「学院(マドラサ)」とは、イスラーム世界で発達した学びの場を指す言葉で、広くは「学校」という意味を持ちます。アラビア語の madrasa は本来「学ぶ場所」を表し、必ずしも宗教専門学校だけを意味しません。歴史上のマドラサは、礼拝の場であるモスクと結びつきながら、法学や神学だけでなく、文法学、修辞学、天文学、医学、数学、地理学、歴史など多様な学問を教え、図書館や寄宿舎、施療院を併設する複合施設として機能しました。寄進(ワクフ)によって運営費が賄われ、学生は地域と身分を越えて集まり、学者からの許状(イジャーザ)を得て学問の系譜に連なっていきます。近世オスマン帝国やムガル帝国、中央アジアのサマルカンド、エジプトのアズハル、モロッコのカラウィーン、イラクのニザーミーヤやムスタンシリーヤなど、各地で個性豊かなマドラサが栄えました。近代に入ると、植民地支配や国家の教育制度の再編を受けて、マドラサは多様なかたちに分岐し、今日では宗教教育機関から総合大学まで幅広い姿で存続しています。以下では、語の意味と成立の背景、制度と学問世界、地域ごとの展開、近代以降の変容という観点から、マドラサの実像をわかりやすく解説します。
語義と成立背景:モスクの学びから専門の学寮へ
マドラサという語は、アラビア語の動詞 darasa(読む・学ぶ)に由来し、「勉学の場所」という素朴な意味を持ちます。初期イスラーム期には、モスクの講座(ハラカ)でクルアーンの読誦、ハディース(預言者言行録)、イスラーム法(フィクフ)が教えられ、学者(アーリム)と弟子が輪になって議論する形が基本でした。10〜11世紀ごろになると、都市の人口増加と学科の分化、巡回する学者の増加に対応して、寄宿・食事・奨学金・図書の供給を一体化した常設の学寮が整えられます。これが施設としてのマドラサです。
成立を後押ししたのが、宗教的寄進(ワクフ)です。土地や商店、浴場、農地などの収益物件が学寮の維持にあてられ、寄進者は社会的威信を得る一方、学問と福祉に資する公共財を残しました。ワクフは、授業料無料や食事の提供、学者の俸給、書籍の購入、宿舎の整備などに使われ、国家の歳入に頼らずとも安定した運営を可能にしました。政治権力にとっても、正統な学派と法学教育を支援することは、統治の正当性を高める効果がありました。
マドラサはモスクから独立した建築単位として設けられることも多く、四イーワーン(アーチの開放廊)型の中庭式平面、講義室、宿舎、図書室、湯殿、厨房、施療院を抱えた複合施設に発展します。正門には寄進文や創建者の銘、カリグラフィーと幾何学装飾が施され、都市景観の中核をなしました。学生は「旅する学徒」として都市から都市へ移動し、名高い師を訪ね歩く習慣を持ち、学問のネットワークは広域に伸びていきました。
制度と学問世界:法学を核に、広がるカリキュラムと資格
マドラサ教育の核はイスラーム法学でした。スンナ派では、ハナフィー、マーリキ―、シャーフィイー、ハンバルといった四法学派が都市と時代によって優勢を競い、マドラサは特定学派の教育と裁判実務の人材養成を担いました。神学(カラーム)、クルアーン読解学、ハディース学、アラビア語文法(ナフウ)、修辞学(バラーハ)、韻律学、書記術(カーティブ術)などが基礎教養として学ばれます。
同時に、いわゆる「理性の学」(ʿulūm ʿaqliyya)と呼ばれる数学・幾何・天文学・医学・薬学・光学・音楽理論・地理学も、時期と地域によっては重要科目でした。観測所を併置して暦法を整えたり、病院(ビーマーリスタン)と連携して臨床教育を行ったりする例もありました。必ずしもすべてのマドラサが理系教育を担ったわけではありませんが、宗教と科学の分離以前の学術世界では、カリキュラムは相互に重なり合っていました。
学位は、今日の一律な学士・修士のような官製資格ではなく、師から弟子に与えられる「イジャーザ(教授許可証)」が基本でした。これは特定の書物や学科を教授する能力を師が認める証で、師資相承の連鎖(イスナード)を可視化します。ある書の読了・注釈の理解・討論の合格が確認されると、そのテキストに関する教授権が与えられるのです。都市には権威ある師の系譜が存在し、学生は自らの履歴(どの師から何のイジャーザを得たか)を名刺代わりにして、裁判所、官庁、マドラサ、モスクの職に就きました。
運営面では、校長に相当するシェイフやムダッリス(教授)、助教、書記、図書館司書、給食や学生監督を担う職員が配され、ワクフ台帳には彼らの俸給、授業時間、科目、寄宿舎の規律まで細かく記されました。授業は講読・暗誦・筆記・質疑の組み合わせで進み、試験は口頭の問答が中心でした。都市ごとに学風が異なり、法学重視の都市もあれば、哲学・論理学や数学を重んじる学派が生まれた都市もあります。
