駅伝制(ジャチム)(モンゴル) – 世界史用語集

モンゴル帝国の駅伝制は、モンゴル語でジャム(ヤム、jam/yam)、またはオルトー(ortoo)と呼ばれる広域通信・輸送の中継網のことです。遊牧帝国がアジア内陸から東西へ展開するうえで、軍令・税務・外交・諜報・人員と物資の移動を迅速かつ確実に行うために設計された国家の神経系でした。駅(站)に馬・ラクダ・宿営・飼料・水と職員を常備し、急使(ウラーグ ulagh)が駅ごとに乗り継ぎながら進む仕組みで、公式身分証である牌子(パイザ/ゲレゲ)によって通行・徴発の権限が裏づけられました。帝国の拡大とともに、オゴデイ・モンケ・フビライらが制度化を進め、ユーラシア規模の〈横断的インフラ〉へと成長しました。駅伝制はシルクロードの交易復興と平和(いわゆる〈パクス・モンゴリカ〉)の象徴であると同時に、現地社会への負担や濫用の問題も孕んだ複雑な制度だったのです。

本稿では、まず起源と成立の流れを概説し、次に制度設計と運用の具体(駅の配置、馬匹と人員、牌子・文書・法の仕組み、財政と負担)を説明します。続いて、元朝・イルハン国・ジョチ・チャガタイなど各ハン国における地域的展開と差異を見たうえで、最後に駅伝制がユーラシアの移動・情報・国家形成に与えた影響と、その後の変容を整理します。

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起源と成立:遊牧の移動技術を帝国スケールへ

ジャムの発想は、もともと遊牧社会の移動・伝達の技術に根ざしています。草原の長距離連絡では、要地に家畜・飲料水・簡易施設を備えた中継点を置き、斥候や伝令が次の群落へ情報を渡す慣行がありました。モンゴル帝国はこの慣行を国家事業へと拡張し、征服地の道路・水源・関門を編み直して広域ネットワークを作り上げました。チンギス・ハン時代から急使制度(ウラーグ)が機能していましたが、常設の駅網が飛躍的に整うのはオゴデイ以降です。彼は幹線上に一定間隔でオルトー(駅)を設け、駅長(ジャムチ/ヤムチ)と職員、駅用の家畜群を配置しました。ついでモンケは監督と台帳管理を強化し、フビライは中国的な行政と結びつけて、駅伝の規格・装備・経費・通行証制度を詳細に整備しました。

帝国は広域の移動に合わせ、里程の標準化と地理情報の把握を並行して進めました。大河の渡渉点、峠、砂漠の井戸、平原の草質などが駅配置の基準となり、駅間距離は地形と家畜の負担に応じて柔軟に設定されました。平坦地では一駅およそ三十〜四十キロメートル程度、山地や砂漠では水場の位置に応じて間隔が延びるのが通例でした。駅は簡易の防御施設(柵・塀)と厩舎・倉庫・寝具・調理設備を備え、冬夏の季節移動に対応して仮設の補助駅を出す地域もありました。

制度と運用:駅・馬・人・法を束ねる仕組み

ジャムの中核は、①駅(オルトー/站)という物的拠点、②馬・ラクダ・犬ぞり等の家畜資源、③急使(ウラーグ)・駅長(ジャムチ)・書記などの人員、④牌子(パイザ/ゲレゲ)と勅令(ジャルリグ)・台帳という文書制度、⑤財政と供給(飼葉・食料・燃料)の五点で構成されます。駅長は駅備品・馬匹の出納、出発・到着時刻、通行者の資格確認、事故・遅延の報告を台帳に記録し、上位機関へ月ごと・季節ごとに提出しました。駅には通常、駅用の馬群が常備され、急使は鞍具ごと馬を乗り継いで数分で再出発します。砂漠や冬期の高原ではラクダ・牛・そりが動員され、貨物や特使には護衛が付くこともありました。

通行と徴発の正当性は、金属・木製・札などで作られた牌子(パイザ、モンゴル語でゲレゲ)によって担保されました。牌子には発給者の権威と受給者の資格・等級が刻まれ、所持者は駅の物資・馬匹・人夫・宿泊を優先利用できました。等級は段階化され、皇族・高官・王使・商隊の順に利用権と徴発の範囲が異なりました。濫用が問題化すると、フビライは等級の厳格化と更新制、偽造の摘発、一般商人への無差別発給の禁止などの制限を加え、駅伝資源の枯渇を防ごうとしました。

文書伝達は多言語で行われました。モンゴル語・ウイグル文字系の記録に加え、中国語(漢文)・ペルシア語・テュルク語が併用され、駅で通行証・受領書・出発記録が継ぎ足されます。印章(タンガ)と封泥の押捺で真正性を確保し、重要書状は二重・三重の副写で別ルートに分送され、盗難や事故に備えました。緊急の軍報は、合図用の矢・鼓・烽火・狼煙などの補助信号と併用され、夜間・荒天の運行規則も定められました。

