「科挙(清)」は、明以来の学識選抜制度を満洲王朝である清が継承・再編し、帝国運営の中核として三百年近く運用した巨大な官僚登用システムです。清は皇帝の名による公的選抜を堅持しつつ、満漢併用の原理や省別名額、厳格な監試と不正対策、朱子学を基礎とする標準解釈の徹底、そして殿試による最終認証を通じて、広大な領域と多民族から成る帝国を一つの行政文化に束ねました。郷試(省級)—会試(中央)—殿試(宮廷)という三段階枠組みは変わらず、地方の生員(秀才)→挙人→進士という学位階梯が、地方社会から中央政権へ人材を供給する主動脈として機能しました。他方で、科挙の成功は、受験競争の過熱、学問の規格化(八股文)の固定、技術・実務教育の遅れ、買官・捐納や派閥化といった副作用も招き、近代の門口で制度疲労を露わにします。最終的に1905年、清は科挙を廃止し、近代教育・官吏登用へ移行しました。本稿では、制度の枠組みと運用、社会・文化への波及、政治構造との関係、限界と廃止への道筋という観点から、清代科挙の要点をわかりやすく整理します。
制度の枠組み:三段階選抜、満漢併用、名額と監試
清の科挙は、三年ごとを原則とする定期実施で、秋の郷試・翌春の会試・続く殿試という連続工程で運用されました。郷試は各省城の貢院で実施され、省ごとの定員(名額)に基づいて挙人が選ばれます。会試は都城の礼部貢院で全国規模の筆答選抜を行い、合格者(貢士)が宮中の殿試に進みます。殿試は皇帝臨御のもとで最終名次を定め、首席から順に状元・榜眼・探花の栄誉称が与えられました。殿試の合格者は一律「進士及第」の資格を得て、翰林院や部院・地方官僚への任用の門戸が開かれます。
満洲王朝としての清は、満漢併用を原理に据えました。中央の要所では満文・漢文の併用と訳官制度が運用され、科挙でも満洲語・蒙古語の翻訳や満文経義を課す「翻訳科」や、満洲旗人向けの取士枠(旗人名額)が併置されました。もっとも、全国の多数派である漢文進士の比重は大きく、行政文書・裁判・税務の基軸は漢文官僚が担いました。省別の名額配分は、人口・学統・政治均衡を斟酌して設定され、地域偏在の是正と地方社会の安定に資する政治装置として機能します。
監試と不正対策は、明末の混乱経験を踏まえて極めて厳格でした。試場は高い壁と警備に囲まれた貢院で、受験者は狭小な号房(個別ブース)に収容され、持ち物検査・着衣検査・休憩や食事の規則などが細密に定められました。答案は「糊名」により氏名を隠し、さらに誊録(写し書き)して筆跡鑑別を防止、複数採点と巻替(採点用番号差し替え)で公正を担保しました。監臨官の交替制、密告制度、違反時の重罰が、制度への信頼を支えます。
出題と学問スタイル:朱子学の標準化と八股文の規格
清の科挙は、基本的に朱子学(性理学)を国家正学として運用しました。四書五経の章句・義理に関する標準解釈は朱熹の注疏を柱とし、これを踏まえた「経義」と、現下の施政課題に意見を述べる「策論」、文書実務力を測る「帖文」などが主要な出題形式でした。特に進士科の答案は八股文(起・承・起・合など定型段を踏む文体)によって均質化され、論理の構成・典拠の運用・語句の整斉といった技術が重んじられます。これにより、採点の基準は明確になり、全国的な可視性と公平性が高まる一方、表現の自由度と創意の幅は狭まり、学問の「正解化」が進みました。
策論は、河川治水・漕運・倉儲・戸籍・租税・兵餉・辺防・少数民族統治・鹽政や茶馬交易、司法の冤獄防止など幅広い政策領域を扱いました。良い答案は、古典と史例を踏まえつつ現実の状況に即して筋道立てた提案を示すもので、単なる空論や美文は減点の対象でした。とはいえ、官学的正統から外れた独創は評価されにくく、制度が長期化するほど、模範答案の参照と「策例」の丸暗記が横行する傾向が強まりました。
理工・算学・医学・法学などの実務領域は、制科(臨時特別試)や専門官庁での登用で補われましたが、通常の科挙の主流には位置づけられませんでした。これは、行政の骨格を文書・裁判・徴税・儀礼運営と見なす伝統の反映であり、近代的職能官僚の育成とは方向が異なります。
社会・文化への波及:士大夫の再生産、出版・教育と都市文化
清代科挙は、地方社会の教育投資と都市文化を強力に牽引しました。郷里の書院・社学・私塾は、朱子学の読解法と八股の作文訓練を提供し、宗族は学田や蔵書を整備して有望な子弟を支援します。挙人・進士の称号は、婚姻市場・地域の秩序・慈善事業の主導権など、広範な社会資本に転化しました。これにより、〈士大夫〉という統治協力層が毎世代再生産され、地方統治の中核(郷紳)として税・治安・災害救助・学校運営を担います。
