キレナイカは、リビアの東部沿岸から内陸高原にかけて広がる歴史地域で、古代ギリシア植民市の栄光、ローマ帝国の穀倉と名産シルフィウムの記憶、ビザンツとイスラーム世界の交錯、近代ではサヌーシー教団と反植民地運動の中心、そして独立リビア王国・現代リビア政治の重要舞台という、多層の歴史が重なった土地です。地中海を望む港湾(ベンガジ、デルナ)と、海岸線の背後に広がるジェベル・アフダル(緑の山)の高原、さらにサハラへ滑り込むオアシス群が一体となり、季節風・隊商・海運が結ぶ結節点として発展してきました。古代のキュレネー(キレネ、英: Cyrene)に始まる都市文化は、科学・哲学・詩、農業と交易、宗教と教育の拠点を育み、近現代にはサヌーシー教団と王家イドリースがリビア国家形成の核となりました。今日の政治・安全保障においても、キレナイカは東部のアイデンティティと資源、連邦制・地方自治の議論の焦点であり続けています。以下では、地理と名称、古代の形成とローマ時代、中世・近世の変容、近現代の政治社会という四つの観点から、キレナイカの歴史をわかりやすく整理して解説します。
地理と名称:海・高原・砂漠が重なる結節点
「キレナイカ」は、古代都市キュレネー(キレネ)の名に由来し、地中海に面したリビア東部一帯を指す呼称です。西はシルトの湾(大シルト湾)に近いキレナイカ・トリポリタニア境界、東はエジプト国境、北は地中海、南はサハラのオアシス・回廊(ジャガブーブ、ジャラブーブ、クフラなど)へと続きます。海岸沿いの狭い平野の背後にはジェベル・アフダルと呼ばれる石灰岩台地・高原が広がり、地中海性気候とカルスト地形がもたらす湧水・肥沃土壌が古来の農業を支えました。オリーブ、ブドウ、穀物に適したこの高原は、古代から中世にかけて「緑の山」と称され、沿岸港湾と内陸交易の双方にとって重要な経済基盤でした。
主要都市には、古代のアポロニア(キュレネーの外港、のちのトレメセーン=トレミタ)、ベレンニケ(現ベンガジ)、バルカ(のちのバルカ、ベンガジ近郊)、ポレミス(トレミス、のちのトロポリス)、デルナなどが含まれ、これらはしばしば「五都市(ペンタポリス)」として括られました。港は海上交易の窓であると同時に、高原の農産物・アラビアやナイル方面の物資、サハラ縦断の隊商品が集まる集散地として機能しました。海と陸の二重のネットワークに繋がる立地が、キレナイカを地中海とサハラ世界の接点にしたのです。
古代:ギリシア植民市キュレネーとローマのキレナイカ
キレナイカの都市文明は、前7世紀、エーゲ海のテーラ島(現サントリーニ)から移住したギリシア人がキュレネーを創建したことに端を発します。伝承では王バットス(Battus)が導き、肥沃な高原と湧水を求めて定着したとされます。キュレネーは、アポロニア(外港)、バルカ、エウセペリデス(のちのベレンニケ=ベンガジ)、トカラエ(トカレ)などの周辺都市とともに〈キュレナイカのペンタポリス〉を形成し、穀物・オリーブ油・ワイン・馬などの農牧生産、そして特に名高い〈シルフィウム〉(学名不詳の芳香植物、薬用・調味用)の採取・輸出で繁栄しました。シルフィウムは硬貨の図像にも刻まれ、キュレネーの象徴として古典古代の文献に頻出しますが、過採取と環境変化で早期に姿を消したと伝えられます。
学芸面では、キュレネーはヘレニズム世界の知の拠点の一つとなりました。数学者エラトステネス(出生地については諸説ありますが、キュレネーゆかりの学者)、哲学者アリステッポス(快楽主義のキュレネー派の祖)、詩人カリマコス(アレクサンドリアで活躍)などの名が知られ、都市はギリシア的教養とエジプト・オリエント知の交差点でした。宗教面ではギリシアの神々(アポロン、デメテルなど)の聖域が整備され、都市国家の制度とともにポリス文化が根づきます。
前4世紀〜前3世紀、キュレネーは時にエジプトのプトレマイオス朝の影響下に入り、王女ベレニケの名を冠した都市改称に見られるように、プトレマイオスの海上権力と結びつきました。やがてローマの勢力拡大とともに、前1世紀には「クレタ・エト・キュレナイカ(クレタ島およびキレナイカ)」として属州化され、のちに両者は分離し、キレナイカはローマの穀物供給地・牧畜地として組み込まれます。都市はローマ風の公共建築(フォルム、浴場、劇場)を整備し、ギリシア・ローマ文化の重層が進みました。
この時期、ユダヤ人共同体の存在も重要です。移住とディアスポラの進展により、キレナイカ各都市にはユダヤ教徒が居住し、後に初期キリスト教の伝承でも「キレネ人」が言及されます。2世紀初頭のユダヤ人反乱(いわゆるキトス戦争、115–117年)では、キレナイカの都市で激しい衝突が起こり、ローマの鎮圧で都市社会は大きな打撃を受けました。その後、ビザンツ期にはキレナイカは行政区として再編され、キリスト教司教座が整えられます。
