韋后(いこう、?—710)は、唐の中宗(李顕)の皇后であり、705年の中宗復位後に朝廷の実権を握り、710年には中宗崩御後の幼帝(殤帝・李重茂)に代わって臨朝称制した人物です。彼女は周(武周)を開いた則天武后(武則天、在位690—705)の後を受けて、女性が最高権力の中枢に立つという前例のただ中で台頭しました。韋后は、皇后・皇太后としての地位を活用して外戚勢力や后妃勢力を結集し、政治の主導権を掌握しましたが、娘の安楽公主(李裹児)を皇太女に立てようとする動きや、売官・収賄と結び付いた人事操作、武氏一族の残存勢力との提携などが反発を招き、710年の「唐隆の変」で粛清されました。彼女の興亡は、唐の皇統が再編されて玄宗(李隆基)の治世へと接続していく過程で、后妃・外戚・宗室・官僚勢力のせめぎ合いがどのように展開したかを示す具体的な事例です。韋后の評価は、伝統史書に見られる道徳的糾弾の色合いと、近年の政治社会史的再評価との間で揺れており、史料の性格を踏まえた読み解きが必要とされます。
出自と前史――中宗の廃立・復位と韋后の台頭
韋后は、若くして唐の皇太子李顕(のちの中宗)に入内し、684年に中宗が即位すると皇后に立てられました。しかし、中宗は即位早々、独自の人事や外戚の登用を図って則天武后の意向に反し、わずか在位数十日で廃されて廬陵王に降格されました。韋后は夫とともに地方に退き、長い歳月を政治の第一線から遠ざかります。この段階で彼女の政治的行動が詳細に伝わるわけではありませんが、退隠期の経験は、宗室・外戚・武氏一族・宦官・官僚の複雑な力学を肌で学ぶ契機となりました。
則天武后が690年に自ら帝号を称して周(武周)を建てると、唐の宗室は抑圧される一方、武氏近親や新興の能臣が政界を主導しました。705年、張柬之らが主導したクーデターで則天が退位に追い込まれると、李顕(中宗)が復位します。この復位局面は、武氏勢力の一掃を意図しながらも、現実には彼らの一部を利用し、旧来の唐宗室・重臣と折衝する不安定な権力配分を伴いました。こうした千鳥足の権力再編のなかで、韋后は皇后としての地位を梃子に官人・外戚・后妃勢力を束ね、宮廷政治の中心に進出していきます。
復位直後の中宗政権は、政治の主導権をめぐって複数の勢力が角逐する場でした。韋后は、武后の甥にあたる武三思、さらに文才と政務能力で頭角を現した上官婉児などと連携し、皇帝の側近・詔勅起草・人事に強い影響力を持つようになります。上官婉児は武后時代から詔勅・制詔の起草を担った才媛で、復位後も宮廷文書と人事の「ハブ」として機能しました。韋后は、彼女を通じて詔勅の文言や人事の推薦・排除に関与し、なお残存する武氏系の人脈とも取引しながら、自派の基盤を厚くしていきました。
一方で、韋后の娘・安楽公主は、母と歩調を合わせて宮廷での影響力を拡大しました。安楽公主は父である中宗への寵愛が厚く、外戚ネットワークと官人層の双方に「将来の継承図」を見せる存在となりました。韋后・安楽公主の母娘は、唐の皇統継承を巡る制度の曖昧さと、武后によって一度は打ち破られた「男子継承原理」の揺らぎを背景に、次世代の皇位継承を自派の掌中に収める構想を膨らませていきます。
権力運営の実像――外戚・后妃・官僚の連合とその軋轢
中宗復位後の政務は、名目上は皇帝主導であるものの、実際には韋后が皇后として強い裁可権を行使し、官僚機構の人事・昇進・左遷に影響を与えました。宮中の詔勅は上官婉児の手で整えられ、彼女と韋后の意思疎通の速さは、朝堂での意思決定を事実上「后妃—女官—近臣」ラインに収斂させました。韋后は、反対派や警戒すべき宗室に対しては距離を置き、賛同者には恩典・栄爵を与えることで求心力を維持しました。これには、当時広く見られた売官・賄賂の慣行が影のように張り付き、官僚層の不満と倫理的反感を増幅させる結果ともなりました。
