王権の停止 – 世界史用語集

「王権の停止(おうけんのていし)」とは、フランス革命期の1792年8月10日、立法議会がルイ16世の王権行使を停止し、事実上ブルボン朝の君主権を無力化した政治決定を指します。パリ民衆(サン=キュロット)と義勇兵、急進派議員、そしてパリ市コミューン(革命自治体)の圧力のもと、王宮テュイルリーが襲撃され、国王一家は議会へ避難・保護の名で拘束されました。この「王権停止」は、直後の普仏連合軍侵攻という対外危機と、宮廷の内通疑惑に対する対内不信が重なった局面で、立憲君主制(1791年憲法)の枠組みを破り、共和政への移行(国民公会の招集、王政廃止)へ道を開いた転回点でした。本項では、1791年憲法下の政治構造と危機、8月10日事件の展開、議会の法的措置とコミューンの台頭、その後の連鎖(9月虐殺から王政廃止・王の裁判へ)、用語整理と史料上の注意の順にわかりやすく解説します。

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背景――1791年憲法体制の限界と対外戦争の激化

1791年憲法は、国王に行政権と拒否権(停止的拒否権)を付与し、立法権を一院制の立法議会に置く立憲君主制でした。三部会から国民議会・憲法制定議会を経て成立したこの制度は、財政再建と市民的自由を柱としましたが、王の拒否権と議会の政策形成の遅さが早くも摩擦を生みます。聖職者民事基本法をめぐる教会・信徒の分裂、王家のヴァレンヌ逃亡事件(1791年6月)の衝撃、君主への信頼低下が、市民社会に長い影を落としました。

1792年春、ジロンド派主導でオーストリアに宣戦(4月)。やがてプロイセンも参戦し、フランスは普墺連合との戦争に直面します。初期の戦況は劣勢で、亡命貴族(エミグレ)や宮廷の「内通」への疑念が高まりました。おりしも、ブランズウィック公の宣言(7月下旬)がパリに届き、同公が王家に危害が及べばパリを報復・破壊すると脅迫したことで、民衆の怒りは頂点に達します。王は拒否権を行使してジロンド派の非常法案(亡命貴族没収、非宣誓司祭の追放、国王護衛隊の廃止など)の一部を阻み、テュイルリー宮ではスイス衛兵が王家を守る体制を維持。政治の膠着は、街頭の動員を通じてしか解けない様相を呈しました。

同時に、地方からパリへ義勇兵(フェデレ)が集結し、パリのセクシオン(区)では常時会議が開かれ、市民軍・国民衛兵の急進化が進みます。議会内でもジロンド派とモンターニュ派(ジャコバン急進派)の対立が顕在化し、王権の存否が現実の政治課題に押し上げられました。「祖国は危機にあり」(7月11日)の宣言が出され、非常時体制が正当化されるなか、王を頂点とする行政の正統性は急速に失われていきます。

8月10日事件――テュイルリー襲撃と王の議会避難

1792年8月10日未明から朝にかけて、パリのセクシオンとマルセイユ・ブレスト等から到着した義勇兵、急進派国民衛兵が行動を開始します。パリ市庁舎では、旧来の市政を代えた「革命的コミューン(8月10日コミューン)」が樹立され、蜂起の政治指導中枢となりました。群衆はテュイルリー宮へ向け進撃し、王家の親衛隊・スイス衛兵と衝突。激しい銃撃戦の末、多数の死傷者を出しながら宮殿を制圧します。

このとき、ルイ16世と王妃マリー=アントワネット、王太子らはラ=ファイエット的穏健派の助言を離れ、国王親衛の戦闘が始まる前に、国王自ら議会(立法議会)に避難し、議場の「記章台」に座して保護を求めました。形式上は「人民の代表に保護を請う」という体裁でしたが、実質は議会の監督下に入ることで王の自立的統治を終わらせる選択でした。王の離脱で防衛の要を失ったスイス衛兵は散開・壊滅し、宮殿は群衆に占拠され、王権の権威は象徴的・実質的に崩壊します。

蜂起の過程は偶発ではなく、区ごとの決議・義勇兵の到着・コミューンの設立・武装の配布という段取りが背景にありました。ここで突出したのは、パリの民衆(サン=キュロット)と地方義勇兵の連帯、そしてコミューンが「議会外の正統性」を主張し始めた点です。蜂起の主導権は街頭と市庁舎にあり、議会は事後的に法的追認と収拾に回る格好となりました。

立法議会の決定とコミューンの台頭――王権停止から国民公会へ

8月10日当日、立法議会は緊急討議の末、国王の停止(suspension)を可決し、王の権能行使を凍結、王家をタンプル塔に移して事実上の拘禁としました。同時に、普通選挙(男子普通選挙)による新議会「国民公会(Convention nationale)」の招集を決定し、現行憲法の改正・国家体制の再設計を新議会に委ねます。これにより、1791年憲法体制は凍結され、立憲君主制は機能停止に追い込まれました。