地域ごとの展開:エジプト・イラク・マグリブ・オスマン・インド・中央アジア
エジプトのアズハルは、10世紀に創建され、長期にわたりイスラーム世界の代表的教育拠点として機能しました。中庭と回廊に学びの輪が広がり、各地から学生が集い、寄進で維持されました。イラクでは、11世紀に宰相ニザーム・アルムルクが各都市に設けたニザーミーヤ学院が有名で、バグダード校はアッバース朝の都にふさわしい規模と威信を誇りました。13世紀のムスタンシリーヤ学院は、法学四学派の講座を併置し、医学・数学・文法の講座まで備えた総合学院として知られます。
マグリブ(モロッコ)・アンダルスでは、カラウィーン(カラウィイン)と呼ばれる学堂が9世紀に始まり、のちにマドラサとして制度化されました。ここでは法学と神学に加え、天文学・数学・医学なども教授され、サハラ越え交易の知識人ネットワークとも結びついていました。チュニスのザイトゥーナも同様の役割を果たしました。
オスマン帝国では、メフメト2世時代のファーティフ複合施設やスレイマニエ複合施設に付属するメドレセ(トルコ語形)が整備され、段階的なカリキュラムと昇進制度が作られました。官僚・法官(カーディー)・ムフティー(法意見の権威)を育て、帝国の広域統治を支えます。建築的には、細密なタイル装飾と中庭式の学房が特色で、図書館や天文台を備えたものも多くありました。
インド・南アジアでは、デリー・スルターン朝からムガル帝国期にかけてマドラサが各都市に建てられ、イスラーム法官や書記官の養成、ペルシア語官僚文化の継承を担いました。近代にはディオバンド派(ダールル・ウルーム・デオバンド)やナドワト・ウラマーなどの宗教学校が生まれ、古典学科目を保持しつつも植民地支配や国家制度との関係を模索しました。東南アジアでは、マレー世界のポンドック/ペサントレン、パタニやスマトラのスーラウ、ジャワのキアイを中心とした学寮が、在地社会のイスラーム化と識字・商業の拡大に寄与しました。中央アジアでは、ブハラやサマルカンドのマドラサ(ウルグ・ベク学院など)が数学・天文学の学派で名高く、星表や観測器の製作と結びついていました。
近代以降の変容:国民国家の教育制度とマドラサの現在
19〜20世紀、マドラサは大きな岐路に立ちました。植民地支配と国民国家の誕生は、中央集権的な教育省・学校制度・国家試験を整備し、学位の国家標準化を進めました。多くの地域で、マドラサは宗教教育の専門機関に縮小されたり、逆に大学化して国家制度の中核へ組み込まれたりしました。エジプトのアズハルは大学へ改組され、法学・神学に加えて現代学部を併置する道を選びました。トルコでは共和国期に宗教教育が再編され、イマーム・ハティップ校や神学部という新制度がつくられました。南アジアの宗教学院は、古典カリキュラムを保持する一方、現代語や数学、理科、情報教育を部分的に取り入れる動きもあります。
現代の公共空間では、「マドラサ」という語に政治的含意が付与されることがあります。しかし歴史的には、マドラサは地域社会の識字と法秩序、福祉と学術を担った基幹インフラでした。寄進にもとづく非営利の運営、学者共同体の自治、都市間移動と師資相承の知的ネットワーク、モスク・市場・宿駅・浴場と連結した都市機能など、マドラサは前近代の「知のプラットフォーム」として働いてきたのです。今日の評価では、宗教教育の質保証、卒業生の職業的出口、国家カリキュラムとの整合、ジェンダー平等や女子教育の機会、教員養成と財務の透明性などが主要な論点になります。
最後に補足として、マドラサとヨーロッパ中世大学の関係がしばしば話題になります。両者に共通するのは、寄付にもとづく運営、学寮と講堂の構造、学術資格の授与、都市に根ざした公共性といった点です。他方で、カリキュラムや自治形態、法的枠組みには大きな違いがあり、単純な起源関係として描くのは適切ではありません。むしろ、イスラーム圏とラテン・キリスト教圏が交易と翻訳運動を通じて互いに影響を及ぼし合い、学術文明の広域的な連関を作り上げた、と捉えるのがバランスの取れた理解です。
総じて、マドラサは一つの固定した像ではなく、都市と寄進に支えられた学びの仕組みの総称です。法学の講義が中心の小規模な学寮から、図書館と病院を併設した総合学院、現代の大規模大学に至るまで、その姿は時代と地域によって変わり続けました。マドラサを学ぶことは、イスラーム世界の知の作法、都市社会の構造、宗教と科学の関係、そして教育と公共性の歴史を理解する近道になります。名称のステレオタイプにとらわれず、具体の制度と人々の実践に目を向けると、その多様性と創造性がくっきりと見えてくるはずです。