権力の分配は、武氏一族の残存勢力との微妙な協調・牽制の上に成り立っていました。武三思は、唐にとっては「先帝の親族」という厄介な存在でありながら、行政と軍事の経験を持つ実力者でした。韋后にとって彼は、武后時代の官僚ネットワークを活用する「即効薬」である一方、いつ自派を凌駕するか知れない「劇薬」でもありました。結果として、宮廷は「韋—安楽公主—武三思—上官婉児」の複合連合を軸にした一種の協働体制をとりますが、そこには宗室や旧唐系の功臣への警戒、異論排除の硬直性が潜んでいました。
韋后の治世で特に注目されるのは、娘の安楽公主を皇太女(皇太子に相当)に立てようとした動きです。これは唐の継承原理からすれば異例で、則天武后の前例があるにせよ、宗室・官僚層にとっては皇統秩序の再破壊に映りました。安楽公主は、財と寵愛を背景に官職の付与や人事介入を行い、宮廷の利害調整を短絡的にカネと縁故で処理する印象を強めました。こうした動きは、宗室の有力者、とりわけ睿宗(李旦)の子であり若いながら政治感覚に優れた李隆基(後の玄宗)と、その後ろ盾である太平公主の警戒心を高めることになりました。
加えて、韋后の政治は「女性専横」と断罪されがちですが、実際には彼女の統治を支えたのは男性官僚・外戚・宦官のネットワークでもありました。すなわち、ジェンダーに還元できない「宮廷連合政権」の性格があり、そこでの資源分配が不公正とみなされた時、批判は一挙に「皇后個人の徳の欠如」へと集中しやすかったのです。史書に見られる韋后への厳しい言辞の一部は、この構図を反映しています。
710年の唐隆の変――中宗崩御、臨朝称制、そして粛清
710年、政局は急転します。まず、中宗が急死しました。伝統史書は、韋后が中宗に毒を盛ったと伝えますが、これは同時代の政治宣伝や後世の道徳的叙述の影響を受けた可能性があるため、近年の研究は一定の留保を置いています。いずれにせよ、中宗の死によって宮廷の権力空白が生じると、韋后は皇太后として幼い李重茂(殤帝)を即位させ、自らは臨朝称制し、詔勅を太后名義で発する体制を整えました。これは事実上の摂政です。
韋后と安楽公主は、新体制の下でも人事刷新を進め、反対派の排除と自派の固めに動きました。しかし、宗室の中核である睿宗系統――太平公主と李隆基――は、この動きを唐の皇統の私物化と受け止め、先手を打つ必要を感じます。李隆基は禁軍・宦官・近臣の一部と通じ、太平公主の政治力を後背に受けて、同年に宮廷クーデターを敢行しました。これが「唐隆の変」です。クーデターは短時間で成功し、韋后・安楽公主・武三思、さらに上官婉児ら、韋后体制の中枢人物が殺害され、体制は瓦解しました。
クーデター後、皇位は一旦、李隆基の父である睿宗に戻されます。睿宗は再即位し、以後の政務は太平公主と李隆基の二頭体制のもとで進みますが、最終的には712—713年の権力闘争を経て李隆基が単独の主導権を確立し、玄宗として即位します。こうして、韋后の台頭と没落は、唐の皇統が「武周—中宗復位—韋后臨朝—睿宗再即位—玄宗即位」という複雑な経路を辿るなかの大きな転回点として機能しました。玄宗の開元の治(712—741)へ向かう整序過程で、后妃・外戚主導の政体が否定的に記憶され、制度面でも後宮・外戚の政治関与を抑制する規範意識が強まりました。
