カイロ – 世界史用語集

「カイロ(Cairo/القاهرة)」は、エジプトの首都であり、ナイル川下流のデルタ入口に広がる中東・北アフリカ最大級の都市です。世界史のうえでは、イスラーム世界の学術・交易・政治・宗教の中心として千年以上にわたり重要な役割を果たし、今日に至るまでアラブ文化の発信地として大きな存在感を持っています。ピラミッドやスフィンクスで知られるギーザ台地、アル=アズハル大学とモスク群が連なるイスラーム地区、コプト教会が残る旧カイロなど、重層的な遺産が同じ都市圏に同居しているのがカイロの特徴です。町の歴史をたどることは、地中海・アフリカ・中東という三つの世界の接点を理解する近道になります。

まず押さえたいのは、カイロが「古代エジプトの首都の延長」ではなく、主としてイスラーム期に成立・発展した都市であることです。古代のメンフィスやヘリオポリスの遺産の近くに位置しつつも、現在の都市としての核は、10世紀にファーティマ朝が築いた新都から始まります。その後、アイユーブ朝・マムルーク朝・オスマン帝国の時代を経て、近代化・植民地支配・独立・革命・冷戦・グローバル化という波を受けながら巨大都市へ成長しました。以下では、地理と成立、中世イスラーム都市としての繁栄、近代以降の変容、都市空間と文化遺産の四つの角度から、カイロの姿をわかりやすく整理します。

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地理と成立:フスタートから「征服者の都」へ

カイロはナイル川の東岸と西岸の双方にまたがる都市圏で、デルタの付け根に位置します。上流から運ばれる物資がここで集まり、下流の港湾へと分配される地の利を持ち、古来、交通と軍事の要衝でした。気候は砂漠気候ですが、ナイルの氾濫に支えられた灌漑農業が都市の背後に広がり、農産物・紙(パピルスの伝統を継ぐ紙産業)・織物・香料などの流通が活発でした。

イスラームのエジプト征服後、7世紀中葉にアムル・イブン・アル=アースがナイル東岸に築いた軍営都市が「フスタート(Fustat)」です。ここは行政と商業の中心として繁栄し、モスクや市場、住居が混在するアラブ都市の原型を示しました。10世紀、シーア派のファーティマ朝が北アフリカからエジプトへ進出すると、969年にフスタート北方に新都「アル=カー hira(勝利の都、これが後のCairo)」を建設します。ファーティマ朝はここに宮城や軸線道路を整え、アル=アズハル・モスクを創建して学問の拠点としました。都市名の「勝利」は、占星術上の吉時に起工したことにちなむと伝えられます。

新都カイロは、当初は王朝と近臣が居住する宮廷都市で、一般市民の主要な生活空間は引き続きフスタートにありました。しかし、政治と宗教の権威が北へ移るにつれ、市場や職人も次第に新都へ集まり、両者はやがて一体化して大都市へと成長していきます。こうして「旧カイロ(フスタート周辺)」と「カイロ(アル=カー hira)」の二重構造が、のちの広域都市圏の基盤となりました。

中世イスラーム都市の繁栄:アル=アズハル、城塞、マムルークの都

ファーティマ朝期、カイロはシーア派イスラームの中心として華やぎ、イフリーキヤ(北アフリカ)や地中海交易と結びつきました。アル=アズハル・モスクは神学・法学の講座を開き、のちに世界最古級の大学として知られる学術中枢へと成長します。建築では、門塔(ミナレット)や装飾的なストゥッコ、交差ヴォールトを持つモスクやマドラサが建てられ、多様な様式が交じり合いました。

12世紀末、サラーフッディーン(サラディン)がスンナ派復興を進め、ファーティマ朝に代わってアイユーブ朝を開くと、都市の勢力図は再編されます。彼はカイロとフスタートを見下ろす丘に「カイロ城塞(シタデル)」を築き、防衛と行政の拠点をここに置きました。城塞は以後、アイユーブ朝・マムルーク朝の政権中枢として増築され、モスク・宮殿・兵営が整います。シタデルをつなぐ大通り沿いにはマドラサやハンマーム(浴場)、スーク(市場)が連なり、職人ギルドと宗教施設が密接に結びついた都市空間が形成されました。

13〜16世紀のマムルーク朝期、カイロは紅海交易とインド洋世界の接点として、香辛料・糖・胡椒・織物・金属製品の集散地となり、同時に学術と宗教の中心でもありました。ハーン・ハリーリに代表されるキャラバンサライ(隊商宿・商館)が立ち並び、周辺にはマドラサ・サビール=クッターブ(公共給水施設兼初等学校)、スルタン・ハサンやアル=ムイッズ通りのモスク群など、壮麗な建築が次々と建てられます。墓廟建築の発達は都市景観に独特の輪郭を与え、「死者の都(ネクロポリス)」と呼ばれる墓地帯が城壁外に広がりました。

また、カイロは宗教的多様性を内包した都市でもありました。コプト正教会の教会と修道院、ユダヤ人共同体のシナゴーグ(カイロ・ゲニザで知られる文書群を残す)など、非ムスリム共同体が生活と信仰を営み、行き交う商人や学者が交文化的な知の交換を促しました。アラビア語の学統とギリシア語・シリア語・ヘブライ語の学知が重なる場でもあったのです。

