エリトリア戦線 – 世界史用語集

「エリトリア戦線」とは、第二次世界大戦の東アフリカ戦域(East African Campaign)で、1940年から1941年にかけて現在のエリトリア領内を主舞台に行われた陸海空の戦闘を指す呼称です。イタリアが統治していたエリトレア(伊語表記)と高原・峠道・紅海港湾の連携が、連合軍のインド・スーダン方面補給線に直結していたため、ここを制することは紅海航路の安全と中東戦略の要でした。戦いの焦点は、イタリア東アフリカ(AOI)軍が堅固な山岳陣地を構築したケレン(Keren)—アゴルダト(Agordat)—バレンツァの線と、最終段階での港湾都市マッサワ(Massawa)の攻略でした。英印軍・スーダン防衛軍・自由フランス部隊など多国籍の連合軍が段階的に圧力を強め、1941年3月のケレン陥落、4月のアスマラ無血進入、同月末のマッサワ降伏によって戦局は決しました。結果として、紅海の通商は回復し、イタリア東アフリカの崩壊へ向けた決定的な一歩となりました。以下では、背景と布陣、戦闘の推移、兵站と地形、住民と植民軍、戦略的意義の順に整理して解説します。

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背景――イタリア東アフリカと紅海戦略、布陣の基本

1935〜36年のエチオピア侵攻で成立したイタリア東アフリカ(Africa Orientale Italiana, AOI)は、エリトレア・エチオピア・イタリア領ソマリランドを統合した広大な植民地体制でした。北側のエリトレアは、標高2000m前後の高原と紅海岸の港湾(マッサワ、アッサブ)を結ぶ戦略的回廊で、首都アスマラの飛行場・整備工場、マッサワの海軍基地・潜水艦桟橋、山岳鉄道や舗装道路が防御と機動の核をなしました。イタリアはエリトリア・ソマリ・エチオピアの在地兵(アスカリ)に伊本国からの常備兵を加え、山岳砲と機関銃巣、洞窟陣地を連結した防御網を築きます。

他方、連合軍側は、北西の英領スーダン、北東の紅海、南のケニア・英領ソマリランドから東アフリカを包囲する配置でした。スーダン方面軍(司令オコーナーののちプラット)と英印軍(第4・第5インド師団)が主軸となり、自由フランス部隊、スーダン防衛軍(Sudan Defence Force)、エチオピア義勇兵などが随伴しました。空ではRAFと南ア連邦空軍(SAAF)が、紅海では英東洋艦隊の駆逐艦・コルベット・掃海艇、紅海南方の護送船団が活動しました。戦略目標は、①スーダン国境からエリトリア高原に突破口を開く、②ケレンの要塞線を破りアスマラ・マッサワを奪取する、③紅海航路の安全を確保する、という三点に集約されました。

戦闘の推移――国境小競り合いからケレンの総力戦、アスマラ/マッサワの陥落

1940年6月の伊英開戦直後、イタリア軍はスーダン側へ小規模な前進を行い、カッサラ周辺の国境を圧迫しました。これに対し連合軍は反撃準備を進め、1941年1月、英印第4師団と第5師団を基幹とする攻勢を発起、まずはアゴルダト方面の伊前哨陣地を突破します。アゴルダトの戦いでは、機甲偵察と砲兵集中、夜間の浸透戦術が効果を上げ、イタリア側は高原の奥、ケレンの主防御線まで後退しました。

ケレンの戦い(Battle of Keren, 1941年2〜3月)は、エリトリア戦線の決定局でした。ケレンは巨大な花崗岩の山塊が谷を挟んで連なる天然の要塞で、ドンゴラス峠・サンジャフォルテ峠・ハバリ山などの高度点に洞窟陣地・トーチカ・狙撃位置が張り付き、車両の通行は谷底の一本路と急峻なつづら折りに制約されました。連合軍は歩兵とグルカ兵、インド砲兵、工兵、山砲を投入して峠の一つ一つを奪取し、しばしば昼間は砲爆撃、夜間は白兵突撃という摩耗戦を繰り返しました。空ではSAAFとRAFが近接航空支援と補給路遮断を実施し、イタリア側のMC.200やCR.42などと交戦しました。3月半ば、連合軍は決定的な稜線突破に成功し、ケレンは陥落します。

ケレン失陥は防御線全体の崩壊を意味しました。連合軍は勢いに乗って高原を東進し、3月末にはアスマラに進入して行政中枢を押さえます。イタリア側は港湾マッサワに海軍兵力と陸上残存兵を集結させ、港内の障害物・機雷・座礁艦で防御を固めましたが、4月上旬、英海軍の掃海・曳航と陸上からの包囲で防御は持ちこたえられず、マッサワは降伏しました。港に自沈・破壊された艦船とクレーンが散乱するなか、連合軍は急ぎ港湾機能を復旧し、紅海の船団運行の安全度を引き上げました。