パリ市では、8月10日コミューンが公安委員会・監察機関を設け、治安と糾明の名の下に反革命容疑者の逮捕・収監を拡大します。セクシオンは常時会議化し、ジャコバン派とコルドリエ派に近い活動家が影響力を増します。議会は蜂起の既成事実と民衆の武力を前に、王権停止を追認しつつ、秩序維持と対外戦争の指揮系統の再編に追われました。ここに、議会主権と都市民衆の直接行動、そしてコミューンの「革命政府」的性格が絡み合う新局面が生じます。

法的に見ると、「停止」は廃位ではなく、王位そのものの法的消滅を宣言したわけではありません。しかし、実質的には王の統治機能は剥奪され、のちの国民公会による「王政廃止」(1792年9月21日)と「共和政宣言」(同日)へ連続します。用語としての「王権の停止」は、この移行過程における中間段階を精確に指し示すキーワードです。

その後の連鎖――9月虐殺、王政廃止、王の裁判と処刑

8月の蜂起のあと、外征軍はヴァルミーの戦い(9月20日)で一時的に押し返すものの、パリでは恐怖と報復心理が拡大し、9月初頭、監獄に収容された反革命容疑者(非宣誓司祭・移民貴族・刑事犯が混在)に対する集団殺害、いわゆる「9月虐殺」が発生します。コミューンや一部セクシオンの黙認・関与が疑われ、議会・ジャコバン派内でも評価が割れました。これにより、革命の暴力性と合法性の緊張は決定的となります。

9月下旬、男子普通選挙で選ばれた国民公会が成立し、王政の廃止と共和政の宣言を採択。ルイ=カペー(国王ルイ16世の市民呼称)に対する反逆罪の訴追・裁判が始まります。議会は「王は裁かれうるのか」という根源的問いを投票で乗り越え、公開弁論・証拠の朗読・議員個々の意見表明(投票)を経て有罪・死刑を多数で決定。1793年1月21日、処刑が執行され、王権停止は不可逆の「王権消滅」へと移行しました。

この連鎖は、対外戦争の拡大(第一回対仏大同盟)と国内の派閥抗争(ジロンド派の失脚、公安委員会の権限集中、恐怖政治)へつながります。すなわち、8月10日の「停止」は、単なる法技術ではなく、政治共同体の根拠を「王−国民」から「国民(主権)」へと付け替える、革命的断絶の実践でした。

用語整理・史料の注意――「停止/廃位/共和宣言」・コミューン・セクシオン

学習上の要点を整理します。第一に、「王権の停止」は1792年8月10日に立法議会が決定した中間措置で、法的に王の権能行使を凍結したことを指します。第二に、「王政廃止」は国民公会が9月21日に採択した体制変更の決議で、王制という制度そのものを終わらせました。第三に、「共和政宣言」は同日に行われ、新しい主権の担い手を国民とする体制の肯定です。三者の順序と差異を取り違えないことが重要です。

関連機関としては、「パリ市コミューン(8月10日コミューン)」と「セクシオン(区)」が鍵語です。コミューンは蜂起後に旧当局を排除して成立した革命自治体で、公安・糾明・兵站を担い、議会に対しても強い圧力を行使しました。セクシオンは住民の常時会議組織で、蜂起の動員、中間層の急進化、ジャコバン派の基盤となりました。また「サン=キュロット(都市下層民・職人)」と「フェデレ(地方義勇兵)」の連携がテュイルリー襲撃の人員構成を支えています。

史料学的には、同時代の新聞・議会議事録・コミューン文書・個人書簡・パンフレット(マラー、デュムーリエ、ヴェルニオー等)を突き合わせ、8月10日の「自発性」と「組織性」の配分、死傷者数、スイス衛兵の行動、王の議会避難の判断過程など、細部の検討が続いています。のちの立場からの誇張や正当化(英雄化/悪魔化)のフィルターを除去する批判的読解が欠かせません。

位置づけのまとめ

王権の停止は、1791年憲法の枠内での王−議会関係が破綻し、戦時非常体制のもとで「主権の所在」を再定義するための実践でした。蜂起という暴力的事実、議会の法的追認、コミューンの事実上の権力、対外戦争という圧力が凝縮し、君主の不可侵という旧来の政治神話が崩れ落ちた瞬間です。ここから共和政・王の裁判・恐怖政治へと続く道の分岐が始まり、近代政治の核語(主権・人民・非常・革命政府)が現実の統治技法として試されます。用語としての「王権の停止」は、単発の事件名ではなく、立憲君主制から国民主権体制への過渡を可視化するラベルであり、フランス革命史の骨格を理解するうえで不可欠の節目なのです。