カスティリオーネ(郎世寧) – 世界史用語集

カスティリオーネ(Giuseppe Castiglione, 1688–1766)は、清朝の宮廷に仕えたイタリア出身のイエズス会士で、漢名を郎世寧(ろうせいねい)といいます。康熙・雍正・乾隆の三代にわたり、宮廷画家として肖像、動植物、行幸図、戦功図など幅広い作品を残し、西洋の遠近法や陰影法(キアロスクーロ)を中国の工筆(ていねいな線描)・設色・紙絹の支持体と融合させました。彼の絵画はしばしば「中西折衷」と称されますが、単なる折衷ではなく、皇帝イメージの演出、儀礼空間の設計、帝国の多民族支配の表象といった政治的・文化的課題に応える実用性を備えていた点が重要です。代表作には『百駿図巻』、『雍正帝像』『乾隆帝像』、西洋式庭園(円明園・長春園の西洋楼)に関わる設計・装飾、乾隆期の『平定准噶尔回部得胜图』(勝利図)の版画プロジェクトなどがあり、18世紀清朝の「視覚と権力」の結節点に位置づけられます。本稿では、出自と来華、宮廷での役割、技法と作品、建築・機械芸術との関係、図像政治への貢献、受容と影響、用語上の注意を整理し、郎世寧の全体像をわかりやすく解説します。

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出自と来華:ジェズ教養成から北京宮廷へ

カスティリオーネは、イタリア北部ミラノ公国圏の港町ジェノヴァやミラノ周辺で活動した画家の系譜に連なる人物で、若くしてイエズス会に入り、宗教的訓練とともに絵画・装飾・工芸の実技を学びました。イエズス会は布教とともに科学・技術・芸術を携え、アジア各地の宮廷と知的交流を行う伝統があり、清朝とも数学・天文学・測量・暦法や銃砲・機械技術を通じた関係が築かれていました。1715年、彼は宣教師画家として北京に到着し、宮廷の図画処に配属されます。初期には康熙帝のもとで装飾と小規模の絵画制作に従事し、雍正朝で本格的に登用され、乾隆朝で頂点に達しました。

来華当初から、彼は自らの技法を押しつけるのではなく、宮廷の審美と儀礼の要請に合わせて表現を調整しました。紙や絹に岩彩・膠彩を施す中国画の材質、巻物・軸物としての鑑賞形態、祝儀・儀礼・年中行事の図像化の慣行を尊重しつつ、必要に応じて油彩的な陰影、空気遠近、点景の処理を導入したのです。彼の柔軟さは、異文化の技法を機能的に融合させる能力として、宮廷で高く評価されました。

宮廷画家としての役割:三帝に仕えた「視覚の技術者」

郎世寧は、単独のスタンドアロン作家というより、宮廷の大型プロジェクトを担う「視覚の技術者」でした。図画処・如意館と呼ばれる制作部署で、中国人画家たち(冷枚・沈源・丁観鵬・呉友如など時期により異なる)とチームを組み、下絵・彩色・仕上げを分担します。彼が得意としたのは、皇帝の威儀を損なわず写実性を高める肖像、飼育馬・珍禽異獣の生命感を生む動物画、建築空間と庭園に合う装飾画、戦功や巡幸の大画面構成でした。製作過程では、素材調達、絹の張り込み、顔料の選択、金箔・金泥の使い分け、保存環境の管理にも目配りし、作品の耐久性にも配慮しました。

皇帝肖像では、雍正帝・乾隆帝の正面像・半身像・狩猟姿・民族装束姿など、多様な役割像が制作され、朝賀や祭祀、外交贈答、宗廟安置など使用場面に合わせてサイズ・構図・装飾が決められました。写実的な陰影や衣文表現は「肉身性」を与えつつ、顔貌は理想化・典型化され、帝徳の象徴が損なわれないよう調整されています。

