英印円卓会議とは、1930年から1932年にかけてロンドンで三度にわたり開かれた、イギリス政府とインド側代表(藩王国、各宗派・各コミュニティ、政党代表など)による大規模な政治交渉のことです。目的は、第一次世界大戦後に高まった自治・独立要求に応える新しいインド統治の枠組みを協議することで、最終的には「連邦制」や「州(州政府)への自治拡大」「少数派の政治的保障」などの方向性が整理されました。インド国民会議(会議派)は第一会期をボイコットし、第二会期にはガンディーが単独代表として参加、第三会期は再び不参加という複雑な展開をたどります。会議自体は完全な合意に至りませんでしたが、議論の到達点は1935年インド統治法(Government of India Act 1935)へと結実し、州自治の拡充や選挙制度の再編につながりました。別枠で提示された「コミュナル・アワード」(1932年)の波紋は、ガンディーとアンベードカルの交渉(プーナ協定)を誘発し、インドの代表制のあり方に長く影響を与えました。要するに英印円卓会議は、独立直前の最終回答ではなかったものの、自治・連邦・代表制・少数者保護の四点をめぐる「原理と線引き」を集中的に可視化した交渉の場だったのです。
背景と開催経緯—シモン委員会から「完全独立」宣言まで
発端は、1927年に設けられたシモン委員会が、インド人委員を含まないまま自治拡大の勧告案を準備したことでした。これに強く反発した会議派は全国的な抗議運動を展開し、自治の具体像としてネールー報告(1928年、自治領化・権利章典)を提示しました。他方、全インド・ムスリム連盟のジンナーは「14か条」を掲げ、宗派・地域の少数派保護を最重要課題と位置づけます。1929年末、会議派はラホール大会で「プールナ・スワラージ(完全独立)」を決議し、1930年にはガンディーが製塩法に抗議する「塩の行進」を先導して非協力・不服従運動の第二波が全国に拡がりました。
こうした状況下で、労働党政権(首相ラムゼイ・マクドナルド)は、力づくの鎮圧に頼らない政治的出口としてロンドン会議の開催を決定します。構想は、英印関係の将来像—連邦化、自治、財政・軍事の分担—を、英政府・藩王・各宗派・各地域代表を一堂に集めて討議するというものでした。会議は三会期(1930年11月〜1931年1月/1931年9月〜12月/1932年11月〜12月)に分けて開催され、議長はマクドナルド、実務はインド省(大臣アーウィン卿→ウィリンデン総督期)が担いました。
出席者の構図と主要論点—連邦、州自治、代表制、少数者保護
参加者は、英政府側の閣僚・議員、インド側からは藩王(藩王国の支配者)代表、ブリティッシュ・インディア(直轄州)からの自治体首長・政党代表、そして宗派・社会集団の代表(ムスリム、シク、ヒンドゥー諸団体、キリスト教徒、パールシー、アンタッチャブル(被差別民/「抑圧された諸階層」)の代表としてB・R・アンベードカル、商工業者、労働者、女性代表など)に及びました。構図は単純な「インド対イギリス」ではなく、英政府が各コミュニティの利害を「水平展開」させ、全体合意を組み上げることで会議派の一極集中を相対化する設計でした。
主要論点は四つに集約されます。第一が「インド連邦」構想で、ブリティッシュ・インディアの州と約560の藩王国を緩やかな連邦に束ね、外交・防衛・通商など限られた分野を中央に集中させる案です。第二が「州自治(プロヴィンシャル・オートノミー)」で、従来の二元統治(ディアーキー)を改め、州政府に実権を与える方向性です。第三が「代表制・選挙制度」の再設計で、単記・複数記、普通選挙の拡大、財産資格、職能代表、共同体別選挙区(セパレート・エレクターリット)などの組み合わせが議論されました。第四が「少数者保護」で、ムスリム、シク、キリスト教徒、アングロ=インディアン、そして被差別民の政治的代表枠・留保議席・相互拒否権(サファガード)の是非が焦点になりました。
各会期の展開—ボイコット、ガンディー参加、そして決裂
第一会期(1930年11月〜1931年1月)は、会議派が非協力運動の最中でボイコットしたため、インド側は藩王・ムスリム連盟・各宗派や職能代表が中心でした。ここでは、藩王国が連邦参加の原則に同意するという画期的な前進があり、連邦制の枠組み—中央の権限と州の自治—が大枠合意に近づきます。その反面、会議派不在のままでは国民的合意の正統性に欠けるという弱点も露呈しました。
