一国社会主義論(いっこく・しゃかいしゅぎろん)は、1920年代のソ連でヨシフ・スターリンらが打ち出した方針で、「先進諸国で同時に革命が起きなくても、自国(ソ連)一国の力で社会主義を建設できる」と主張する立場を指します。世界革命の到来を前提にしていたロシア革命直後の期待とは異なり、現実にはロシア以外で革命の波が広がらず、国内の経済再建と安全保障が急務になっていました。そこで、海外の情勢を待つのではなく、まず自国の工業化や農業の再編を進め、国家の力を高めるべきだとする考えが「一国社会主義」です。対立軸となったのは、レフ・トロツキーらの「永久革命論(ペルマネント革命)」で、彼らはロシア一国では社会主義の完成は不可能で、他の先進国の革命支援が不可欠だと主張しました。論争の末、党内で優位に立ったスターリンの方針が採用され、第一次五カ年計画、農業集団化、重工業偏重の工業化、そして国内の統制強化が「一国社会主義」の名の下で推し進められました。以後、ソ連は国際革命の拠点というより、「社会主義の母国」として自立発展と国防の強化を最優先にする路線へ傾きます。
以下では、この方針がどのような背景から生まれ、党内外の理論論争で何が争点となり、どのように国内政策と国際共産主義運動を変えていったのかを、もう少し丁寧にたどります。
出現の背景――革命の孤立、ネップの現実、国防の不安
1917年の十月革命は、当初「ロシアは世界革命の導火線」と位置づけられ、ドイツやハンガリーなどの労働者革命の勃発に期待が集まりました。ところが第一次世界大戦後の混乱期を経ても、ヨーロッパ各地の革命は長続きせず、社会民主主義政権や保守反動の復活に道を譲りました。ソ連は内戦と外国干渉を辛うじて乗り切りましたが、経済は荒廃し、貨幣は信用を失い、都市の生産は落ち込みました。1921年以降に導入された新経済政策(ネップ)は、農民への穀物税や小商業の容認を通じて経済を立て直す現実路線でしたが、同時に市場要素の導入が社会主義の後退ではないかという理論的な不安も呼びました。
この時期、ソ連は資本主義諸国に包囲されているという安全保障の懸念を強く抱いていました。内戦の記憶、ポーランドとの戦争、国交樹立の遅れなどが、外交環境の厳しさを印象づけました。加えて、農業国であるロシアは機械や技術の多くを海外に依存しており、貿易悪化や制裁が起きれば再建は容易に頓挫します。こうした条件の下で、革命の国際的連鎖を待つより、まず自前の工業力と軍需生産を確保するべきだという議論が力を持ちました。「一国社会主義」は、この安全保障と経済再建の焦りから生まれ、党官僚機構の安定志向とも結びついていきます。
指導部内部の力関係も重要でした。レーニン死去(1924年)後、党内ではスターリン、ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリン、トロツキーらが主導権を争いました。スターリンは書記長として党組織を掌握し、レーニン語録の解釈権を獲得します。1925年末の第14回党大会では「社会主義的工業化」が掲げられ、1926年以降、スターリンは「一国でも社会主義の建設は可能」とする論調を強めました。こうして、世界革命の停滞と国内の再建という現実に押される形で、「一国社会主義」が政策スローガンとして定着していきました。
学説と論争――トロツキーの「永久革命」との対立、スターリンの論証
論点の核心は、「社会主義の『建設』は一国で可能か」「完全な社会主義社会の『最終的勝利』には国際的条件が不可欠か」という二段階の区別でした。トロツキーの永久革命論は、ロシアのような後発国では、労働者政権が成立しても長期的な発展には先進工業国の支援と革命の連鎖が必要だと説きました。さもなければ、技術と生産力の不足、農村の巨大さが足かせとなり、やがて官僚制の肥大化や資本主義への逆戻りが起こると警告しました。彼にとって、ソ連は世界革命の一部であり、孤立は致命的な病でした。
これに対しスターリンは、近代世界の発展が「不均等発展」である以上、革命の突破口が一つの国に現れるのは自然であり、その国が計画経済と国有化、農業の社会化を通じて社会主義の基礎を築くことは可能だと論じました。彼はレーニンの著作から帝国主義時代の「鎖の最も弱い環」という比喩や、国家資本主義を経由した過渡期の柔軟さを引用し、理論的根拠を強調しました。スターリンはまた、「最終的な勝利」すなわち外敵からの安全保障や反革命の完全排除には国際的条件が要ると限定しつつも、国内建設の可能性と必要性を前面に出しました。これは、革命の普遍性を掲げつつ、具体的には国内開発を急ぐという「二重言語」を生みました。
議論は政治闘争と不可分でした。1926年にかけて左翼反対派(トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ)は、官僚制批判と産業化方針の再検討を訴えましたが、党機構の掌握で勝るスターリン派に押され、1927年の第15回党大会の前後で失脚・追放されます。続いてスターリンは、右派(ブハーリン、リュコフら)が唱えたネップ長期継続と緩やかな工業化の路線からも距離を取り、1928年以降、急進的な工業化と農業集団化へ舵を切りました。こうして「一国社会主義」は、理論上の可能性の主張から、国家主導の開発独裁的な政策の正当化へと変質していきます。