技法と作品:『百駿図』から花鳥、肖像、行幸・戦功図まで

郎世寧の代名詞として挙げられるのが、雍正朝期に描かれた『百駿図巻』です。長巻の中にさまざまな毛色・体格・姿態の馬が散策・休息・群れの動きで配置され、背景の樹木・岩・建築が西洋の空気遠近と中国の山水記号の中間に位置する表現で描かれています。馬体の筋肉や毛並みの陰影は極めて丁寧で、西洋油彩の観察力を、膠彩の層と筆致で置き換える工夫が見られます。中国の伝統的馬画(韓幹系譜)に対し、立体感と量感を加えた新鮮味が当時話題になりました。

花鳥・博物図でも、彼は写生帳を作り、実見にもとづく色彩と形態の再現を試みました。牡丹・蘭・菊・石榴・葡萄などの植物、珍禽・猛禽、犬・猫・象・麒麟(想像上の聖獣の図像的整序も含む)まで、宮廷の収蔵・献上品・動物園的飼育の対象を視覚化し、図鑑的精度と装飾性を両立させています。背景の器物(磁器・青銅器)や織物の文様表現には、工芸意匠のカタログとしての側面もあり、宮廷工房の制作に還流しました。

行幸図・狩猟図・閲兵図では、遠近法を穏やかに効かせつつ、行列の秩序・旗幟・装束の差異を正確に描き分け、帝国の統一と多様性を一画面に示します。乾隆期の『平定准噶尔回部得胜图』に連なる勝利図版プロジェクトでは、戦闘・占領・受降・行在などの場面が選び取られ、のちに銅版画として欧州で彫られて北京へ逆輸入されました。これにより、ヨーロッパの銅版彫刻の精密な線描と陰影が清朝の公的図像に導入され、帝国の軍事的威信を広範に流布する効果が生まれました。

建築・機械芸術と庭園:円明園の「西洋楼」と水の技術

郎世寧は絵画にとどまらず、庭園建築と機械仕掛けの演出にも携わりました。円明園・長春園に造営された「西洋楼」は、ヨーロッパ風のファサード、柱列、アーチ、噴水、機械仕掛けの水時計や自動人形などを備え、皇帝の余暇と来客の饗応、儀礼的パフォーマンスの舞台として機能しました。設計と装飾には、もう一人の宣教師画家ジャン=ドニ・アテレ、技術者ミシェル・ブノワら同僚の手も加わり、透視図的な立面図、現場での型板(テンプレート)や実測、石工・木工・瓦工の工法が総合されました。

噴水の水理設計は、宮廷の水利・天文学・時計学に通じた宣教師たちの得意分野で、重力落差と配管、ノズルの形状、圧力の調整、季節による凍結対策が検討されました。郎世寧自身は画家として、建築と水景が視覚的に最も映える角度を設定し、壁画やタイル、天井装飾のデザインを提供しました。円明園の西洋楼は後年、戦乱で破壊の憂き目に遭いますが、図面と残存遺構は18世紀清朝の「遊楽と権威の劇場」の一端を今に伝えています。

図像政治と多民族帝国の表象:服飾・儀礼・異民族像の設計

清朝は満洲族を基盤とする多民族帝国であり、モンゴル・チベット・新疆・青海・西南の諸部族・チベット仏教界との関係を巧みに編成する必要がありました。郎世寧が関わった肖像・行幸図・貢献図・狩猟図には、満洲衣冠だけでなく、モンゴル・チベット・回部(ムスリム)・漢人官僚の服飾が秩序立てて描かれ、皇帝が多様な世界を統御する姿が可視化されています。写実性は、遠方の臣民や外国使節に対して「帝国の規格」を示す教材としての機能も持ち、礼部・兵部・理藩院の行政文書と視覚資料が連携する体制が整えられました。