1931年3月、インド側でガンディー=アーウィン協定が成立し、会議派指導部の釈放と不服従運動の停止、塩の採取の一部容認などが取り決められました。これにより第二会期(1931年9月〜12月)には、ガンディーが「会議派を代表するただ一人の代表」としてロンドンに赴きます。彼は藩王・少数派代表・英政府に対し、連邦中央の権限縮小と州自治の徹底、治安・財政・関税・塩税などでのインド側裁量拡大、死刑減免など人権的配慮を主張しました。これに対し、ジンナーらムスリム代表は共同体別選挙区と留保議席を強く主張し、アンベードカルは「被抑圧諸階層」に独自の選挙団体(Separate Electorate)を与えるべきだと論じました。ガンディーは共同体別選挙の一層の拡大に強く反対し、「国民分断につながる」として全インド単一の政治共同体を志向しました。議題は白熱しましたが、最終文書は纏まらず、関税・財政・治安・代表制の各委員会で一部の原則確認に留まりました。
第二会期後、インドでは情勢が再び硬化し、総督ウィリンデンの下で会議派への弾圧が強まりました。第三会期(1932年11月〜12月)は会議派が再び不参加となり、英政府は各集団との協議をもとに、イギリス側の裁定色を強めます。1932年8月、マクドナルド首相は「コミュナル・アワード」を発表し、ムスリム、シク、キリスト教徒、アングロ=インディアン、被抑圧諸階層などに選挙区・議席の留保を割り当てるとしました。これに抗議したガンディーは獄中での断食を敢行し、アンベードカルとの交渉の末、被抑圧諸階層については「別個選挙団体」を撤回しつつ留保議席を拡大する「プーナ協定」(1932年9月)が成立しました。こうして、代表制問題は、会議の外で英政府裁定と当事者妥協が交錯する形で決着へ向かいます。
到達点と帰結—1935年インド統治法への道
英印円卓会議の直接の最終文書は存在しませんが、議論の到達点は1935年インド統治法として制度化されました。第一に、州自治が大きく拡充され、州内閣が実権を持つ仕組みが整えられました(ただし総督の「裁量権」「非常権限」は温存)。第二に、選挙制度が拡張され、有権者数が大幅に増加、留保議席と共同体別選挙区は継続されました。第三に、連邦制構想は「原則合意」こそ得られたものの、藩王国の加盟条件や主権配分で折り合いがつかず、連邦中央の完全実施は見送りとなりました(第二次大戦前に連邦制は本格始動せず)。第四に、財政・防衛・外交など「帝国上のサファガード(保障領域)」が設定され、英政府の最終統制が残されました。
こうした帰結は、会議派の目標—完全独立・中央政府の実権掌握—からすれば不十分でしたが、制度面では次の三点で決定的でした。すなわち、(1)選挙と議会政治の拡大により、会議派を含むインド政党が州政府で実地に「統治経験」を積む土台ができたこと、(2)藩王国を含む連邦論が公式にテーブルに乗り、藩王と英政府と民族運動の三者関係が再定義されたこと、(3)少数者保護の仕組みが国制に深く組み込まれ、その後の分離独立・分割の政治力学に影響を与えたこと、の三点です。
評価—「未完の合意」が残したもの
英印円卓会議は、多数派民族運動(会議派)と少数派・藩王・英政府の間で、政治共同体の輪郭をどのように描くかという根源的課題に正面から向き合いました。会議の技術は、単一の「民族」像に収斂させるのではなく、多元的な利害を並置し、部分合意の積み重ねで枠組みを作るというものでした。このやり方は、会議派の集中動員力を相対化し、同時に英政府の裁定余地を確保するという二重の効果を持ちました。ガンディーは道義と大衆動員を背景に中央集権的な自治を主張し、ジンナーやアンベードカルは、少数者の法的安全装置なしには民主主義は成り立たないと論じました。どちらの論点にも合理性があり、両者の緊張は、後の「二民族理論」や被抑圧諸階層の代表制をめぐる長期的な論争に連なる構図を形づくります。
制度史の観点では、円卓会議は「交渉の場」が国家形成に不可欠であることを示しました。植民地支配のもとで政治交渉を行えば、英政府は常に優位に立ちますが、それでもなお、制度化された討議と公開文書、多数の委員会と専門審議、広範なステークホルダーの参加は、後続の憲法制定議会(1946–49)の準備学校として機能しました。議場で交わされた用語—連邦、自治、留保、保障、相互拒否権、共同体別選挙—の多くは、その後のインド・パキスタン両国の政治語彙となります。
総じて英印円卓会議は、結論の弱さゆえに軽視されがちですが、1930年代のインド政治を規定した「論点と線引きのカタログ」としての価値は極めて大きいです。会議は独立を生まなかった代わりに、独立後も続く問い—統合と多元性、自治と安全装置、道義と制度—をはっきりと言語化しました。その意味で、円卓会議は未完であったからこそ、のちの合意と対立の双方に長い影を落とし続けていると言えるでしょう。

