犬戎 – 世界史用語集

犬戎(けんじゅう/けんじゅく、拼音:Quǎnróng)は、中国古代において「戎」と総称された西方・北西方の遊牧・半遊牧諸集団のうち、とくに周王朝の西都圏(鎬京)に影響を与えた勢力を指す呼称です。彼らは前8世紀末、周幽王の時代に関中へ侵入し、驪山の麓で幽王を戦死させ、西周の滅亡と東遷(前770)を引き起こしたことで最もよく知られます。ただし「犬戎」は同一血統の単一民族を意味するわけではなく、渭水・涇水流域から隴東・河套・オルドスにかけて点在した複数の氏族連合、ないし周辺の羌・狄・胡とも通婚・連合した可変的な政治共同体を指す外名です。古典史書はしばしば夷・蛮・戎・狄という方位カテゴリーで周辺集団を表現しますが、その語は文化的偏見を帯び、また当時の多言語・多生業の現実を単純化しています。犬戎を理解する鍵は、周辺—中原間の攻防や交易、婚姻・盟約といった往還のダイナミクス、そして考古学が近年明らかにした物質文化の交差にあります。

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名称・居住圏・史料の性格:犬戎とは誰か

「戎」は古代中国文献で西方の異族一般を指す広義のカテゴリーで、「犬戎」はその中の特定集団(または同盟)を区別する呼び名です。「犬」の字はしばしば侮称と解されますが、トーテム(犬・狼)や自称の音写、犬を重んじる葬制・儀礼の痕跡と関連づける説もあり、学界で定説はありません。史料上の初出は西周後期の金文や編年記録で、渭水上流・涇水上流・隴東の山間—盆地帯を中心とする遊牧・狩猟・牧農混合の生活圏が指し示されます。彼らは馬・羊を基盤に、山麓の畑作や渓谷の小規模灌漑を合わせ持ち、季節移動に応じて住まいと放牧地を転換しました。

史料は『史記・周本紀』『竹書紀年』『逸周書』、周代の青銅器銘文(金文)などが柱で、春秋の諸編年や諸子散文にも断片的言及が見られます。これらは中原の政権から見た対外記事であるため、敵対時には誇張・悪逆化の表現が強まり、通好期には朝貢・賜与の語りへ変化するなど、政治的文脈の影響が大きいです。犬戎を巡る民族起源論では、チベット・ビルマ語派(羌系)に近いとする説、イラン系スキタイ文化との接触・混淆を強調する説、テュルク系の初期層との連続を示唆する説などが提示されますが、実態は地域ごとの異質要素の混合体であり、一義的に括るのは困難です。

居住圏については、甘粛東部(隴東)—陝西北部—オルドス台地にかけての台地・河谷が中核で、周の鎬京(長安盆地)と山稜一つ隔てた近接圏に位置しました。周は本来、西方の戎・羌と長期的に通婚・盟約・交易を重ねており、武王・成王期には辺境支配の協力者として戎族を封じた事例もあります。しかし、西周後期に入ると、王権の財政・軍事が弱体化し、辺境政策のバランスが崩れ、犬戎との緊張は高まりました。

西周滅亡の文脈:幽王・褒姒・烽火と驪山の戦い

西周末の政治危機は、王位継承と后妃・諸侯関係の歪みに端を発します。幽王は申侯の娘(申后)との間の太子宜臼を廃し、褒姒を寵愛して新たに伯服(伯盤)を立てようとしました。この処置に憤った申侯は、娘婿の面子と自国の安全を守るため、犬戎の諸部と結び、さらに周辺諸国の不満勢力を取り込んで反王権連合を形成します。伝説的逸話として知られる「烽火戲諸侯」(虚偽の狼煙で諸侯を弄んだため救援が来なくなった)も、この危機の物語化の一部です。史実の細部は論争的ながら、王権が辺境防衛の信義と動員ネットワークを損なっていたこと、救援体制が機能しなかったことは確かです。

