天儀や時計、幾何学の書物などの科学技術を媒介に、天文台や暦法改良に参画し、「西学東漸」の象徴的存在となります。続いてアダム・シャール(湯若望)、フェルディナント・フェルビースト(南懐仁)らが清朝初期の宮廷に仕えて天文暦学を整え、康熙帝のもとで西洋科学の権威を確立しました。こうした適応主義は大きな成果をもたらす一方、祖先祭などの礼俗をどう解釈するかをめぐって「中国礼儀問題」が生じ、最終的にローマ側が厳格な禁止を打ち出したことで、皇帝側の反発と布教の収縮を招きました。

インドではロベルト・デ・ノービリが上流カーストの習俗に一定の敬意を払い、サンスクリットやタミル語を学んで哲学的対話を試みました。衣服や食事の慣行、寺院儀礼への接近など、文化的翻訳の工夫は多くの改宗を生みましたが、同時に「どこまで適応が許されるか」という境界線を曖昧にし、内部・外部からの批判を招きました。こうした事例は、宗教の普遍主張と文化相対性の調停という難題を、近世早期に先取りしたものと言えます。

アメリカ大陸では、ガラナイ族などを対象にしたパラグアイの「レドゥクシオン(集住共同体)」が著名です。イエズス会士は現地語教育と音楽・工芸の養成を進め、植民地社会の搾取から住民を守る自治的共同体を組織しました。一定の自立と文化的開花を生んだ一方、王権や入植者の経済利益と衝突し、条約改定や戦争(グアラニー戦争)を経て解体に至ります。北米のフランス系植民地(ニューフランス)では、五大湖周辺の先住民との間で言語・民俗の記録と福音宣教を並行させ、殉教者の物語と民族誌が交差する独特の遺産を残しました。

科学・技術・地理の側面でも、イエズス会の足跡は濃厚です。天文測地に基づく地図作成、望遠鏡導入以前の精密観測、言語辞書や文法の編纂、植物誌・動物誌の記述など、各地の学院と宣教地から多様な知が集積されました。暦法改良や日食予報は、単に学問的栄誉にとどまらず、宮廷や国家に対する教団の社会的信用を高める機能を果たしました。

衝突・抑圧と再建:礼儀問題から1773年解散、1814年復活へ

適応主義は成果と同時に深刻な論争を生みました。中国礼儀問題では、祖先祭・孔子祭礼を宗教的行為とみなすか文化的敬意とみなすかが争点となり、ローマ側が否定的判断を下すと、清朝はキリスト教布教に対する制限を強化しました。インドでも類似の論争が起こり、儀礼・服飾・名前の扱いをめぐって「境界線」をめぐる葛藤が続きます。こうした論争は、普遍宗教の主張と文化の固有性の間の緊張が制度化されないまま残されたことを示します。

18世紀に入ると、ブルボン王朝諸国(ポルトガル・スペイン・フランス・ナポリ等)とイエズス会の関係が急速に悪化します。王権は重商主義と中央集権の論理から、教団の海外ネットワークと経済的自立、教育への影響力を警戒しました。事件や風説が積み重ねられる中で、まずポルトガルが追放に踏み切り、続いてスペイン帝国でも抑圧が進行します。ついに1773年、教皇は勅書によりイエズス会を解散させ、財産は接収、学院は閉鎖・転用されました。

しかし、全域で一律に消滅したわけではありません。ロシア帝国やプロイセンでは勅書の施行が遅れ・拒まれ、教育機関の運営能力を評価した政権の庇護の下で活動が継続しました。この「地下—半合法の持続」が、19世紀初頭の復活の足場となります。1814年、教皇が世界的な復活を宣言すると、旧学院の再建と新設が相次ぎ、宣教・教育・出版の活動が再開されました。近代国家と教会の関係が再編される中で、イエズス会は再び世界規模のネットワークを立ち上げ、近代的教育・学術と宗教活動の接点を探り直すことになります。

近現代の展開:教育・社会使徒職・現代的論点

19世紀以降、イエズス会は大学・中等教育・研究機関を中心に再起動し、哲学・神学だけでなく、自然科学・社会科学・言語学・東方学などに人材を送り込みました。東アジア研究や古典語文献学、考古学、民族誌など、地域学の形成にも寄与します。新聞・雑誌・出版社を通じて、公共圏に参加し、現代思想との対話を進めました。教育哲学では、人間の全体性(知性・感情・意志・霊性)に働きかける学修観を提示し、批判的思考・言語運用・市民的徳の育成を重んじます。

20世紀後半、第二バチカン公会議の刷新の流れの中で、イエズス会は「信仰と正義の奉仕」を掲げ、貧困・人権・平和・環境の課題に関わる社会使徒職を強化しました。総長ペドロ・アルペは、卒業生に向けて「他者のための人(Men and Women for Others)」という教育的ヴィジョンを示し、エリート教育の社会的責任を明確にしました。ラテンアメリカでは一部の会員が貧困層の組織化と連帯に関わり、時に政治的緊張を生みましたが、同時に殉教と和解の物語も生まれ、社会正義へのコミットメントは会のアイデンティティの一部として定着します。

今日、イエズス会は世界各地に大学・高校・研究所・文化センター・難民支援や教育開発の現場を持ち、宗教間対話と科学・信仰の対話にも継続的に参加しています。アフリカ・アジア・ラテンアメリカの教育格差や難民問題に取り組む国際ネットワークは、16世紀からの機動性と学知志向を現代化したものです。2013年には歴史上初めてイエズス会士の教皇(フランシスコ)が選出され、謙遜・周縁への眼差し・対話重視という特性が、世界規模で注目されました。

同時に、近現代のイエズス会は課題も抱えます。教育の大衆化に伴うアイデンティティの希薄化、学問の専門分化と霊性の統合の難しさ、国家と市場との関係調整、教会内部の改革をめぐる対立、そして歴史的に関わった抑圧や虐待問題への検証と責任などです。これらは、過去の栄光と功績だけでは評価できない、歴史主体としての複雑さを示します。

総括すると、イエズス会は、霊性と知、教育と宣教、対話と適応、組織と機動性を併せもった宗教集団であり、16世紀以降のグローバル史の展開に深く関与してきました。その足跡は学院の教室、天文台の観測記録、辞書と地図、宮廷と村落、地下の信徒共同体にまで刻まれています。用語「イエズス会」を正しく理解することは、宗教が世界の知・権力・生活にどのように交わってきたのかを読み解く鍵となります。