近代の変容:オスマン、ムハンマド・アリー、植民地と独立、巨大都市への道

1517年、オスマン帝国がエジプトを編入すると、カイロは帝国の一州都としての地位に移行します。地中海交易の主軸が大西洋へ移るにつれ経済的比重は低下したものの、宗教・学術・商業の中心としての役割は維持されました。18世紀末、ナポレオンのエジプト遠征は、近代科学と出版の刺激をもたらし、フランス語資料の翻訳や測量・印刷が近代化の端緒となります。

19世紀前半、ムハンマド・アリー朝のもとで、近代化と中央集権化が加速しました。綿花経済の拡大、徴兵制、官僚制の整備、学校と工場の設置、劇場・オペラの導入、街路と上下水の整備など、都市の姿は大きく変わります。ナイル川東岸にはパリ風の街路と広場が開かれ、ヨーロッパ式の官庁街・住宅街が誕生しました。スエズ運河の開通(1869)はカイロの国際性を再び高め、欧州資本と政治介入の度合いを強める契機ともなります。

1882年、英軍の介入によりエジプトは事実上のイギリス保護国となり、カイロは植民地統治の行政中枢として機能しました。第一次世界大戦後、エジプトは形式的独立(1922)を得ますが、英軍駐留や外交権の制約が続き、都市は民族運動と政争の舞台になります。第二次大戦期には連合国の重要拠点となり、1943年にはローズヴェルト・チャーチル・蒋介石が会談した「カイロ会談」が開かれました。戦後、1952年の自由将校団による革命で王制が廃され、ナセルの下でアラブ社会主義と国有化、汎アラブ主義の拠点としてのカイロが形づくられます。

20世紀後半以降、カイロは人口が急増し、近郊のギーザ、シャルキーヤ、カリュービーヤへと都市圏が拡大しました。旧市街の高密度化、住宅不足、交通渋滞、環境負荷、インフォーマル居住地の拡大といった課題が顕在化する一方、文化産業や教育、観光は経済の柱であり続けました。2011年には、タハリール広場を中心に民主化と社会改革を求める大規模な市民運動が起こり、都市空間が政治参加の象徴的な舞台となりました。その後も行政新都建設や都市インフラの拡充が進められ、歴史保全と開発の両立が現在進行形の課題です。

都市空間と文化遺産:旧カイロ、イスラーム地区、ギーザのピラミッド

カイロの見取り図をつかむには、いくつかの“核”を押さえると分かりやすいです。第一は「旧カイロ(フスタート周辺)」で、アムル・モスクやコプト地区(ハンギング・チャーチほかの古代教会群)、バビロン要塞跡が集まります。ここはイスラーム以前・以後の信仰の地層が折り重なった空間です。

第二は「イスラーム地区(ヒストリック・カイロ)」で、アル=アズハル・モスクと大学、ハーン・ハリーリ市場、サイードナ・フセイン・モスク、スルタン・ハサン・モスク、アル=リファーイー・モスク、アル=ムイッズ通りのマムルーク建築群、カイロ城塞(シタデル)とムハンマド・アリー・モスクなどが徒歩圏に重なります。石造の門(バーブ・ズウェイラやバーブ・ファトフ)と城壁、サビール=クッターブの公共建築は、マムルークの都市美学を今に伝えます。細い路地に工芸と香辛料の匂いが渦を巻き、キャラバン都市の記憶が日常に残っています。

第三は「近代カイロの中心部(タハリール広場—カスル・アン=ナイル—解放博物館周辺)」です。ここには博物館(ツタンカーメンゆかりのコレクションで知られた旧エジプト考古学博物館、移転整備が進む新施設群)、大学、官庁街、劇場が並び、19—20世紀の欧風都市計画の痕跡が色濃く残ります。広い通りとラウンドアバウト、石造のビル群は、ムハンマド・アリー期以降の都市近代化の記憶を宿しています。

第四は「ギーザ台地」で、クフ王の大ピラミッドなど古王国時代のピラミッド群とスフィンクスがそびえます。行政上はカイロ市外に位置しつつも、都市圏の一部として観光・研究・教育の拠点です。ピラミッドは古代エジプト文明の象徴であると同時に、近代以降の考古学の実験場であり、地域社会と観光産業の関係を考える現場でもあります。

文化面では、映画・音楽・出版の都としての顔も見逃せません。アラブ映画の中心としてエジプト映画産業は長い歴史を持ち、ウム・クルスームに象徴される音楽文化、衛星テレビと出版市場は、アラビア語世界の言語標準化と大衆文化を牽引しました。料理ではコシャリやフール、ターメイヤなどの庶民食が愛され、コーヒーハウスは議論と詩の場として機能します。サッカーやクラブ文化、大学生のカフェ文化など、若者の都市文化も常に更新されています。

最後に、カイロの理解の鍵は「重層性」にあります。古代の遺産とイスラーム都市、中世の学術と交易、オスマン的行政、近代の街路と劇場、革命の広場と現代の高速道路――これらが同じ地平に並存し、競い合い、ときに衝突しながら、巨大都市の時間を刻んできました。歴史は博物館に閉じこもらず、路地や橋、広場、モスクと教会の鐘の音に宿っています。カイロを学ぶことは、文明の接点に生きる都市が、どのように伝統と更新を折り合わせてきたのかを知ることです。