前771年、犬戎連合は関中へ侵入し、鎬京の東南、驪山近辺で幽王を討ち取り(「幽王死於驪山下」)、王畿は壊滅します。犬戎は王室の宝物を掠奪し、多数の俘虜を捕えたと記されます(九鼎の奪取については、史料間で記述が揺れるため確言できません)。王太子宜臼は申侯らの支援で洛邑(成周)へ迎えられ平王として即位、翌前770年には都を東の洛邑へ遷し、東周が始まります。すなわち、犬戎の侵攻は西周体制の終止符であり、春秋時代の起点を画する事件でした。

この事件は、単なる外敵侵入というより、周辺社会との関係管理に失敗した王権の崩壊として理解すべきです。周は本来、封建的ネットワーク(諸侯の分封・姻戚・盟約)と、祭祀・軍役・財賦の秩序で帝国を維持していました。ところが、地方諸侯の自立化、王畿の財政逼迫、宮廷内の党争が重なり、辺境の戎との交易・賜与の回路も滞ります。そこへ、申侯の敵対と犬戎の軍事力が結びつき、王畿の脆弱性が露呈したのです。したがって、犬戎は「西周を滅ぼした原因」ではなく、「崩れつつある王権に決定打を与えた触媒」と捉えられます。

物質文化と考古学:馬家塬・オルドス美術・遊牧の技術

犬戎に関連づけられる考古学遺跡は、甘粛張家川の馬家塬(馬家塬墓地)をはじめ、隴東から陝北・オルドス台地にかけて点在します。これらの墓葬からは、動物文様(金・銅・鉄)の装飾具、馬具(轡・鏡板・鐙の前身に当たる部材)、三翼矢や有棱鏃、短剣・匕首、腰帯鉤(帯鉤)など、いわゆるオルドス式動物文様に連なる遺物が多く出土します。猛禽が獣を襲う図像、鹿・羊・虎・狼などの対獣文、渦巻きやS字曲線の抽象化は、スキタイ—サカ文化圏とも共通点が指摘され、草原—農耕境界帯に広がる芸術様式の交差点に位置づけられます。

同時に、周系青銅器の器形・銘文を取り入れた遺物や、周式の車馬器(輻の多い戦車輪、軸金具)が混在し、交易・略奪・贈与・俘虜化など多様な接触様式を反映しています。馬家塬では豪華な金製装身具・玉飾とともに、人骨・馬骨の配置、殉葬の痕跡が観察され、首長層の権威と騎馬戦技の重視が推測されます。騎乗・弓騎・軽装機動は、渭水盆地の城塞・耕地を攪乱するのに適し、周系の重装車戦(戦車主体)に対する戦術的優位を一時的に生みました。

生活技術としては、遊牧の移動住居(テント的構造)、毛織物、皮革加工、乾燥肉の保存、塩・馬交換の市(境市)などがあり、周辺諸侯は塩と馬の入手に戎との関係を不可欠としました。犬戎は単なる戦闘集団ではなく、交易の節点でもあり、境界に市場と婚姻を介したネットワークを築くことで、生業の安定と軍事の補完を図ったと考えられます。

春秋戦国への連続:同化・征服・利用の三様と境界の再編

西周滅亡後、犬戎の諸部は関中東縁・隴東・河套へ退き、春秋期には「戎」「西戎」「北戎」などと呼ばれ続けます。その後の運命は大きく三つに分かれました。第一は同化で、周辺諸侯国(特に秦・晋・鄭など)への臣従・帰化・移住を通じ、姓氏・服制・礼制を受容しながら、軍事・牧畜の技能を提供する道です。族長が列国の卿や辺将として取り立てられた例もあり、境界地帯の武装化に貢献しました。