中世・近世:ビザンツ、アラブ征服、オスマン支配とサヌーシー教団
7世紀、イスラームの拡大に伴い、アラブ軍はエジプトから西進してキレナイカ(アラビア語でバルカ)を掌握しました。以後、ウマイヤ朝・アッバース朝の枠組み、地域のベルベル系勢力、ファーティマ朝(10世紀以降)の影響が重なり、沿岸の都市はイスラーム都市として再編されます。交易はエジプト・マグリブ・地中海の回路に乗り、内陸オアシスはサハラ縦断交易の結節に位置づけられました。中世の地理書は、キレナイカの都市と道路、井戸、隊商路の配置を記録し、沿岸と砂漠縁辺の二重構造が続いたことを示します。
16世紀以降、オスマン帝国がトリポリタニアを中心に北アフリカ沿岸を統治する中で、キレナイカもその行政圏に組み込まれました。地方の自治・部族勢力との折衝が政治の実務であり、沿岸の港は地中海通商と海賊・私掠の揺らぎの中で変動します。こうした中、19世紀にキレナイカを一変させたのがサヌーシー教団(サヌーシーヤ)です。ムハンマド・イブン・アリー・アッサヌーシーが創始したこのスーフィー系教団は、禁欲・規律・教育・労働を重んじ、オアシスのロッジ(ザーヴィヤ)を拠点に宗教教育・仲裁・公益事業を行い、遊牧・商人・農民を横断する社会的ネットワークを構築しました。
サヌーシー教団は、オスマンと協調しつつも地域の実力者として、隊商路の安全確保、部族間紛争の調停、課税と救済を担い、キレナイカ社会の統合軸になりました。欧州の帝国主義が迫ると、彼らは反殖民の抵抗を組織し、のちに王家(イドリース1世)を輩出します。この宗教・社会運動の基盤が、近代の政治形成に直結した点が、キレナイカの特質です。
近現代:イタリア統治、独立王国、冷戦・内戦と今日
1911年、伊土戦争でイタリアがトリポリタニアとキレナイカを占領し、植民地化が進みました。イタリアは都市インフラ・道路・港湾の建設を進める一方、土地接収や定住植民政策を推し進め、部族社会とサヌーシー教団の抵抗に直面します。とくにオマール・ムフタールが率いたゲリラは1920年代に持久戦を展開しましたが、ファシスト期の強制移住・収容・飢餓政策で多大な犠牲を強いられました。イタリアはキレナイカのオアシス間に道路を敷設し、沿岸に新植民都市を建設しましたが、住民社会との隔たりは最後まで埋まりませんでした。
第二次世界大戦では、キレナイカは北アフリカ戦線の主舞台となりました。ベンガジ、デルナ、トブルクなどの港湾・要地は英連邦軍と伊独軍(ロンメルのアフリカ軍団)のあいだで幾度も奪い合われ、砂漠戦の象徴的地名となります。戦後、国際管理と協議を経て、1951年にサヌーシー教団の指導者イドリースが国王(イドリース1世)となり、リビア王国が独立しました。独立当初、リビアはキレナイカ(東)、トリポリタニア(西)、フェザーン(南)の三州連邦制を採用し、キレナイカには大きな自治が認められます。1963年には単一国家制に移行し、油田開発の進展で国家財政が潤う一方、地域間配分と中央集権をめぐる緊張が露わになりました。
1969年、ムアンマル・カッザーフィーのクーデタで王政が倒れ、ジャマーヒリーヤ体制が発足すると、サヌーシーの伝統は抑圧され、部族・地域バランスをめぐる政治操作が行われました。2011年の蜂起では、ベンガジが反体制運動の震源地となり、東部の市民社会・部族・旧軍関係者が中心となって政権に挑みました。内戦と国家分裂の過程で、キレナイカは安全保障上の独自性、石油施設の掌握、地方統治の枠組みをめぐる議論の中心であり続け、連邦制や地方自治の再評価が繰り返し浮上します。現代の課題は、国家機構の再統合、治安部門の統制、資源収入の公正配分、公共サービスの回復であり、キレナイカの安定はリビア全体の安定と密接に結びついています。
社会経済面では、沿岸都市の教育・医療・雇用と、内陸オアシス・農牧地域の生活機会の格差是正が重要です。ジェベル・アフダルの農業潜在力(オリーブ・果樹・穀物)の回復、港湾・物流の再生、考古遺産(キュレネー遺跡群、アポロニア遺跡)の保護と観光の持続可能な活用は、地域発展の鍵になり得ます。古代の石造都市遺跡は、紛争と略奪で傷つきやすく、国際協力と地域コミュニティの参画が不可欠です。
総じて、キレナイカは、海・高原・砂漠を束ねる地理の力の上に、ギリシア—ローマ—ビザンツ—イスラーム—オスマン—サヌーシー—イタリア—リビア国家という層を重ねた「歴史の地層」そのものです。古代の学芸と交易、スーフィー教団の社会統合、反植民地闘争、現代の国家建設という連続を一つの視野で捉えることで、地域が抱える可能性と難題の両方が見えてきます。キレナイカの物語は、地中海とサハラ、アフリカとユーラシアが交差する場所で、人々がどのように資源と知識、信仰と政治を編み合わせてきたかを教えてくれます。

