ウィクリフ(ジョン・ウィクリフ, John Wycliffe, 1330頃–1384)は、14世紀イングランドの神学者・聖職者で、オックスフォード大学を拠点に教会財産・教皇至上・聖職者特権を厳しく批判し、聖書の至上権と俗語訳の必要を説いたことで「宗教改革の先駆」と呼ばれる人物です。彼は「恩寵による支配(dominium by grace)」の理論で、支配権・所有権は神の恩寵と正しい生き方に条件づけられると主張し、不正な聖職者は教会財産を保持する権利を失うと論じました。さらに、聖書こそ信仰と教会統治の最終規範であると強調し、英語への全訳(いわゆるウィクリフ聖書)を主導・鼓舞しました。彼の思想は、ロラード派(Lollards)と呼ばれる草の根運動を生み、フスやボヘミア改革を経て16世紀の宗教改革に長い影響を残しました。一方で、1382年のブラックフライアーズ会議(地震シノド)で教説は異端とされ、死後にはコンスタンツ公会議で遺骸の掘り起こしと焼却が命じられるなど、激しい反発も招きました。以下では、時代背景、生涯の軌跡、思想と著作、英語聖書とロラード派、弾圧と遺産の観点から整理します。
時代背景と生涯:オックスフォードの学匠から王権助言者へ
14世紀のイングランドは、百年戦争、黒死病(1348–49)、農村経済の変動、王権と教会の利害対立が重なり、秩序の再編期にありました。ローマ教皇庁はアヴィニョンに居を移して「教皇のバビロン捕囚」と呼ばれ、やがて西方教会大分裂(1378–1417)で複数教皇が並立する異例の事態が生じます。聖職叙任や教会税、教会裁判の越境的権限は、国王・領主・大学にとって大きな政治経済上の問題でした。
ウィクリフはヨークシャーの小領主層に生まれ、オックスフォード大学で学び、スコラ学の論理学・形而上学・神学を修めました。若年期にはベリオール・カレッジに関わり、のちにモートン(またはリュディントン)に牧職を得、1370年代には神学博士(doctor theologiae)としてオックスフォードの著名なマギスターとなります。彼は優れた学究であると同時に、王政・議会に助言する理論家としても登場しました。とりわけ、教皇がイングランドから徴収する年貢・恩給・保留聖職(provisors, reservations)に関し、王権が国土の富を守る権利を持つと論じ、外交・財政の論戦で王庁に頼られました。
1370年代後半、ウィクリフの批判は教会制度の根幹へ及びます。彼は教皇無謬を否定し、教皇が福音に背くときは従属を拒みうると主張しました。さらに彼は、教会の世俗財産と特権を厳しく批判し、聖職者は清貧と牧会に専心すべきだと説きました。こうした主張は、王権・貴族の支持を一部得た一方で、聖職者・修道会・法学者の強い反発を招き、1382年の地震シノドで教説の多くが誤謬とされました。
晩年の彼は、教会裁判への召喚や講壇の制限に直面しつつも、オックスフォード周辺で教示と著述を続け、1384年にストウ=オン=ザ=ウォルド近郊のリュディントン(もしくはルターズワース)で没しました。死は自然死でしたが、その思想は死後も論争を呼び続けます。
思想と著作:恩寵による支配、聖書の至上権、聖礼典批判
ウィクリフ思想の中心にあるのが「dominium」の概念です。彼は『支配の権利(De dominio divino/De civili dominio)』などの論著で、真の支配(統治・所有)は神の恩寵に根差すと論じました。支配権は罪により失われうる相対的なもので、恩寵なき支配は正当性を欠くとします。ここから、堕落した聖職者は教会財産の管理権を失い、世俗権力が是正介入しうる、という急進的帰結が導かれました。これは、聖俗の境界・教会財産不可侵の前提に挑む議論でした。
第二に、彼は聖書の至上権(Scriptura sola)を強調しました。教父や公会議の権威は尊重しつつも、最終規範は聖書に存するとし、教皇や司教の命令も聖書に反すれば拘束力を持たないと主張します。神学論争の手つきはスコラ学的で、彼は定義・区別・反論・応答の厳密な論証を用いながら、権威の序列を「聖書>教会法・教父」に置き換える作業を進めました。
第三に、聖礼典理解、とくに聖餐論での異端視の原因がありました。彼は『聖体に関して(De eucharistia)』で、当時ローマ教会が標準教義としていた「実体変化(transubstantiatio)」に異議を唱えます。キリストの現実的臨在を否定したと言うよりは、アリストテレス哲学に基づく「実体/属性」区別による説明に神学的問題があるとし、より霊的・象徴的理解を志向しました。この点はオックスフォードの保守派と決定的に対立し、彼の学内地位を危うくしました。
