拡大EC(欧州共同体の拡大)とは、1957年に発足した欧州経済共同体(EEC、のちに欧州共同体EC)に、創設6か国以外の欧州諸国が段階的に加入していった過程を指します。1973年のイギリス・アイルランド・デンマーク加盟で「九か国体制」となり、1981年のギリシャ、1986年のスペイン・ポルトガルの加盟で「十二か国体制」へと広がりました。冷戦下の西欧統合の深化と、民主化や市場統合の進展が同時に進んだことが特徴で、域内関税の撤廃を超えて規制や基準、通貨協力までを含む「単一市場」への道をひらいた動きです。拡大は、農業政策や地域格差、予算負担、域外との関係(EFTAや旧植民地との通商)など多くの課題も伴いましたが、欧州が一つの大きな市場として結びつく流れを決定づけた出来事でした。本稿では、英の加盟問題から南欧の民主化、単一市場の実現と制度整備、通貨・財政・対外関係に至るまで、拡大ECの意味と具体像を分かりやすく整理します。
当初の共同体はフランス・西ドイツ(当時)・イタリア・ベネルクス三国の「六か国」でしたが、欧州経済の重心はより広域化していました。英仏の思惑、EFTAとの競合、農業保護と工業輸出のバランス、冷戦構造における西側の結束、といった政治経済の要因が絡み合い、拡大は一気呵成ではなく交渉と妥協の積み重ねによって進みました。加盟希望国は国内産業や農業の調整、関税・規制の大幅な変更を迫られ、既存加盟国側も予算と政策の再設計が必要でした。こうした摩擦を乗り越えた先に、1993年の単一市場完成、1992年のマーストリヒト条約によるEU(欧州連合)への発展が見えてきます。
英の加盟をめぐる攻防と第一次拡大:EFTAからECへ
拡大ECの第一幕は、イギリスの加盟問題でした。1950年代末、イギリスは域内市場の関税同盟を軸に急成長するEECに対し、より緩やかな「自由貿易圏」を構想し、スウェーデン・ノルウェー・デンマーク・スイス・オーストリア・ポルトガルとともにEFTA(欧州自由貿易連合)を結成しました。EFTAは工業製品の関税引き下げを進めましたが、農業や対外共通関税、共通政策を欠くため、規模の経済や交渉力の面でEECに劣後しがちでした。イギリスは次第にEEC加盟の必要性を認識し、1961年と1967年に加盟交渉を開始します。
しかし道は平坦ではありませんでした。フランスのド・ゴール大統領は、英のアメリカ依存や農業政策の対立を理由に二度にわたって拒否権を行使し、交渉は頓挫します。フランスが重視したのは、共通農業政策(CAP)の維持と、ECの政治的一体性でした。英国内でも、農業補助金や食品価格、コモンウェルス諸国との特恵関係の処理が論点となり、加盟の賛否は割れました。ド・ゴール退任後に雰囲気が変わり、1970年以降に交渉が再開、関税・農業・予算分担などに関する移行期間と調整措置がまとめられ、1973年にイギリス、アイルランド、デンマークが加盟しました(ノルウェーは国民投票で否決)。
この第一次拡大で、ECは北海・大西洋へと地理的裾野を広げ、金融・サービス・海運など英の強みが共同体に加わります。他方で、農業中心のCAPと英の食料輸入構造の整合、漁業資源をめぐる共同漁業政策(CFP)、予算拠出と受益のバランスといった新しい摩擦が生まれました。1984年にはサッチャー政権が「英国の払い過ぎ(ブリテン・リベート)」を強く主張し、補正措置が導入されます。拡大は、単に国数が増えるだけでなく、制度の再設計を迫る契機でもあったのです。
南欧拡大と単一市場への道:民主化・地域格差・制度整備
第二幕は南欧拡大です。1970年代半ば、ギリシャ(軍事政権崩壊後)、スペイン・ポルトガル(いずれも独裁体制の終焉と民主化)で政治体制が転換し、西欧民主主義への復帰を象徴するEC加盟が目標となりました。EC側にとっても、南欧の民主化を経済的恩恵で「固める」ことは、冷戦期の政治安定に資する課題でした。1981年にギリシャ、1986年にスペインとポルトガルが加盟し、ECは十二か国体制になります。
南欧拡大は、地域格差の問題を一気に可視化しました。南欧諸国は農業や繊維・造船など労働集約産業の比率が高く、生産性の低さや失業、インフラ不足を抱えていました。ECは構造基金や地域開発基金を拡充し、道路・港湾・教育・職業訓練への投資を通じて「収斂(コンバージェンス)」を支援します。農業分野ではCAPの支出増が避けられず、価格支持からより効率的な直接支払いへと軸足を移す議論が始まります。漁業では地中海・大西洋の資源管理と沿岸コミュニティの生活をどう両立させるかが課題でした。
制度面では、域内の物・人・サービス・資本の自由移動を実現する「単一市場」の実装が最大のテーマでした。関税撤廃後も、各国の規格・検査・認可・公共調達・サービス規制が事実上の障壁として残っていました。1986年の単一欧州議定書は、300点以上の指令・規則を一括整備し、相互承認原則や多数決採決の拡大で意思決定を加速します。同時に、環境基準や労働安全、消費者保護など「競争の公正さ」を担保する水平的政策が導入され、単一市場は単なる自由化ではなく、共通ルールを通じた秩序ある統合として設計されました。
