「イギリス革命(ピューリタン革命)」は、17世紀のイングランドを中心に起こった一連の内戦・政体変動を指す用語です。狭義には1640年代の内戦と王政廃止〜共和政(コモンウェルス)・護国卿体制(プロテクター政)を指し、広義には1688/89年の名誉革命まで含めて、王権・議会・宗教・財政が再編される長い過程を示します。用語「ピューリタン」はイングランド国教会をより厳格に改革しようとする諸派(長老派・独立派など)の総称で、宗教闘争は革命過程の核でしたが、同時に王権の財政・統治手法、地方の自治、軍の在り方、海上帝国の経済基盤といった世俗的課題が複雑に絡みました。本稿では、背景から内戦・共和政・王政復古・名誉革命までを、制度と政治文化の変容という視点から整理します。
1640年前後のイングランド社会は、王権神授説を唱えるスチュアート朝の統治と、議会・世論・宗教的多様性の拡大が正面衝突する局面にありました。ジェームズ1世・チャールズ1世が追求した一体的宗教政策と王室財政の自立化は、地方共同体や都市の利害、スコットランドやアイルランドの事情と軋轢を生み、最終的に武力衝突へと至ります。この過程で、議会主権という近代的観念が突然に生まれたわけではありませんが、徴税権・軍事・宗教規制・官職任免の範囲について、王と議会の境界が新たに線引きし直されました。
背景と危機の醸成:スチュアート朝の宗教・財政・統治
ジェームズ1世(在位1603–1625年)は、国教会の枠内でピューリタンの一部要求に応じつつも、王権神授説を強調しました。続くチャールズ1世(在位1625–1649年)は、宮廷礼拝の整飾化を進めた大主教ロート(ウィリアム・ロード)を重用し、監督制(主教制)と典礼の統一を押し進めます。これはピューリタンの反発を招き、宗教問題が政治化しました。財政面では、議会の同意なしに「強制借上げ」「森林法違反罰金」「船舶税(Ship Money)」などの非常措置で歳入を確保し、1628年の権利の請願に抗して1629年から「親政」(議会停止)に入りました。
宗教の火種は隣接諸王国にも波及します。1637年、チャールズはスコットランドに礼拝書を押し付け、暴動と盟約派(コヴナンター)の結集を招きました。1639–1640年の主教戦争で王軍は劣勢となり、戦費逼迫から議会を再召集します。1640年4月の「短期議会」はすぐ解散されましたが、11月の「長期議会」は王権の恣意的統治を是正すべく、恒常議会法(トリエニアル・アクト)による定期召集の義務化、星室庁・高等宗教裁判所の廃止、ストラフォード伯(トマス・ウェントワース)の処刑など、矢継ぎ早に制度改革を断行しました。
1641年のアイルランド反乱は、宗派対立と土地問題の爆発であり、軍の指揮権を誰が握るかという根源的争点を突きつけます。同年末の「大抗議文(Grand Remonstrance)」は、王の宗教政策・側近政治を糾弾する長大な決議で、議会内部をも二分しました。1642年1月、王の五議員逮捕未遂事件を機に、ロンドンの世論は王に背を向け、同年夏、王はノッティンガムで軍旗を掲げ、内戦が始まります。
内戦の展開と王政廃止:ニューモデル軍と「王なくして共和国」
第一次内戦(1642–1646年)は、王党派(キャヴァリエ)と議会派(ラウンドヘッド)の戦いでした。初戦エッジヒルは決着せず、地方では都市・領主・宗派が絡む複雑な勢力図となります。議会派は1643年、盟約派スコットランドと盟約(ソレムン・リーグ)を結んで支援を得、軍の統一・刷新に踏み切りました。1645年、「辞職条例(Self-Denying Ordinance)」で政治家の軍指揮兼任を制限し、フェアファクス総司令官・オリヴァー・クロムウェルらが率いる常備・機動・規律を重んじるニューモデル軍を創設します。1645年のネイズビー会戦で議会派が決定的勝利を収め、1646年に王は降伏しました。
講和をめぐっては、長老派(安定志向)と独立派(信教の自由を重視)・軍の急進派が対立します。ニューモデル軍内部では、兵士・市民の政治的発言を求めるレヴェラー派が台頭し、1647年のパトニー討論で選挙権拡大や法の前の平等が議論されました。1648年に第二次内戦が起こると、軍は王との妥協を拒み、プライドの浄化(軍による議会からの追放)を強行します。残留議会(ランプ)は、国王を「国家への戦争を企てた」罪で裁き、1649年1月、チャールズ1世は処刑されました。王政と上院は廃止され、イングランド共和国(コモンウェルス)が宣言されます。
共和政はただちに戦争に直面しました。1649年、クロムウェルはアイルランドへ渡り、反乱鎮圧と征服を進めます。ドロヘダやウェックスフォードでの過酷な制圧は、後世に強い記憶を残しました。続いてスコットランドで国王派がチャールズ2世を擁立すると、ニューモデル軍は1651年ウスター会戦でこれを破り、三王国の再統合を軍事的に実現します。同年の航海法(Navigation Act)は、海上覇権と通商政策を結びつける一歩で、英蘭戦争の導火線となりました。
共和政から護国卿体制へ:統治の実験と宗教・外交の再編
