英独海軍協定 – 世界史用語集

英独海軍協定(えいどくかいぐんきょうてい)とは、1935年6月18日にイギリスとナチス・ドイツの二国間で結ばれた海軍軍備制限の取り決めを指す用語です。主たる内容は、ドイツ海軍(当時のドイツ国海軍/クリークスマリーネ)の総排水量を、イギリス海軍の35%に恒久的に制限するという「35%比率」の承認で、潜水艦については原則45%、情勢次第で対英同数(100%)まで拡大できるという但し書きが付されました。これは第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約がドイツに課していた厳しい海軍制限を事実上骨抜きにするものであり、英政府が二国間でドイツ再軍備の一部を追認したという点で、欧州国際秩序に大きな転換点を刻んだ協定です。

イギリスにとっては、ドイツの再軍備を完全に阻止するのではなく、数量的・法的枠を与えて制御下に置くこと、さらにアングロ=ドイツ間に独自の連絡線を確保して、海軍の軍拡競争や英仏同盟の枠外での不測の衝突を避けることが狙いでした。ドイツにとっては、海上軍備の合法的拡張を国際的に承認させ、英仏伊の対独包囲(ストレーザ戦線)の楔を打ち、政治的に英との関係改善を誇示する意義がありました。結果として、協定は短期的には英独関係の「正常化」を演出しましたが、フランスやイタリアの不信を招き、国際協調の多国間枠組み(ワシントン・ロンドン海軍条約体系、ストレーザ合意)の亀裂を深める効果をもたらしました。

その後、1939年4月にヒトラーが本協定の破棄を表明し、同年9月の戦争勃発を経て効力を失いました。英独海軍協定は、宥和の時代における「二国間による秩序調整」の典型例として、またヴェルサイユ体制の拘束力が現実政治と利害計算の中で崩れていく過程を示す史料として、しばしば取り上げられます。

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背景:ヴェルサイユ体制と英の計算、独の思惑

第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約は、ドイツに対し潜水艦の保有を全面禁止し、主力艦・巡洋艦の隻数や排水量、乗員数まで厳格に制限しました。これに加え、1922年のワシントン海軍軍縮条約と1930年のロンドン海軍軍縮条約は、英米日仏伊の主力艦比率を枠にはめ、主として大海軍国の競争を抑える多国間の仕組みを整えました。ところが1933年にナチ党が政権につくと、ドイツは再軍備の既成事実化を加速させ、海軍でも秘密裏の建艦・潜水艦技術の温存・外国(とくにオランダ・スウェーデン経由)からの機器調達を進めました。

イギリス政府(当時のボールドウィン内閣/海軍相はサミュエル・ホアら)は、ドイツの再軍備を完全に押しとどめるより、ドイツ自身に枠を呑ませ、数的上限を固定する方が自国の海上優勢を維持しやすいと判断しました。英海軍の戦略上の主敵は、依然として大西洋・地中海・極東に散在する多方面の脅威(イタリア海軍や将来の日本海軍との拮抗、帝国防衛・通商路保護)であり、ドイツが英海軍に対して総力で挑むハイシー・フリート型の競争に回帰する可能性は低いと読んだのです。ゆえに、35%という固定比を法的に認めさせれば、ドイツの建艦が一定規模を超えず、英の戦略自由度を保てるという計算が働きました。

ドイツ側にとっては、ヴェルサイユの「違法」から抜け出し、英から〈合法な海軍保有国〉として承認されるメリットが大きく、ヒトラーと海軍首脳(レーダー提督ら)は外交攻勢に前向きでした。陸軍・空軍に比べ海軍比率を抑えることは、ドイツの総合的再軍備計画とも整合的で、仏英の警戒を和らげる効果も期待できました。さらに、4月のストレーザ戦線(英仏伊がドイツの再軍備に反対する声明)に亀裂を入れることは、イタリアをエチオピア侵略へと向かわせ、英仏とイタリアの関係を悪化させる副次効果も生みました。

協定の内容:35%比率と潜水艦条項、艦種別の配分

英独海軍協定の中核は、ドイツ海軍の総排水量=英海軍の35%という恒久比率にあります。これは全艦隊の合計だけでなく、主力艦・航空母艦・巡洋艦・駆逐艦・潜水艦など主要艦種ごとにもおおむね35%を基準に配分するという原則を伴っていました。実務上は、ロンドン条約(1930、1936)で規定された艦種区分・排水量上限を参照しつつ、英独間で年次・造艦計画の照合を行い、相互に通知と協議を行う枠組みが整えられました。