皇帝の狩猟像や騎射像は、満洲の武(ブ)の徳を強調しつつ、ヨーロッパ的身体表現で若々しさと力感を補強します。宗教儀礼の場面では、仏教・道教・儒教の象徴機能が慎重に配置され、政治的に中立な「装飾」に見えつつ、帝国のイデオロギーに奉仕する周到さが読み取れます。

受容・協働・影響:中西の目が交わったアトリエ

郎世寧の仕事は、彼個人の才能のみならず、宮廷の協働システムに支えられていました。中国人画家たちは彼の陰影・透視を学びつつ、彼は彼らの筆墨・構図慣習・宣紙絹本の扱いを学びます。結果として、冷枚・丁観鵬らの作品にも柔らかな陰影や西洋風の器物描写が見られるようになり、逆に郎世寧の画面には筆線の韻律や留白の妙が増しました。この往還は、のちの「宮廷洋画」の系譜として定着し、乾隆期の銅版画・琺瑯彩・玻璃画(ガラス裏彩)・珐琅彩磁器など、多様なメディアに波及しました。

宮廷外でも、商業出版や職人世界に西洋的陰影・器物写生の語彙が浸透し、都市の装飾・工芸・舞台美術に影響が現れます。他方で、文人画壇では「形似」に偏ることへの警戒もあり、董其昌以来の南北宗論や筆墨論が再活性化する契機にもなりました。つまり、郎世寧の受容は一様ではなく、賛否と選択の過程こそが18世紀の美術史を豊かにしています。

信仰者としての側面と終焉:宮廷と修道の両立

宣教師としての彼は、布教を露骨に前面化することを避け、宮廷の信頼を損なわない形で日常の徳と奉仕を通じて信仰を証ししました。礼儀論争(典礼問題)後の微妙な局面でも、科学・芸術の貢献を通じて滞在許可を維持し、仲間の宣教師たちと協働しました。晩年まで制作を続け、1766年に北京で没すると、朝廷はその功労を称え、葬儀と墓所に配慮しました。彼の死後も、アトリエの語彙は残り、乾隆後期まで宮廷絵画・工芸に影響を与え続けました。

用語と学習の留意点:作品名・表記・史料の読み方

カスティリオーネは欧文表記でGiuseppe(ジュゼッペ)・Castiglioneと綴り、漢名は「郎世寧」です。作品名は『百駿図』『平定西域戦図』『雍正帝行楽図』など、バリエーションと異名が多く、巻物・軸物・冊頁・屏風で形態が異なります。円明園西洋楼に関する史料は、同時代の図面・版画・日記・公文書に加え、後代の復元・写真資料があり、破壊と散逸の歴史を踏まえた批判的読解が欠かせません。乾隆の勝利図版は、北京で下図が作成され、パリの版画家が彫り、再び北京で刷られたという越境制作の経緯があり、国際的な工房ネットワークの事例として重要です。

また、「中西折衷」という便利な言葉に頼りすぎると、宮廷の発注条件、材質・保存、鑑賞空間、政治的文脈が見えにくくなります。作品を、誰の注文で、どこに掛け、誰が見て、何を伝えるために作ったのか—具体的な問いに引き戻すことが、郎世寧理解の近道です。

総括:視覚の翻訳者としての郎世寧

カスティリオーネ(郎世寧)は、単に「西洋画法を東方に伝えた人」ではありません。彼は、皇帝国家の要請に応じて、素材・形式・儀礼・空間・政治を横断的に調停し、機能する美を生み出した「視覚の翻訳者」でした。紙と絹に油彩の光を移植し、満洲の武徳にイタリアの肉感を与え、庭園に水と光のからくりを仕込み、帝国の多様性を秩序だった画面に編み込む—それが彼の職能でした。だからこそ彼の作品は、今日見ても異国趣味にとどまらず、制度と生活の交差点を照らす現実感を保っています。18世紀北京のアトリエで交わった筆と定規、顔料と水、礼と技の軋みと調和を辿るとき、郎世寧という名は、グローバル美術史の中で今なお新しい問いを投げかけ続けているのです。