イスマーイール派(イスマーイーリー派、Ismāʿīlī Islam)は、イスラームのシーア派に属する宗教伝統で、第6代イマーム・ジャアファル・サーディク没後の継承問題を契機に形成された分派を指します。中心理念は「生ける導師(イマーム)」への忠誠(ワラーヤ)と、啓典や法の内的意味(バーティン)を汲み取る解釈(タウィール)を重んずることにあります。9〜10世紀にかけて宣教網(ダアワ)を整え、10世紀末には北アフリカ・エジプトにファーティマ朝を樹立してカリフ位を主張しました。11世紀末の継承をめぐる分裂以降、ニザール派(のち近世・近現代のアーガー・ハーン系)とムスタアリー=タイービー派(イエメン・西インド洋・グジャラートを中心とするボーフラ諸派)という二大潮流が現在まで続いています。初期の急進運動カルマト派や、イェメン起源で独自の信仰体系をもつドルーズ派など、周縁的・派生的現象も含めて、イスマーイール派はイスラーム文明の多様性を体現する大きな枝の一つです。
定義と成立――継承問題、初期宣教、内面的解釈の枠組み
イスマーイール派の起点は、8世紀後半にさかのぼります。シーア派の学者・指導者である第6代イマーム、ジャアファル・サーディク(ジャアファル・アル=サーディク)が没すると、後継者をめぐって見解が分かれました。主流の十二イマーム派はムーサー・アル=カーズィムを第7代と認めましたが、別の集団は長子イスマーイール、もしくはその子ムハンマド・ブン・イスマーイールを正統な継承者とみなし、その系譜に「生ける導師(イマーム)」の連続性を認めました。この系譜団体がのちのイスマーイール派であり、当初は迫害と政治的緊張を避けるために地下的・半秘密的に活動し、教義と組織を磨きました。
初期イスマーイール派の強みは、宣教(ダアワ)の専門化と組織化にありました。各地に布置された宣教師(ダーイー)が、地方の宗教・社会状況に応じて教えを説き、求心力を高めていきます。組織には階梯(フドゥード)と呼ばれる役職秩序があり、イマームの代理たる証(フッジャ)、首席宣教師(ダーイー・アル=ドゥアート)、地域のダーイー、補佐役(マズウン)、初心者(ムスタジーブ)という重層構造が、学知・裁断・財政・布教を担いました。布教は合理主義的議論と象徴解釈を重んじ、個々人の理解に応じて外面的な律法(ザーヒル)から内面的真理(バーティン)へ導く段階的指導が特色でした。
思想面では、コーランと預言者伝承の奥義を読み解くタウィール(内的解釈)が重視され、宇宙観・歴史観には新プラトン主義やグノーシス的要素を折り込んだ体系が見られます。世界は発出と帰還の階層秩序を有し、歴史は啓示と導師の周期(ダウル)を重ねるという理解のもと、イマームは啓示の言葉の内面を解き明かす唯一の鍵とされました。他方、政治社会の現実に対しては、隠忍(タキーヤ、信仰の秘匿)を戦略的に用いて共同体を保護し、時に急進的変革を志向する潮流も生みました。バフレーン・東アラビア一帯で台頭したカルマト派は、その急進的変種であり、朝貢体系や巡礼に挑戦的な行動をとって周辺社会を震撼させました。
こうした多様性にもかかわらず、イスマーイール派の中核は一貫してイマーム論にあります。イマームは単なる政治指導者ではなく、神学的・宇宙論的秩序の中心点であり、信者の内的成長と共同体の外的秩序を同時に導く存在とされました。この理念が、のちに国家を持つファーティマ朝と、国家を持たず山岳要塞や商業ネットワークで生き延びた諸共同体の双方に、強固な結束と柔軟な適応力を与えました。
ファーティマ朝と宣教ネットワーク――国家・学知・交易が結ぶ広域世界