内政への波及――五カ年計画、農業集団化、国家・社会の再編
第一次五カ年計画(1928–32年)は、重工業(製鉄、機械、エネルギー)への優先投資と、農業の集団化(コルホーズ・ソフホーズ)を柱としました。目標は、軍需を含む基礎産業の自給と、外圧に耐えうる国力の短期間での創出でした。国家は農産物を低価格で調達し、資本財の輸入や工業投資に回す「価格はさみ(スコッサ)」を通じて工業化資金をひねり出しました。農村では富農(クラーク)への圧力が強まり、抵抗や逃散、家畜の大量屠殺などの混乱が発生します。とりわけウクライナやヴォルガ流域などで飢饉が深刻化し、多大な人的被害を生みました。
都市では巨大工場や新都市が建設され、熟練労働力の不足を補うために大規模な技能訓練が行われました。労働の規律は厳格化し、出来高主義やスタハーノフ運動に象徴される能率向上運動が広がります。計画達成は政治忠誠と結びつけられ、統計の粉飾や強制的なノルマ達成が蔓延しました。他方で、識字率の向上、科学技術教育の拡充、女性の社会進出、医療・住宅の整備など、社会インフラの拡大も進みました。これらの成果は、「後進国が一世代で先進国に追いつく」というスローガンと結び合わされ、「一国社会主義」の実績として喧伝されました。
文化・イデオロギー面では、「社会主義リアリズム」を標準とする表現規範が確立し、歴史叙述や映画、文学が国家目標を賛美する方向へ統制されました。「民族的形態、社会主義的内容」と呼ばれる原則の下、各民族の文化表象は許容されつつも、最終的には統一されたソ連的アイデンティティに収斂させられます。宗教は抑制され、党と国家の権威が道徳の中心に置かれました。これらは、国内の統合と動員という実利に奉仕するとともに、外部世界に対して「自力更生のモデル」を誇示する役割を果たしました。
しかし、「一国社会主義」の名で進んだ政策は、計画の硬直化、官僚主義の肥大、政治的粛清と相互に絡み合いました。1930年代後半の大粛清は、技術者・軍人・党員を含む幅広い層を巻き込み、国家能力そのものを損なう側面も持ちました。にもかかわらず、重工業と軍需の蓄積は独ソ戦における総力戦を支える基盤となり、「祖国戦争」の勝利は「一国社会主義」路線の正当性を後年まで支える象徴となりました。
国際共産主義への影響――コミンテルンの路線転換と「ソ連中心」への傾斜
「一国社会主義」は、国際共産主義運動の司令塔であったコミンテルン(第三インターナショナル)の性格も大きく変えました。当初、コミンテルンは各国での革命推進を掲げ、国際的連携を重視する組織でした。ところが、ソ連が国内建設と安全保障を最優先するにつれ、各国共産党の路線はしばしばソ連外交の利害に従属するようになります。1930年代前半には社会民主主義を「社会ファシズム」と批判する強硬路線が採られ、反ファシズム人民戦線へと転換したのは中盤以降でした。これらの急な方針変更は、各国党の自主性を弱め、ソ連の政策決定に左右されやすい構造を強化しました。
また、民族問題の扱いでも、当初の民族自決の支持から、実際にはソ連の地政学的利益に沿う介入や統合が優先されるケースが増えました。第二次世界大戦期には、ドイツとの不可侵条約やその後の独ソ戦への転換といった急変が、各国左翼にとって大きな思想的試練となります。戦後に東欧で成立した「人民民主主義」諸国は、形式上は各国の事情に合わせた社会主義建設を標榜しながらも、計画経済・一党支配・重工業優先という点でソ連モデルの強い影響下に置かれました。こうして「一国社会主義」は、実際には「一国のモデルの国際的拡張」として機能し、世界の社会主義運動の多様性を狭める働きを持ちました。
中国やキューバ、ベトナムなど、後に自国の条件に合わせた社会主義建設を標榜した国々も、ある局面では「自力更生」「段階的工業化」という点で「一国社会主義」に似た論理を採用しました。ただし、それぞれの歴史的条件や対外環境、農村の位置づけ、党と国家の関係は大きく異なり、同じラベルで括ることはできません。とはいえ、「世界革命の連鎖」から「国家建設の優先」への重心移動は、20世紀の社会主義運動全体に広がった共通の潮流と言えます。
総じて、「一国社会主義論」は、理論的には不均等発展の時代における社会主義建設の可能性を主張する考えであり、政治的には国家主導の動員と統制を正当化するスローガンとして作用しました。現実の政策においては、重工業偏重と農村への圧力、官僚制の強化、コミンテルンの従属化などの具体的な帰結を伴いました。ロシア革命の国際主義的理想と、後発工業国が直面する生存の現実――その緊張の中から生まれたのが「一国社会主義」であり、それゆえにこそ、20世紀の世界史の大きな流れを読み解く上で避けて通れない用語となっているのです。