財政・供給面では、駅の維持費と馬の飼料・人員の給与が大きな比重を占めました。徴税(クプチュル等の地租)とは別に、駅の供給に充てる負担(穀物・飼葉・塩・薪・器具・役務)が地方共同体に割り当てられ、沿線の村落・牧群が輪番で駅への供給を担いました。大規模商隊や使節団が通過する際は、駅で賄えない量が村に割付けられることもあり、これが過重負担・怨嗟を生みました。帝国は駅の配置替え・統廃合・季節移動で負担の平準化を図るとともに、濫用の取り締まり(牌子の没収・罰金・役人の罷免)を通達しました。

地域的展開:元の站赤、イルハン・ジョチ・チャガタイのジャム

東方の元朝では、駅伝は「站赤(ざんせき、zhanchi)」と呼ばれ、中国的な行政機構と融合しました。站(駅)に加え、赤(供給基地・倉庫・牧地)を組み合わせ、馬・駝・役夫・舟運を一体化させました。主要幹線は大都(北京)—上都—モンゴル高原—アルタイ方面、江南—大都の連絡、大都—元の西域統治拠点などで、河川交通と接続して物資輸送の効率化が図られました。元は牌子の乱発と濫用が深刻化したため、等級・更新・帳簿監査を強化し、用途と旅程ごとの支給上限を細かく規定しました。また、役夫・船・車の動員が農繁期に衝突する問題に対して、季節配慮や免除規定の整備が試みられました。

西方のイルハン国(イラン・イラクを中心)でも、ジャムは王令・財政・軍事の基盤でした。高原—オアシス—山岳—砂漠が交錯する地理のため、ラクダ隊の比率が高く、乾燥地の井戸・カナート群と駅が一体運用されました。駅間は水場に合わせて長くなり、夜間運行のための星位・地標の知識が駅の専門技能として継承されました。ジョチ・ウルス(キプチャク草原)では、草原の季節移動に合わせて駅も夏営地・冬営地を使い分け、川凍結期の氷上輸送や春先の泥濘期の運休基準など、気候に応じた運用暦が整備されました。チャガタイ・ウルス(中央アジア)では、山岳回廊とオアシス都市の連絡が中心で、峠越えの補助馬・牽引具・雪害対策が規定化されました。

これら各地のジャムは共通の原理(駅・牌子・急使・徴発)を共有しつつ、家畜構成・駅間距離・補給方法・監査手続に地域差を示しました。帝国が分立してからも、外交使節・商隊の往来では相互に駅利用が認められることが多く、通行証の互換や護送の引継ぎが行われました。ユーラシアの〈相互接続性〉は、政治的不統一の中でも駅伝の慣行が支えたのです。

影響と評価:パクス・モンゴリカの背骨と、負担の政治

駅伝制は、帝国の軍事機動を飛躍的に高めました。前線の状況が短期間で中枢に共有され、部隊の転用、徴発の割当、将帥の交代が迅速に実行されました。外交では、遠隔の王侯・教皇・商人と書簡をやりとりする通路となり、また通行証と護送が秩序ある往来を支えました。商業面でも、戦時以外は駅の周辺に市が立ち、宿駅が交易の結節として機能し、東西の価格や情報の収斂を促しました。旅行者の記録に見える「一日で何駅も駆け抜ける急使」や「安全な宿と給餌」は、駅伝制の日常的実力を物語っています。

同時に、駅伝制は大きな社会的コストを伴いました。地方共同体に課された飼葉・食料・人夫・車馬の負担は、凶作・疫病の年に重くのしかかり、牌子所持者の濫用は村落の反感を招きました。帝国当局は、駅の統廃合・幹線と支線の序列化・通行証の厳格化・臨検と罰則の強化・駅職員の輪番制などで抑制を試みましたが、構造的に〈中央のスピード〉が〈周辺の負担〉を前提とする制度であったことは否めません。駅伝制は、帝国の統合を支える〈公共財〉であると同時に、権力の浸透と徴発を日常化する〈統治の装置〉でもありました。

モンゴルの駅伝の思想は、後世にも長く影響しました。明代は元の站赤を整理しつつ、漢地の驛伝制度へ再編し、清代は八旗の軍政と接続させて驛站・驛館を全国に配しました。西方では、ティムール朝やサファヴィー朝がジャムの要素を継承し、イスラーム世界のバリード(郵驛)制度に接続します。近代ヨーロッパの国王郵便・駅逓と比較しても、〈国家が道路・駅舎・家畜・文書を束ねて優先通行権を保障する〉という核心は共通であり、鉄道・電信の時代に至るまで、通信・交通の国家独占と公共性のせめぎ合いは継続しました。

総じて、ジャチム/ヤムは、ユーラシアを横断する〈速度の制度〉でした。遊牧の移動技術を土台に、征服帝国が文書・人・物を高速で循環させるための総合設計であり、帝国の秩序と矛盾を同時に可視化する鏡でもあります。駅の配置、牌子の権限、家畜と人員の管理、財政の裏付け、濫用と取り締まりのバランスを押さえると、モンゴルがどのように「広さ」を統治可能な時空へ変換したのかが見通しやすくなります。現代の物流・通信インフラの原型を古代・中世に探る視点からも、ジャムは学ぶべき豊かな事例を提供してくれます。