拡大と単一市場の推進は、通貨・為替の安定とも不可分でした。1972年の「通貨の蛇(スネーク)」は不安定でしたが、1979年の欧州通貨制度(EMS)は為替変動を一定範囲に管理し、ECUという計算通貨が導入されます。為替の安定は、域内投資と企業の計画可能性を高め、単一市場の実効性を下支えしました。こうして拡大は、制度の「深まり(ディーペニング)」と同時進行で進んだのです。
経済的効果と摩擦:CAP・予算・通商圏の再編
拡大は経済に多面的な影響をもたらしました。ポジティブな面では、貿易創出効果により域内取引が増え、規模の経済と競争が強まり、生産性の向上や消費者選択の拡大が見られました。英や南欧の市場が加わることで、金融・サービス・自動車・機械・食品といった産業のサプライチェーンが欧州規模で再編され、直接投資が活発化します。大学・研究機関・企業をつなぐ共同研究枠組みも整い、技術革新の速度を高めました。
一方で、摩擦と調整コストも顕著でした。CAPは価格支持と市場介入を柱としていたため、加盟国の農業構造の違いが財政負担に直結しました。英の「払い過ぎ」問題は、域内での受益と負担の永続的な調整課題を浮き彫りにしました。南欧のインフラ投資や産業転換には時間がかかり、短期的には域内競争で弱い部門が打撃を受けました。失業や地域間格差に対応するため、社会基金・地域基金の規模が拡大し、予算の構造そのものが変化します。
域外との通商では、EFTA諸国との関係再設計が必要になりました。段階的にECとの自由化が進み、のちに欧州経済領域(EEA)で単一市場の多くを共有する枠組みが整います。また、旧植民地やアフリカ・カリブ海・太平洋(ACP)諸国との関係は、1975年のロメ協定に象徴される特恵貿易・援助の組み合わせで再構築されました。これは、拡大による対外関税の一本化が第三世界にもたらす影響を緩和し、安定的な輸出収入を確保する仕組みでした。漁業・農産品・繊維などセンシティブな品目では、数量枠・ルール・原産地規則をめぐる細やかな調整が続きます。
政治経済的には、意思決定の複雑化が避けられませんでした。加盟国の多様化は合意形成を難しくし、全会一致原則はしばしばボトルネックとなりました。単一欧州議定書以降、単純多数決や特定多数決の拡大で対応しましたが、国家主権と共同体法の優位のせめぎ合いは常に続きます。欧州議会の権限強化や欧州司法裁判所の判例も、単一市場の一貫性を担保するために重要な役割を果たしました。
ECからEUへ:1990年代の拡大・深化と「拡大EC」の射程
用語としての「拡大EC」は、とくに1970~80年代の九~十二か国体制を指すことが多いですが、制度史の上では1990年代の展開がその延長線上にあります。冷戦終結後、1992年のマーストリヒト条約でECはEU(欧州連合)へと転化し、経済共同体を超えた三本柱(欧州共同体・共通外交安全保障・司法内務協力)を掲げました。1995年にはオーストリア・スウェーデン・フィンランドが加盟し、「十五か国体制」となります。これらはEFTA出身国であり、ECとEFTAの二つの欧州統合の流れが収斂した象徴的出来事でした。
通貨統合への歩みも、拡大と深い関係があります。単一市場の完成は資本移動の自由を伴い、為替の不安定は統合の果実を損なうため、より強固な通貨協力が必要になりました。マーストリヒト条約は単一通貨導入の収斂基準を定め、1999年にユーロが導入されます。これはECUとEMSの延長にあり、拡大が制度の深化を押し出した典型例でした。シュンゲン協定による域内国境管理の緩和も、単一市場の自由移動を実質化する装置として広がりました(当初はEC法域外の政府間協定として出発)。
1990年代の拡大は規模としては小さい一方、制度統合の密度は高まりました。加盟国の経済構造の違い、福祉国家のモデルの差、外交安全保障の志向の違いが交錯するなかで、法と政策の「ヨーロッパ化」が進み、各国の国内法制や行政運用に共同体法の影響が浸透します。これにより、域内企業はより予見可能なルールの下で活動できるようになり、市民は越境労働・学習・居住の選択肢を広げました。
こうして振り返ると、拡大ECは単なる「人数の増加」ではなく、制度の再設計と政治的合意形成の持続的な試みでした。英の加盟をめぐる長い交渉、南欧民主化を支える経済的包摂、単一市場を実体化するための規格・基準・通貨協力、予算と地域政策の再配分、対外関係の再構築――これらが有機的につながり、欧州の統合は〈広がり〉と〈深まり〉を同時に手にしたのです。以後の東欧・中東欧の大規模拡大(2004年以降)はEUの出来事ですが、その土台は1970~90年代の拡大ECが築いた制度と経験にありました。拡大は欧州の地図を書き換えると同時に、統治のやり方そのものを更新するプロセスだったと言えます。