909年、北アフリカのイフリーキヤ(現チュニジア周辺)でイスマーイール派の一系統が王朝を樹立し、やがてエジプトを征服して首都カイロ(アル=カーイラ)を築きました。これがファーティマ朝です。王朝はアリー家の子孫(預言者ムハンマドの娘ファーティマの末裔)を称してカリフ位を主張し、アッバース朝と並び立つもう一つの普遍王権を構想しました。建国後、王朝はモスク・神学校・図書館・病院などの公共施設を整備し、学知と福祉を政治正統性の基礎に据えました。カイロに創建されたモスクと学舎は、後世に大学的性格を帯び、イスラーム世界の知的交流の結節点となります。
ファーティマ朝の支えは、巧緻な宣教網と交易ネットワークでした。首席宣教師のもとに地方のダーイーが配され、イフリーキヤ、マグリブ、エジプト、シリア、イエメン、イラク、イラン、さらにインド洋世界へと信徒と学知が循環しました。イエメンのダーイーは高地の有力氏族と結び、紅海・アラビア海の海商と連動してグジャラート・シンド・デカンに到達します。商人は絹・綿布・香辛料・金銀を扱い、キャラバンサライや商館(サラーイ)を媒介に信仰と信用が結びつきました。こうして、宗教組織と商業の結節が各地の町に小さな「イスマーイール派的公共圏」を形成しました。
思想・教育では、哲学・論理学・天文学・医学・数学が王権の庇護を受け、神学と自然学の連携が図られました。象徴解釈の技法は、法学と倫理に柔らかな応用力を与え、共同体内部の裁断と外部社会との交渉を滑らかにしました。他方、マシュリク(東方)ではカルマト派の急進運動が異彩を放ち、朝貢・巡礼・貨幣の秩序を撹乱しましたが、ファーティマ朝の中枢とは距離を保つ関係が続きました。イスマーイール派は単一ではなく、中心と周縁、穏健と急進が緊張を孕みながら並存するダイナミズムこそが、広域的存続の原動力でした。
11世紀末、カリフ・アル=ムスタンシルの没後、王位継承をめぐって決定的な分裂が生じます。宰相アフダルの後押しで弟のムスタアリーが擁立されると、長子ニザールを支持した一派がこれに反発し、イスマーイール派はニザール派とムスタアリー派に分かれました。以後、前者はイラン・シリアの山岳要塞網と学知の共同体として、後者はエジプト・イエメン・インド洋縁辺の商業都市を足場に、別々の道を歩むことになります。
ニザール派の展開――アラムート、思想実験、そして近現代の共同体
ニザール派は、イラン北部の山岳地帯に要塞を築いた学匠ハッサン・サッバーフの運動に接続して成長しました。彼は11世紀末にアラムート城を拠点化し、周辺の城郭群を連鎖させて自立的な共同体を形成します。外部の史料では、彼らは「暗殺教団」などと呼ばれ、標的暗殺の印象が強調されがちですが、実像はより立体的です。ニザール派は、地政学的に圧迫される環境で最小の犠牲で最大の抑止を得るため、要人への限定的攻撃を軍事・外交の戦術に組み込みましたが、日常は教育・写本・法の調停・農業・水利・交易の運営にあり、山中の城は学知と自給の複合体でした。
思想史の面では、1164年にアラムートで宣言された「復活(キヤーマ)」が特筆されます。これは、イマームの現前によって内的真理が顕現し、律法の外形への拘泥から解放されるという象徴的転回を意味し、儀礼の解釈と共同体の自己理解に大胆な更新を促しました。もっとも、外社会との関係では柔軟な対応が必要で、共同体はタキーヤと実務の調停の中で生存戦略を研ぎ澄ませました。13世紀半ば、モンゴル帝国の遠征でアラムートは陥落し、要塞網は破壊されますが、ニザール派はイラン東部、高地バダフシャン(パミール)、アフガニスタンを経由してインド西岸へと知・人・ネットワークを移し、交易と学知の小共同体として生き延びました。