出版文化も大いに発展しました。注疏・類書・策例集・蒙求や蒙学教材、答案の範文、禁書目録や避忌字一覧に至るまで、受験市場が書籍産業を刺激しました。大都市の書肆は、出題傾向を分析した「題庫」や模範答案の小冊子を量産し、受験生は模擬試験(試帖)や文会で切磋琢磨します。省城の貢院周辺は、旅店・筆墨紙商・代書屋・護符売り・食肆が集積する一大経済圏を形成し、合格者名の榜掲は市民の祝祭になりました。
しかし、競争の過熱は家計に重い負担をもたらし、若年から中年に至るまで受験を続ける「長期受験」の常態化、落第者の増大、教育資源の地域間格差といった問題を生みました。受験のための読書が生活の大半を占め、実務能力や技術教育が後景に退く副作用は、産業・軍事の近代化が遅れる一因とも指摘されます。
政治構造との関係:皇帝権の正統化、官僚制の運転と制度疲労
科挙は、皇帝権の正統化装置でもありました。殿試を通じて「人事の根源は天子にあり」を可視化し、満漢を越えた公的競争の象徴としての威信を維持します。清初の博学鴻詞科(文人招へいの特別試)や恩科(臨時増員)などの制科は、学術・言論統制や挙国的動員と結びつき、文化面の統合にも用いられました。官僚制の運転では、進士の一部が翰林院に入り、詔勅の起草や史書編纂、科挙の出題・採点を担い、他は部院・地方官として行政の現場を担いました。
とはいえ、長期運用は制度疲労を不可避にします。第一に、内容の固定化です。八股文の過度な規格化は、行政の創造力を削ぎ、技術・法務・財政の専門性を軽視する傾向を強めました。第二に、官僚供給の過多と昇進待機者の滞留です。挙人・進士の絶対数が増加する一方、欠員とのミスマッチが生じ、候補者の長期無官待機や臨時職(候補吏・書吏)への流出が発生します。第三に、買官・捐納の活発化です。戦費や事業費の不足を補うために捐納(寄付による肩書・階位の取得)が制度化され、科挙以外のルートが広がると、科挙の独占的正統性は相対化されました。
地方軍事の課題も大きく、太平天国や捻軍などの内戦期には、郷勇・団練の指揮を文官が担いつつも、軍事専門性の欠如や補給の不備が露呈します。曾国藩・李鴻章らは科挙出身の文官でありながら実務・軍事を学び直し、洋務運動(自強運動)で新式工場・海軍・翻訳館などの近代的要素を導入しましたが、制度の本体—科挙—は依然として古典解釈に閉じていました。
廃止への道筋:改革の模索から1905年の終止符
十九世紀後半、外国勢力との戦争と不平等条約、財政難と社会不安は、統治の知的基盤そのものに再考を迫りました。洋務運動は実学・技術導入を進めたものの、科挙は依然として古典偏重で、近代軍政・財政・法制に必要な専門教育を十分には供給できません。戊戌変法(1898)では科挙改革が提起され、策論の実務化・時務学の導入が検討されましたが、政治的挫折により本格実施には至りませんでした。
義和団事件後の新政(1901)で方針は大きく転換し、科挙の内容改革(八股の緩和、時務策の増加、算学・格致の導入)が試みられます。最終的に1905年、朝廷は科挙の全面廃止を布告し、近代学校体系(小学校—中学—師範・専門—大学)と新しい官吏登用(学堂出身者の昇進、留学生登用、試験の現代化)へ移行しました。1906年には学部(後の教育部)が設置され、教育行政の近代化が制度的に始動します。こうして、千年規模で続いた公選制度は、近代国家の職能官僚制へとバトンを渡しました。
廃止は単なる断絶ではなく、連続でもありました。公開競争・答案匿名化・多重採点といった「公平の技法」は、公務員試験や学校入試に受け継がれ、学位・資格が社会移動を媒介する構造も形を変えて残りました。一方、八股文的な正解主義や過度の受験準備がもたらした弊害も、近代以降の「試験社会」への教訓として語り継がれます。
総じて、科挙(清)は、「公選の権威」「行政文化の統一」「地方—中央の接続」を高い水準で実現した制度でした。同時に、その成功が生んだ硬直と過剰、専門教育の遅滞は、帝国の近代的競争における弱点となりました。清代の経験から学べるのは、巨大な選抜制度が社会全体の学び・仕事・家族・政治をどう形づくるか、そして制度の標準化と多様性・創造性をどう両立させるかという、今なお続く根本問題です。科挙の歴史をたどることは、知をどう公平に測り、どう公共に役立てるかという普遍的課題を考える入口でもあるのです。