さらに彼は、赦勅(免罪符)や巡礼、聖遺物崇敬といった実践にも批判を向け、悔悛と救いは外的儀礼や贖宥の取引に依存しないと強調しました。教会法廷の越権や聖職売買(シモニア)も厳しく糾弾し、牧会の実質—説教・聖書教授・貧者救済—への回帰を説きました。著作はラテン語の神学論文が中心ですが、英語での説教集や短文も残し、平信徒向けに教えを広めようとしました。
英語聖書とロラード派:俗語化の実践と草の根ネットワーク
ウィクリフの名を有名にしたのは、英語聖書の全訳をめぐる運動です。彼自身がどの程度直接翻訳したかは学界で議論がありますが、彼の学派(ウィクリフ派)の主導のもと、ラテン語ウルガタを底本とする英語訳(初期訳・改訂訳)が14世紀末に整いました。抄本は手写で作られ、説教とともに各地へ流布しました。彼は平信徒が母語で聖書を読む権利を強調し、司祭の特権的知識独占に異議を唱えました。これは読解の誤り・分派化の危険をはらみながらも、信仰の主体を共同体へ返す画期的提案でした。
英語聖書の流布は、ロラード派(蔑称に由来する呼び名)と呼ばれる草の根運動を生みます。彼らは簡素な礼拝、聖像の拒否、聖職者の貞潔・清貧、誓いの否定、虚偽の奇跡批判、誓約や戦争への良心的拒否などを掲げ、移動説教師(poor preachers)が農村と都市を横断して説教しました。彼らは秘密集会と相互扶助で生き延び、15世紀には断続的な弾圧のもとで地下化しつつも、職人・商人・小農の間に長く残存しました。
この運動と1381年の農民反乱(ワット・タイラーの乱)との関係は誤解されやすい点です。ウィクリフは武装蜂起を支持しておらず、彼の弟子の一部が反乱の言説に影響した可能性はあるものの、直接的組織関与は確認されていません。ただし、支配・財産・権威の正統化を聖書に照らして再考する彼の理論は、社会批判的ポテンシャルを持っていたことは確かです。権威者にとって、学問的論争はいつでも社会秩序への挑戦に転化しうる危険をはらんでいました。
弾圧と評価:地震シノド、死後裁判、ボヘミアへの波及と宗教改革
ウィクリフの教説は、1382年ロンドンのドミニコ会修道院(ブラックフライアーズ)で開かれたシノドで、地震に見舞われながら審議され、実体変化否定や教皇権批判など24項目ほどが誤謬・異端と断定されました。大学当局は彼の講義を制限し、彼は田園の教区で静かに過ごすよう求められます。1384年の死後も論争は続き、1415年のコンスタンツ公会議は彼の教説を再度異端と宣言し、遺骸の掘り起こし・焼却・灰を川に流す「死後裁判」を命じました(実施は1428年とされる)。この象徴的処置は、教会権威が彼の名の下に続く運動を断ち切ろうとする意思表示でした。
しかし、思想の流れを止めることはできませんでした。ウィクリフの著作はオックスフォードからボヘミアへ渡り、プラハ大学の学匠ヤン・フスに強い影響を与えます。フスは聖書至上・聖職者批判・教会財産論で多くを継承し、ボヘミア改革は15世紀初頭のフス戦争へと発展しました。ウィクリフ—フス—ルターという単純な直線は歴史の複雑さを無視しますが、聖書主義・俗語化・教権批判の動脈が各地で脈打ち、16世紀の宗教改革の下地を構築したことは確かです。
評価は時代により揺れました。中世末には危険な扇動家・異端として記憶され、近代プロテスタントの歴史叙述は彼を「改革の夜明け」と称えました。今日の研究は、ウィクリフを単なる革命家ではなく、スコラ学の内部から出てきた厳密な神学者として位置づけ、彼の論理と中世思想の連続性に注目します。彼はアリストテレス主義を用い、同時にそれを転用して教会制度の根拠を批判した、いわば「内側からの改革者」でした。
言語文化史の観点では、英語聖書の制作と普及が、のちのチョーサーやチューダー朝の書記体系の整備、印刷術普及後の標準化に先駆的影響を与えた可能性が指摘されます。写本の共同作業、朗読と聴聞の場、説教と注解の文体は、英語の宗教語彙とリズムを豊かにしました。神学の領域を越えて、ウィクリフは英語文化の形成にも寄与したのです。
総括すると、ウィクリフは、教会と国家、権威と良心、学問と民衆宗教の交差点に立った思想家でした。彼は聖書を信仰と政治の「最後の裁き手」に据え、恩寵に基づく支配という倫理的基準を社会の根底に提案しました。英語聖書とロラード派という実践は、大学の講壇から村の台所まで、信仰を移動させました。彼の死後、灰は川に流されても、言葉は流されず、各地で新たな声を生みました。ウィクリフを学ぶことは、制度が疲弊し権威が分裂する時代に、言葉と良心がいかに共同体を作り替えうるかを考える手がかりとなります。