共和政前期は、ランプ議会が国有化・司法改革・教会制度調整・財政再建などを推進しましたが、利害調整の遅滞が不満を招きます。1653年、軍はランプを解散させ、短命の小議会(ベアボーンズ議会)を経て、「統治章典(Instrument of Government)」が制定されました。これは近世イングランド初の成文憲法で、護国卿(Lord Protector)に行政権・軍指揮権を付与し、議会と枢密院的評議会の権限を分有させる枠組みでした。オリヴァー・クロムウェルは護国卿に就任し、宗教では国教会に代わる包括的教職監督(トライアーズ/エジェクターズ)を設けつつ、独立派の集会に相当の自由を与え、ユダヤ人の再受容など限定的寛容策を進めます(ただしカトリックと強硬王党には厳格でした)。
国内統治では、1655年に英国内を十二区域に分けて軍管区制(メジャー・ジェネラルズ)を敷き、治安と道徳規律の統制を強めましたが、納税者やジェントリの反発は大きく、長期化しませんでした。財政を支えるため、保護関税・消費税・地租を組み合わせ、議会との協調を模索します。1657年の「謙遜なる請願と助言」は、二院制復活や国王称号の打診を含む妥協案で、クロムウェルは王冠受諾を拒否しつつ制度の一部を受け入れました。
対外政策では、1654年に第一次英蘭戦争を講和し、1655年に対スペイン戦(西インド遠征)に踏み切ってジャマイカを占領、1658年にはフランスとの同盟でダンケルクを獲得するなど、海上帝国の足場を広げました。これらは海軍常備化と財政国家化を促し、のちの大英帝国の原型となります。しかし、1658年にオリヴァーが没すると体制は急速に不安定化し、1659年には息子リチャードの政権が崩壊、軍・議会・派閥の錯綜が収拾不能となりました。
1660年、スコットランド駐留軍の総司令モンクがロンドンへ進軍して調停に乗り出し、チャールズ2世の帰還条件を示したブレダ宣言を受け入れて、王政復古が実現します。ここでの「復古」は旧体制の全面復元ではなく、議会財政と海軍力の基盤は維持され、宗教と政治の折衷が試みられました。
王政復古から名誉革命へ:宗教と統治の再線引き
王政復古後の初期議会は、王党色の強い立法で国教会を再建し、条例(いわゆるクラレンドン法典)によって礼拝様式の統一と非国教徒の集会規制を進めました(会社法1661、統一法1662、会堂禁止法1664、五マイル法1665など)。一方で、航海法の再確認、海軍の常備化、戦時財政の整備は継続し、国家の「海軍国家」化は逆行しませんでした。
1670年代後半には、王弟ジェームズ(のちのジェームズ2世)のカトリック信仰をめぐって、亡命イエズス会士タイタス・オーツの流言(ポピッシュ・プロット)や官職就任に国教徒限定を課す審査法(Test Acts)が生まれ、議会政治は王太子排除をめぐる「排除危機」で二大党派(ホイッグ/トーリ)が形成されます。1685年に即位したジェームズ2世は、常備軍と王権特権(停止権・免除権)を駆使し、カトリック寛容を王権命令で押し進め、大学・自治体の人事介入や宗教法廷の復活的機関設置で反発を招きました。1687/88年の「寛容宣言」を聖職者に朗読させる命令は、七主教の抗命・裁判で王権への信頼を失墜させます。
同年6月に男子王子が誕生し、カトリック王朝の持続が現実味を帯びると、複数党派の有力者がオランダ総督ウィレム(ジェームズの婿)に招請状を発し、ウィレムは艦隊を率いて上陸しました。ジェームズは軍の崩壊と離反の中でフランスへ逃れ、実質的流血の少ない「名誉革命」が成立します。1689年、議会は「権利の宣言」に基づく「権利章典(Bill of Rights)」を制定し、王権による法律停止・課税・常備軍維持の恣意を禁じ、議会の自由選挙・言論の自由などの原則を明文化しました。同年の「寛容法(Toleration Act)」は国教徒以外のプロテスタント礼拝を一定認可しつつ、国教会の優位は維持します。以後、年次的軍制御(Mutiny Act)、財政の議会統制、1694年のトリエニアル・アクト(原則3年ごとの議会)、1694年のイングランド銀行設立と国債制度の整備が進み、王権と議会が相互依存する「財政=軍事国家」としての枠組みが確立しました。
この制度定着は、スコットランドの権利宣言(Claim of Right, 1689)、アイルランドのウィリアマイト戦争(1689–91)とも連動し、ブリテン三王国それぞれの宗教・土地・統治の秩序を再配置しました。17世紀の「革命」は、宗教内戦から始まり、成文と慣習の交差で王権と議会の境界を引き直し、海軍・財政・市場の装置を恒常化させた長い連鎖として理解されます。
用語上の注意として、第一に「ピューリタン革命」という表現は宗教要因を強調しますが、都市と地方の利害、議会税制、軍の職能化、海運と通商の制度化といった世俗的文脈をあわせて捉える必要があります。第二に、「名誉革命」を含むか否かで学説は揺れますが、教育上は〈内戦・共和政〉と〈復古・名誉革命〉を連続した過程として把握すると、制度の変化が立体的に見えます。第三に、地域差—ロンドンと地方、イングランド・スコットランド・アイルランド—を区別すると、同時代人の体験の濃淡が読み取れます。以上を踏まえ、イギリス革命は単独の蜂起ではなく、複数の危機と妥協、戦争と制度化が織りなす「長い17世紀」の核心現象として理解されます。