第二は征服・駆逐で、列国が農耕地の拡張・関所の設置・屯田を進めるなかで、戎の居住域が押し返される過程です。とくには、僻遠の地から西方・北方の戎と巧みに関係を築き、時に婚姻・養子縁組で結び、時に討伐して領域化しました。秦穆公は戎人の勇士を用いて隴西・河西の通路を抑え、後の関中統一の基盤を作ります。やがて戦国期に秦は商鞅の変法以後、辺境の軍事植民(県・郡)を進め、戎の政治的自立は縮小しました。

第三は利用で、列国間の抗争において戎が傭兵・同盟者として動員されるパターンです。西周末の申侯—犬戎の連合に先例が見られるように、春秋でも諸侯が戎・狄を味方に引き入れて敵国を牽制する事例が続きました。これは辺境の軍事力が「外交資源」として認識されていた証拠であり、同時に境界秩序の不安定さを意味します。

言語・民族の系譜に関しては、犬戎と羌(チベット・ビルマ語派系とされる広域集団)との混淆、北方の狄(のち匈奴の前駆と位置づけられることが多い諸集団)との接触が推定されます。オルドス美術とスキタイ系遊牧の意匠交流、馬具技術の共通性は、ユーラシア草原のネットワークが早い時期から華北辺縁に波及していたことを示します。したがって、犬戎を単に「中原の敵」として固定するのではなく、技術・文化の伝播者としての側面、境界社会の媒介者としての役割をもあわせて評価する必要があります。

史学上の論点と再解釈:外敵像の政治学から境界史へ

犬戎をめぐる近現代の研究は、二つの偏りを是正しようとしてきました。一つは、伝統史学における外敵化の語りの再検討です。西周の滅亡を「蛮夷の暴に亡びる」とする図式は、王権の内政失敗、諸侯間の不信、辺境統治の破綻を覆い隠します。申侯の反乱に犬戎が関与したのは、王畿の権威がすでに空洞化していた背景のもとで起きた政治連合の結果であり、単純な文明—野蛮の二分では説明できません。

もう一つは、考古学資料の取り込みです。馬家塬や隴東—陝北の墓群、オルドスの金属器・馬具、周系青銅器の出土状況は、文献の断片を補い、通婚・交易・略奪・同化の複合的プロセスを可視化します。武器の型式学(鏃・短剣・帯鉤)、金工技法、装飾意匠の比較は、草原—農耕境界での技術交流の地図を描き出しており、犬戎を「境界のイノベーター」として読み替える視角を提供します。

また、語の問題も議論されます。「戎」「犬戎」は中原側の外名であり、相手の自称・内的多様性を反映しません。史学的叙述では、蔑称の再生産を避け、当時のカテゴリーを資料批判的に扱うこと、現代の民族概念を機械的に遡及しないことが求められます。さらに、周—戎の関係が対立だけでなく協調・相互依存に満ちていた事実を、婚姻・人質・牧地共有・関市(交易市)の制度史から掘り下げる必要があります。

まとめ:西周崩壊の「触媒」と境界世界の結節点

犬戎は、西周の終焉を画した歴史的事件の主役として記憶される一方、渭水—隴東—オルドスに広がる多元的な境界社会の住民でもありました。彼らの軍事力は騎馬・弓騎の機動性に支えられ、物質文化は草原型の動物文様と周系器物が交差し、政治は氏族連合の流動的な同盟で運営されました。西周末の混乱は、王権の内的弱体化と辺境政策の破綻の上に、犬戎という外部要因が重なって噴出した危機であり、その余波は首都の東遷、春秋の諸侯競合、秦の辺境国家としての台頭へと連なります。犬戎を学ぶことは、古代中国の中心—周縁関係、戦争と交易の二面性、考古学が描き出す草原—農耕の接触帯のダイナミクスを理解することに直結します。外敵像のステレオタイプを超えて、境界の交流と相互形成の視点から歴史を読み直すとき、犬戎の姿はより立体的に浮かび上がってくるのです。