兵站・地形・空海戦――峠道の工兵戦、紅海の護送と潜水艦

エリトリア戦線の成否は、地形と兵站に大きく左右されました。高原と紅海を結ぶ道路は限られ、峠道がボトルネックとなりました。連合軍はインド工兵・英工兵が橋梁・道路の拡幅・擁壁を急造し、砲と補給車列の通過を可能にしました。山岳鉄道は破壊されていましたが、狭軌線の一部は軍用に暫定復旧され、前線への弾薬・糧秣輸送に寄与しました。医療後送は山道の担架とトラックを組み合わせ、病院船がマッサワ沖で待機する段取りが採られました。

空は制空権の争奪と偵察が鍵でした。連合軍は逐次増強で制空を確保し、峡谷に集中する伊軍補給路・砲陣地を反復攻撃しました。イタリア側は山岳地形を活かして機関銃と高射砲を巧みに配置し、低空攻撃に損害を与えましたが、燃料・機体の補充が追いつかず、戦局が傾くに従って航空活動は萎みました。紅海では、イタリア潜水艦と機雷がスエズ—アデンの船団を脅かし、英海軍は護衛・掃海・基地航空隊の哨戒で対処しました。マッサワ陥落後は、潜水艦の活動基盤が失われ、航路の安全度は大幅に改善しました。

住民・植民軍・統治――アスカリと都市社会、戦後処理の文脈

イタリア軍の中核には、エリトリアやエチオピア、ソマリの在地兵「アスカリ(Ascari)」が多数含まれていました。彼らは現地語と地形に通じ、山岳戦で重要な役割を果たしましたが、補給途絶と指揮統制の混乱が続く中で戦列離脱・降伏も相次ぎました。都市住民、とくにアスマラやマッサワの商人・職人・港湾労働者は、戦時統制と空襲・包囲の影響を受け、物資配給と価格の乱高下に苦しみました。連合軍占領後は治安維持と港湾復旧が急がれ、エリトリアの将来の政治地位(エチオピアとの連邦、併合、分割)の議論が戦時の延長線上で始まります。この戦線の経験は、のちのエチオピアとの関係や独立運動の長い前史にも影を落とします。

指揮官・部隊・装備――多国籍連合の協同と伊軍の山岳防御

連合側の主力は英印第4・第5師団で、グルカ兵・ラージプート・シク兵などインド各地の歩兵連隊が峠道の白兵戦で勇名を馳せました。スーダン防衛軍の軽部隊は偵察と側面機動で活躍し、自由フランス部隊はダンカルク後の再起の場を求めて参戦しました。砲兵は25ポンド野砲と山砲、対戦車砲、迫撃砲が主力で、近接航空支援はブレンハイムやハリケーン、サウスアフリカのマリンズマーなどが担いました。

イタリア側はアスカリを含む植民師団、黒シャツ部隊、アルピーニ出身の山岳要員、砲兵、装甲車・軽戦車(L3/33など)を配し、洞窟陣地・コンクリート掩体・岩盤射孔と機関銃網で峠を封鎖しました。火砲と機関銃の連携、地雷帯、岩場の狙撃位置は有効でしたが、連合軍の圧倒的な砲爆撃と持続的攻撃、補給の差で劣勢に追い込まれていきました。

戦略的意義――紅海航路の確保、AOI崩壊への扉、心理戦の効果

エリトリア戦線の勝利は、第一に紅海航路の安全確保に直結しました。スエズ運河—アデン—インド洋の補給線は、中東油田の防衛、英印連絡、東地中海戦域の支援に不可欠であり、マッサワの陥落とイタリア潜水艦拠点の喪失は、船団運行のリスクを大きく下げました。第二に、AOIの北翼が崩れたことで、エチオピア中核への圧力が決定的となり、ゴンダールやアディスアベバ方面の作戦に心理的・物理的優位が生まれました。第三に、多国籍部隊が実戦で協同し、インド部隊やアフリカ部隊の戦闘力が本国世論にも認識されたことは、連合の人的資源動員と情報戦に好影響を与えました。

史料・用語・位置づけ――ケレンの記憶から東アフリカ戦域へ

エリトリア戦線を学ぶ際は、ケレンの戦いを軸に、アゴルダト—ケレン—アスマラ—マッサワの線を地図上で確認すると全体像が掴みやすいです。一次史料では連合軍の部隊戦史、作戦命令、空軍の出撃報告、海軍の船団日誌、イタリア側の陣地配置図や日誌、現地住民の回想・新聞が手がかりになります。用語としては、アスカリ(植民地兵)、AOI(イタリア東アフリカ)、SDF(スーダン防衛軍)、護送船団・機雷・掃海、峠(Pass)名などを押さえておくと理解が進みます。

この戦線は、北アフリカの砂漠戦(英独のエル・アラメインなど)に比べて知名度は高くありませんが、紅海という海上動脈の安全と、アフリカの角の地域史(植民地・港湾・高原社会)の交差点に位置しました。山岳の稜線をめぐる消耗戦、港湾の工兵戦、空と海と陸の連携は、近代戦の総合性を示す教材でもあります。戦跡は現在もケレン周辺の稜線やマッサワの港湾施設に痕跡をとどめ、墓地や記念碑が各国兵士の足跡を静かに伝えています。