唐隆の変は、単なる「宮廷内の血なまぐさい事件」ではなく、唐の政治を支える制度群――皇位継承、禁軍統制、詔勅起草権、人事権、財源配分――をめぐる根本的な争奪戦でした。韋后側は后妃ネットワークと文書権限、人事操作を強みとし、李隆基側は禁軍と宗室の正統性、太平公主の宮廷工作力を武器に対抗しました。どちらも、女性の力が重要な役割を果たしています。太平公主は、韋后と同じく女性でありながら、最終局面で李隆基と連携し、対抗する女性権力を打倒する主役となりました。このことは、当時の政治文化において女性の政治参加が例外的「逸脱」ではなく、構造化された選択肢の一つであったことを示唆します。
評価と史料――「悪后」像の淵源と再検討の視角
韋后は、伝統的な史書――『旧唐書』『新唐書』『資治通鑑』など――で、売官・貪淫・専横の象徴として描かれることが多く、「悪后」の典型とされてきました。これは、玄宗政権下で編まれた史叙が、前政権の打倒を正当化する道徳的物語を必要とした事情と無関係ではありません。中宗の急死を「毒殺」と断定的に描く叙述は、その最たる例で、政治的勝者の視点が色濃く反映されています。もちろん、韋后政権に収賄・売官が存在した可能性、安楽公主の越権、武三思らとの不透明な関係は否定できませんが、同様の弊害は唐の他期でも見られ、そのすべてを韋后個人の徳性欠如に帰すのは単純化の恐れがあります。
近年の政治社会史研究は、韋后の台頭を、武周期に生じた官僚層の再編、后妃・女官の職能拡大、皇帝権の文書統制(詔勅起草と審査)の制度化といった大きな流れのなかで位置づけます。則天武后が導入し育てた人材・制度は、彼女の退位後も消えることなく、宮廷の意思決定を支える「技術」として存続しました。韋后は、それらを用いて自派の権力を築いた点で、武周的制度遺産の継承者でもありました。彼女の失敗は、制度の運用を特定派閥の利益と短期的継承構想(安楽公主の皇太女擁立)に過度に寄せ、宗室の広範な合意形成を怠った点に求められます。
また、ジェンダーの観点からも再検討が進みます。韋后の評判は、女性が権力を握ること自体への規範的反発と結びつきやすく、同種の行為が男性政治家に対しては「現実的」「老練」と評価される一方で、女性政治家には「奸佞」「放縦」として返ってくるバイアスが史料の文体に埋め込まれています。これは、太平公主に対する評価の揺れとも重なります。韋后像を立体的に理解するには、当時の制度・ネットワーク・情報流通(書簡・詔勅・上奏)の実務面に光を当て、彼女の政策選好と派閥関係を具体的に復元する作業が必要です。
さらに、韋后の時期は、唐の財政と軍事の運営にも転換点を孕んでいました。武周期に強化された中央集権的課税・人事制度を、唐がどのように再吸収するかという課題の最中で、宮廷は財源配分をめぐる競合を激化させました。韋后政権が人事・恩賜を通じて求心力を維持しようとしたことは理解できる一方、それが財政規律や軍事指揮系統の乱れと結びつきやすい危険を生んだことも確かです。唐隆の変は、こうした制度的緊張の爆発点でもありました。
総じて、韋后は「武周の影を引き継いだ唐の皇后」として、制度の継承と派閥政治の現実のあわいに立つ人物でした。彼女の政治は、家産的利害と国家的秩序の調整に失敗し、短命に終わりましたが、そこで見えるのは、唐という巨大国家のガバナンスが、皇帝個人の資質だけでなく、后妃・外戚・宗室・官僚・女官・禁軍といった複数の制度的アクターの相互作用で駆動されていたという事実です。韋后の時代を鍵穴のように覗くことで、玄宗の「開元の治」に先立つ大再編の論理、とりわけ「誰が詔勅を書くのか」「誰が禁軍を動かすのか」「誰が皇位継承の議題設定をするのか」という、実務の細部がもつ政治性が輪郭を現します。韋后の興亡は、その輪郭をもっとも鮮明に示した事件列として理解できるのです。