最も注目されたのは潜水艦条項です。ヴェルサイユ条約が禁じたUボートの保有を、協定は「英海軍の45%まで」を原則上限として認め、さらに緊急時には英に通告のうえ最大100%(同数)まで拡大できる「パリティ(同等)条項」を含みました。英側は対潜技術の進歩と通商護衛の経験を背景に、数量を管理すれば致命的な脅威にはならないと高を括った側面がありましたが、後年の大西洋戦でこの読みは危険な賭けであったことが露呈します。

協定はまた、二国間の常設連絡・情報交換の手続きを定め、造艦の進捗や艦齢の代替、艦種転用などの細目に関して協議することを取り決めました。表向きは、英独双方が「透明性」を確保することで軍拡競争の暴走を防ぐ装置でしたが、実際にはドイツ側が造艦の自由度を増し、英側が多方面に戦力を分散する中で、比率の枠内であっても質的・戦術的な革新(高速通商破壊艦、長距離Uボート、沿岸警備の空海連携)の余地を広げる結果となりました。

反応と影響:国際秩序への波紋と軍備・外交の変化

英独海軍協定は、直ちに国際政治の力学を揺らしました。まずフランスは、英が自国に事前協議なくドイツの海軍再建を承認したことに強く反発し、ストレーザ戦線の結束は損なわれました。イタリアも、対エチオピア政策で英と対立を深め、地中海の安全保障は不安定化します。多国間の海軍条約体制は、1936年の第二次ロンドン海軍条約で再編を試みますが、独伊日が十分に関与せず、拘束力は低下しました。結果として、欧州では二国間取引・既成事実化・規制の空洞化が進行し、法による軍備管理の重みが薄れていきました。

軍事的には、ドイツは協定の承認を梃子に、装甲艦(通称ポケット戦艦)〈ドイッチュラント級〉や重巡・駆逐艦の整備を進め、のちには条約外の大型艦(戦艦〈ビスマルク〉〈ティルピッツ〉)計画へと踏み出します。英は世界規模の海上権益防衛を続けつつ、対潜装備・護送船団体系・航空との連接を急ぎましたが、予算と政治判断の制約で、戦時初期には通商破壊に脆さを露呈しました。潜水艦比率の「45%+パリティ」は、数量だけ見れば抑制に見えますが、Uボートの波状運用や狼群戦術、無線・暗号・気象の活用と組み合わされると、35%枠内の水上艦増強では相殺しがたい脅威となりました。

外交上、英は「ドイツを国際枠内に引き戻す」意図を掲げましたが、協定はむしろヒトラーに外交的成功を与え、対仏・対英の分断工作に利用されました。英国内でも、協定を支持した現実主義の声と、二国間でヴェルサイユ体制を掘り崩すことへの懸念が交錯し、対独政策の一貫性は揺れました。のちのミュンヘン会談(1938)に至る一連の「宥和」は、こうした小刻みな譲歩の積み重ねと、ドイツの既成事実化への追認の延長線上に位置づけられます。

破棄とその後:1939年の断絶と戦時の検証

1939年3月、ドイツはチェコスロヴァキアを解体・併合し、英政府は3月末にポーランドへの独立保証を発表しました。これに反発したヒトラーは、4月28日の国会演説で英独海軍協定の破棄と、1934年の独波不可侵条約の破棄を同時に宣言し、関係は決定的に断絶します。9月のポーランド侵攻で第二次世界大戦が始まると、協定の「比率」や「通知・協議」の仕組みは意味を失い、海上戦は現実の総力戦へと移行しました。

戦後の視点から見ると、英独海軍協定は抑止か、助長かという評価を二分します。一方では、1935年当時の英の財政・戦備・世界的負担を考えれば、ドイツの海軍拡張を枠にはめ、仏海軍とのバランスや極東の対日問題と両立を図るための現実的選択であった、という擁護があります。他方では、二国間でドイツの再軍備を承認したことで、国際協調を傷つけ、ヒトラーの拡張路線とプロパガンダに資する結果となり、長期的にはリスクを拡大した、という批判が根強いです。潜水艦条項の「パリティ」容認は、英の戦略判断の楽観がもたらした危うい譲歩として、しばしば反省の対象となります。

いずれにせよ、英独海軍協定は、数値目標(35%)という分かりやすい枠を通じて、国家の意図・恐れ・計算が交錯する外交の力学を読み解く手がかりを与えてくれます。ヴェルサイユ体制の揺らぎ、二国間主義の台頭、軍事技術の進歩と戦略の錯覚——これらが重なり合った結果として理解することで、用語の背後にある時代の空気が立ち上がって見えてきます。