近世には、インド西部の港市に定着したコージャ(Khoja)と呼ばれる商人・職人層が、ニザール派の重要な基盤となります。彼らはペルシア語・グジャラーティー語・シンド語を操り、インド洋交易の仲介者として活躍しました。19世紀以降、ニザール派のイマームは「アーガー・ハーン」の尊称で知られ、近代教育・福祉・女性教育・医療・災害復興などに重きを置く共同体運営へと舵を切りました。今日、多くのニザール派共同体は南アジア、中央アジア(タジキスタン・アフガニスタン)、中東、東アフリカ、欧米に分布し、ジャマートハーナと呼ばれる会堂を中心に信仰実践と地域貢献を組み合わせるスタイルを確立しています。国境をまたぐディアスポラ性は、初期の宣教網と交易網の記憶を現代に継承するものです。
文化・社会の側面では、ニザール派は宗教詩(ギンアン)や教育文書、近代以降の開発プログラムを通じて、内面の修養と世俗的学知の両立を強調してきました。タウィールの実践は、現代世界の科学・芸術・倫理と対話する柔軟な知の枠組みとして生き続け、共同体の多言語性・多文化性を支える基盤となっています。
ムスタアリー=タイービー派の展開――イエメン高地からインド洋商都へ
ムスタアリー派は、カイロの王統を継承したのち、イエメンの高地で強固な宗教行政を築きました。12世紀初頭、王統の断絶と幼いイマームの潜行(ガイバ)をめぐる状況の中で、指導権は「絶対代理(ダーイー・アル=ムトラク)」へ移譲されます。ここから、タイービー派と呼ばれる大潮流が生まれ、イエメンの山岳地帯を拠点としつつ、海上交易の中継拠点を経て、グジャラートやデカンの港市に共同体を形成しました。彼らは一般に「ボーフラ(Bohra)」の名で知られ、商業・金融・工芸のネットワークを通じて繁栄します。
タイービー派の宗教機構は、潜行中のイマームに代わってダーイー・アル=ムトラク(絶対代理)が最高権威を担い、その下にマズウン(許可を受けた副官)とムカッスィル(教導官)が続く三層構造が特徴です。イエメンの山岳要塞や町には神学校・文庫・施食所が設けられ、グジャラートの共同体は都市のモスク・会館・市場・住区を結ぶ緊密な社会組織を整えました。祈祷や祝祭はアラビア語・グジャラート語・ウルドゥー語が交錯し、インド洋世界の文化混成を映し出します。
16世紀末以降、指導層と地域事情の違いから、タイービー派の内部に複数の分派(ダウーディー・ボーフラ、スライマーニー・ボーフラ、アラヴィー・ボーフラなど)が生じました。いずれも基本の教義と階梯を共有しつつ、指導者系譜と地域基盤を異にします。近現代には学校・病院・慈善信託の整備が進み、伝統的商業ネットワークは産業・専門職へと拡張されました。都市化とディアスポラ化の進行に応じて、礼拝・教育・家族生活の規範も調整が進み、地域社会との協働や法制度との調和を図る実務感覚が磨かれています。
ムスタアリー=タイービー派の文化は、幾何学文と花唐草の装飾、書法、織物、宝飾、建築意匠においてイスラーム世界の美の語彙を豊かに継承し、婚礼・葬祭・慈善の実践は共同体の結束を支えてきました。内的解釈の伝統は、日常の倫理(商取引の信義、学びの勤勉さ、共同体奉仕)を宗教的修養と結びつけ、信仰が世俗生活の質を高めるという理念を共有しています。
以上のように、イスマーイール派は、イマーム論を核に、国家形成から学知・交易・共同体運営に至るまで、イスラーム史の多層に関与してきました。ファーティマ朝の都カイロとイエメン高地、ペルシアの山岳要塞とインド洋の港市、中央アジアの高地と東アフリカの商都という、離れた地理が教義と組織で結ばれた点に、この伝統の独自性が見て取れます。歴史上の急進と穏健の揺れ、分裂と再編の連続にもかかわらず、内面的解釈と生ける導師への忠誠という核は変わらず、現代の地域社会と対話しながら生を更新し続けているのです。

